
1271年10月10日に厚木の依知を発たれた日蓮聖人は、実に12日間(!)歩き続けて越後寺泊に到着された、と寺泊御書にあります。
(↑画像は依知の妙純寺)
日蓮聖人がどういう経路を辿って寺泊に至ったのか、定説はないようです。
ただ寺泊御書には「道の間の事 心も及ぶ事なく 又筆にも及ばず 但暗に推し度るべし」とあり、相当、辛い道中だったと思われます。

僕が初夏に訪問した藤岡市にある下栗須祖師堂のお上人のお話では、藤岡のあと碓氷峠を越えて長野を経由し日本海側に出たようだ、ということでした。

鎌倉時代、越後国の中心は今の新潟市あたりでなく、国府のあった今の上越市あたりだったそうです。
これは上越市の埋蔵文化財センターに掲示されていた鎌倉時代の主要都市と街道の図ですが、藤岡あたりから碓氷峠を越え、善光寺を経由して越後府中に至るルートが当時はメジャーだったことがわかります。

日蓮聖人が初めてご覧になった日本海・・・どんな風景だったのでしょうね。

現存する日本海側で最初のご霊跡といわれる場所は、出雲崎町の久田という集落の一画にあります。

水が乏しく困っている村人のために、日蓮聖人が地面を手堀りされたところ、こんこんと水が湧いたといわれる井戸です。
よく清められていました。維持して下さっている方々に感謝です。
そこから7~8kmでしょうか、海沿いの国道を北上すると寺泊の町に至ります。

市場通りと呼ばれるあたりはいつも観光客でごった返して活気があります!

市場通りから一本山側に通る道沿いに、松が植えられ、歴史の香りがプンプンする一画があります。

ここが正面みたいですね~。

門に扁額が掛かっているけど・・・読めない(悲)
日蓮聖人のご尊像に合掌。

ちょっと他では見たことがない、鬼気迫る表情のお祖師様だぞ!
お像は「日蓮聖人獅子吠像」と呼ばれ、誤った見解を打ち破り、正しい見解を打ち出すという意味の「破邪顕正」を訴えているお姿だそうです。

この場所にはもともと石川右衛門尉吉廣という方のお屋敷がありました。
日蓮聖人は寺泊から船で佐渡に渡ろうとされたようですが、風が悪く、石川右衛門尉吉廣公の屋敷に一週間、風待ちのために滞在したと言われています。

この小さなお堂の内部には井戸があるそうです。この井戸水を使って墨を擦り、富木常忍公に宛てて寺泊御書をしたためられた事から、「硯の井戸」と呼ばれています。
今も現役の井戸らしいですよ!

日蓮聖人獅子吠像や硯の井戸がある一画から道を挟んだところにはお堂があります。

寺泊祖師堂です。

一週間の宿を提供した石川右衛門尉吉廣公は、その間に日蓮聖人に教化を受け、改宗したそうです。
のちに屋敷跡にお堂を設け、祖師堂としました。

ピンぼけで申し訳ない(笑)
堂内には寺泊御書が額になって掛けられていましたよ。

先程の寺泊御書、冒頭文の続きはこうなっています。
「又 本より存知の上なれば 始めて嘆くべきに非ずと 之を止む」
(困難はもとより承知の上なので、今さら嘆くべきではない。述べるのは止めておく)
これまでの道中についても、これから佐渡に渡ってから起きる困難も、日蓮聖人はすでに覚悟していたのでしょうね。

獅子吠えの日蓮聖人像の台座には、佐渡に着かれてすぐに執筆を始めたといわれる開目抄の三大誓願が刻まれていました。

もう寺泊の時点で、日蓮聖人の頭の中ではこれらの決意表明が出来上がっていたのではないかな?
そう感じさせる迫力、エネルギーが、この一画には溢れていましたよ!