摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

宇陀水分神社 中社(上宮/ うだみくまりじんじゃ:宇陀市菟田野古市場)~国宝の社殿や薬の井のある水の神

2022年02月19日 | 奈良・大和

 

日本書紀推古天皇十九年に、菟田野に薬狩(鹿の若角をとり薬用にする)に出かけた話がありますが、その際に天皇が身を清めたとされる薬の井が今も枯れることなく湧き続ける名水で知られる宇陀水分神社です。この「延喜式」式内社を自称する神社は、実際は当社と榛原下井足の「宇陀水分神社下社(下宮)」、そして菟田野上芳野の「惣社水分神社(宇陀水分神社上社)」の三社が有りますが、確定的な資料はないものの、この菟田野古市場の中社に比定するのが穏当とされています。薬の井も当社にあります。

 

・国道166号線よりの大鳥居

 

【ご祭神・ご由緒】

第一殿に天水分神、第二殿に速秋津比古命、そして第三殿に国水分神がお祀りされています。この神々は、「古事記」の伊邪那岐命と伊邪那美命の神生みで生まれたと書かれています。まず、水の出入り口の神、速秋津比古命がお生まれになり、そして速秋津比古命と続いて生まれた速秋津比売命の間に、水の分配を表す天水分神と国水分神がお生まれになりました。

当社の説明では、沿革の最初として、崇神天皇七年に天皇の勅命により祀られた伝えがあるとされます。これは記紀の太田田根子命に大物主神を祀らせる話の後の、゛また坂の稜線部の神および河の瀬の神に至るまで、すべて落とし忘れることなく、供え物を献上した゛(「古事記」)や、゛そこで別に八十万の群神を祀った。よって天社・国つ社・神地・神戸をきめた゛(「日本書紀」)にあたると思われます。ただ、当社の説明で゛大和朝廷が飛鳥に置かれたころ゛との表現が気になります。一般には崇神天皇の宮は磯城地域だとされるのと合わないからです。

 

・境内。駐車場側から撮ったもので、わりとこじんまりします。

 

【神階・幣帛等】

「新抄格勅符抄」に平城天皇の806年に神封一戸が奉られ、「続日本後記」では840年に従五位下、「三代実録」では859年に正五位下と神階が進められたことが記録されています。延喜の制では葛城、都祁、吉野の水分社と共に大社となり、祈雨神祭八十五座に加えられました。

 

・拝殿

 

【歴史・比定】

当社が式内社比定の第一候補に挙げられる理由は、郡名の出所と考えられる宇陀野のほぼ中央に位置する事、そしてここは芳野川の上流にあたるとともに芳野川への緒川の合流点に近く水分神社にふさわしい事、三社のうちで最も古い繁栄の記録を持つ事等だと、「日本の神々 大和」で小田基彦氏が述べられています。「社記」「宇太旧事記」「水分由来集」らの書物によれば、「玉岡水分神社」「玉岡上宮」「西殿上宮」「上の水分社」とも呼ばれていたようです。

「奈良県宇陀郡史料」によれば、天文年間に市がこの地に移されて古市場の呼称が起こり、元禄年間の検地帳には記されてました。社蔵の「水分神領図」(1292年か)に「上水分宮西殿」と書かれてるそうです。「中臣祐定記」によると、鎌倉初期の西殿庄は春日若宮御節供料であり、「宇陀郡田地帳案」(1406年)には゛一西殿庄 定二十四町六反 分米百三十六石此内 一町八反 水分御領゛と書かれている事も、先の小田氏は留意されます。

 

・本殿三殿。向かって右より、第一殿、第二殿、第三殿と連なる様が「みくまり造」と呼ばれます

 

「水分由来集」の中に、当社と下井足水分山の宇太水分神社をもって二社一宮とする説が記されますが、「延喜式」の宇太水分神社は一座です。小田氏は、下井足の地が芳野川と宇陀川の合流点であり水分にふさわしい事から、そこに当社の分霊が祀られるようになり、後に二社が共に隆盛となって、本末争いを起こさないように二社一宮説が作為されただろう、と考えられます。そして別に分祀した上芳野の水分社も繁栄すると、さすがに三社一宮説は立てにくく、「水分由来集」にあるような、和州高水分山(高見山)の水分神が、上芳野→古市場→下井足と順に鎮座したとする祭神巡歴説が唱えられただろう、との事です。

 

【鎮座地、発掘遺跡】

芳野川の右岸、水分山(玉岡山)の麓に西面します。前は伊勢南街道で、背後の丘陵の尾根には円墳の宮山一号墳・二号墳があります。

 

・春日神社

・宗像神社

 

【社殿、境内】

本殿は鎌倉時代元応二年(1320年)の建立の隅木入春日造で、隅木入りの最古の事例であり、国宝です。大正十年の修理の際、第一、二殿の横木に、それぞれ元応二年(1320年)、永禄元年(1558年)などの黒書銘が発見されています。さらに、末社の春日神社(春日造)と宗像神社(一間社流造)は室町時代末期の建立で、いずれも重要文化財です。

 

・本殿第一殿。隅木は庇柱の奥で見えませんが、奇麗な蟇股などの装飾が見れます

 

境内の遺物ですが、「頼朝杉」は樹齢400年近くの杉で、現在のものは二代目だそうです。源頼朝が幼少の時に当社に祈願し、杉の苗木が大きく育てば自分も天下を治める将軍になるだろうという願いで植えさせたものが初代だと伝えられています。

 

・頼朝杉(二代目)

 

「薬の井」は、第一殿の後ろの丸石の石垣の根元に、岩盤の間から落ちるしずく水を溜めています。推古帝薬狩の由緒により、薬を服用する時にこの水で飲めばいっそう効き目があるとか、祈祷してこの水を田に注げば水の心配はなくなると信じられています。

 

・ご神水

 

「有霊石」は一部が地表に露出した青味がかった矩形の石。「山の神」とも呼ばれ、高見山遥拝の霊石と伝わります。昔、女人が丑の刻(うしのこく)参りをしたとき、この石に人形を打ち付けたが釘が入りませんでした。しかし、そばにあった欅の木の幹に打ち付けたところ、願いがかなえられたと信じた、という話があるそうです。弁慶の力石とも伝わります。

 

・有霊石

 

【伝承】

東出雲伝承で当社に関する記述はなかったと思います。ただこの宇陀地域は、元々三輪山をその南方から祭祀していた出雲からの移住民が、2~3世紀の九州東征勢力の圧迫によって、移り住んできたという話が良く出てきます。そもそも在来系出雲人が信仰していた三輪山を遥拝する鳥見山(古くは登美山)が宇陀地域にもあるのは、その為だと説明しています。なので、崇神天皇が祀った八十万の神とは、3世紀に九州勢力が制圧した出雲系の神々の事ではないかと感じています。

また、「仁徳や若タケル大君」で富士林雅樹氏が、推古天皇は出雲系の御方だと書かれています。それは祖父が(一般にはそのような話はされませんが)旧東出雲王家出身で北陸の国造に婿入りされた御方だからと思われます。女帝の母型の家系も、その旧王家と古くから付き合いが有ったと、斉木雲州氏が「出雲と蘇我王国」で書かれています。

 

(参考文献:宇陀水分神社公式HP、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、「角川日本地名大辞典」、谷川健一編「日本の神々 大和」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、佐伯有清「日本古代氏族事典」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元版書籍


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