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国を経営体とみなすと、愛国心教育・英語教育・・・帰属感の混乱と創造力の低下

2006-05-23 09:53:32 | 基本的なコト
愛国心とか、英語教育とか、付け焼刃の国際化対応は、
この生活文化の固有性を失う方向へ向かわないか?

国を経営体とみなすと、社会関係は契約関係に単純化され、
帰属感の対象として、コミュニティが希求される。
市場社会での帰属表現は、帰属対象の差異の消費活動として顕在化し、
国際市場での消費活動となる。
市場社会での差異の創造力は、国際共通語による流通促進よりも、
地域言語、つまり国語による、地域特殊性の保持にあるのではないか?

国語に弱くなるのは、結果として国際市場での創造力の低下につながり、
大切に思う国の経営を弱くするのではないか?


<詳細>
今、愛国心教育と、英語教育という相反する要素が同時に
小学校に持ち込まれようとしている。

愛国心とは、概念としての共同体の話、
英語教育とは、国際市場社会での共通語の話、
一方は、国という地域や民族・文化へ凝縮しようという観念だし、
他方は、分散・流動化のための手段であり、愛国を支える国語の軽視である。

国家論、教育論と、個別に論じれば、
それぞれ膨大な知見や立場、方針が打ち出されるだろう。
しかし、単純に、国を経営体に見立て、
国際社会の中での存続のために、
企業帰属心としての愛国心と、市場活動のための言語学習を
同時並行させるという手練手管ではないかと、読めてくる。

冒頭の図の帰属心の関係位置から考えると、
近代化・工業化・都市化と交通・通信・情報技術が発展・普及してゆくと、
身体・地域、家族・村などでの空間的に持続する関係が薄れ、
交換されうるものとしての市場関係が強くなってくる。
情報ネットワーク社会が現実化してくると、
従来の家族・血族・民族や企業・国家などの社会関係が、さらに薄れる。

一方、市場社会における利益追求組織である企業体では、
組織と個人との関係も、契約による条件次第で不安定になる。
社会的存在である人間個人は、希薄になり不安定になった社会関係を補おうとして、従来の社会組織とは別の、”コミュニティ”を希求することになる。
 参照:
  コミュニティ - グローバル化と社会理論の変容
  想像の共同体 - ナショナリズムの起源と流行

このコミュニティというコトバとともに、旧来の社会関係や、
ネットワーク上での意識・感性共通性を、安定化の手がかりにしようとする。
しかし、それが歴史的に・地域的に、占有・固定された社会関係への郷愁であり、
その利権を手にいれていれば、たとえ僅かな遺産だろうが地位だろうが
守る側にまわる。
また、持てないと思うものは、
社会関係における権利の小ささと義務の大きさを放棄して、
コミュニティを理想化し、現実化を先送りする。

国家を、幻想でも理念の共同体でもなく、
世界市場での経営体として割り切っても、
国語を削ってでも、国際語としての英語を基礎教育するのは順序が違う。
日本風土の特質をまず国語で身につけて、英語教育は、その後だ。
社会人への英語学校支援が、小学校の基礎表現時期から始まると
言語能力の喪失につながりかねない。

市場経済の言葉で、競争力を語れば、
市場商品の希少価値とは、コモディティとの差異なのだから、
英語による文化流動性が高まれば、
生産する文化商品の希少性は低くなるのではないか?
工場労働者よりも思考する協働労働者を求めるなら、
自然・風土で醸成された密度の高いコミュニケーションを可能にしてきた
母国語をおろそかにしていいはずはない。

この母国語は、象形・表意文字の多重言語であり、
音声・図象にたいする稀有な感性を持っていることは
カラオケ・コミック・アニメを輸出してきた実績で裏付けられている。

欧州では、セルティック(ケルト)文化の土壌にローマ文明が普及したように、
日本列島では、この地勢・風土に近代文明が育った。

素直に教育を考えるなら、
進学・受験体制という、科挙制度と脱亜入欧時代の形骸を、
構造改革することだろう。

国を開きつつ、特殊な意識を包含する生活文化を維持しようとするとき、
愛国という観念と英語で役に立つのは、
ワールドカップでの自国チームの応援みたいなものではないか?
これは、想像の共同体ではなく、消費の共同体に近づいてしまう。

現実の共同体である、ソサエティに代わることはないかもしれないが、
共感と創造の共同体としてこそ、コミュニティは希求されるのではないか?

アーバン・トライバル・ライフ


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