「山頭火」UPデフォルメ
<日々余話>
<ヴァーチャル・キャラ & なりすまし>
とうとう一週間のご無沙汰となってしまった。
それまでは三週近く、ほぼ毎日のように何かしら書いていたのに、
先週の我がブログは開店休業が続いてしまった。
なぜリズムが狂ったのか、心あたりは二つある。
一つは、些か私的に過ぎることなのでここで披瀝しないほうがいいだろう。
二つには、Echoo事務局広報の「ユーザーグループ主導のプロジェクト企画の取り扱いについて」に報告された事件の推移と処理に注視せざるを得なかった所為である。
一週間注視しつづけたなかで、私なりの問題意識は一応の整理もなったし、私見として事務局広報記事やToshikiさんの記事に概ねコメントしたので、重ねて言及しない。
ここでは、事件で取り沙汰されたなか問題ともなったキーワードである<ヴァーチャル・キャラ>や<なりすまし>について少しく思うところを書いてみたい。
<なりすまし>の場合、他人のIDを利用してネットワーク上で行う行為だし、この他者が当然その事実を知らない・知らされていないことを前提としているから、重大な違法行為となるだろう。
では仮に、相手との信頼関係の上にたって、もちろん相手の了解の許に、そのIDを利用して活動した場合、これをも<なりすまし>と見做されるのかという問題が残りそうだ。
言うなれば<なりすまし>ならぬ<なりかわり>とでもいうべき場合がありうる。
この場合をも違法・違反行為として摘発されべきか否かと問えば、否といわざるを得ないだろう。
取り沙汰された事件においても、本人の了解の許に為された行為だったようだから<なりすまし>というよりは<なりかわり>というのが事実に近い。
ならば問題になるとすれば<なりかわり>の行為によってもたらされる諸現象への評価という次元であろうし、それは倫理的にのみ問われるしかないというのが私の考えだ。
<ヴァーチャル・キャラ>とはたかだか仮想キャラクターというほどの意味でしかないが、これなくしてはゲーム世界が成り立たぬくらいだし、もちろん違法性などあり得ない。
ネット上では特定のグループや個人が積極的に<ヴァーチャル・キャラ>を創りあげてひろく関心を集める手法としてよく用いられもする。
ところで、ネット上で利用するハンドルネームは基本的には愛称のごときものではあろうが、ある意味で<ヴァーチャル・キャラ>に通底しているのではないだろうか。
SNS-ソーシャルネットワーキングシステム-においても、実名ではなくこのハンドルネームでお互いにコミュニケーションするのが一般的スタイルなのだが、お互いに直に対面することなく記述された言葉のみで紡がれていく関わりの織り模様が、仮想領域そのものではないか。
但し、私は仮想世界だからリアリティーがないのだなどと言っているのではない。アクチュアリティ(現実性)からは些か遠いかもしれないが、リアルなのだこの世界も。
アクチュアルな感覚からすれば、やはり人が有する五感すべてをお互いに働かせつつ交わりあうことが必要だろう。そういう意味でネット世界はアクチュアリティから遠いといわざるをえない。だが、リアリティの次元はそんなところにはない。アクチュアルかヴァーチャルかとは関わりなく、リアルか否かは問われつづけられなければならないのだ。
そもそも私などには、人が他者と関わり交わる場合、つねに<擬態>を重ねていくものだという認識がある。<擬態>とはミミクリ(模倣性)に近いものとして捉える限りにおいて、そういえるのではないかと考えている。ヒトが人として自己の確立をしていくこと自体において、いってみればヒトの成長過程そのものが、<擬態>の積み重ねのようなものだというわけだ。
さらにいえば、私を知る他者のひとりひとりが私というものをどのような人として観ているのかを、私は知らないし、確たることとしては知りようがないのだから、私は他者から観られた私の<像>を知りえない。その観られた私の<像>が実像か虚像かも判別しようがない。いや実像、虚像というけれど、そんな区別もほんとうのところはつけようがない。
すでに、このネットのなかで、約半年のあいだ私が重ねつづけた<擬態>の結果として、私のブログを読まれる他者のひとりひとりが、私に対してどんな<像>を描いているかを想像すれば、<四方館>という私の知りえぬいくつもの<ヴァーチャル・キャラ>がこのネット上を跋扈していることだろうと思われるのだ。
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<日々余話>
<ヴァーチャル・キャラ & なりすまし>
とうとう一週間のご無沙汰となってしまった。
それまでは三週近く、ほぼ毎日のように何かしら書いていたのに、
先週の我がブログは開店休業が続いてしまった。
なぜリズムが狂ったのか、心あたりは二つある。
一つは、些か私的に過ぎることなのでここで披瀝しないほうがいいだろう。
二つには、Echoo事務局広報の「ユーザーグループ主導のプロジェクト企画の取り扱いについて」に報告された事件の推移と処理に注視せざるを得なかった所為である。
一週間注視しつづけたなかで、私なりの問題意識は一応の整理もなったし、私見として事務局広報記事やToshikiさんの記事に概ねコメントしたので、重ねて言及しない。
ここでは、事件で取り沙汰されたなか問題ともなったキーワードである<ヴァーチャル・キャラ>や<なりすまし>について少しく思うところを書いてみたい。
<なりすまし>の場合、他人のIDを利用してネットワーク上で行う行為だし、この他者が当然その事実を知らない・知らされていないことを前提としているから、重大な違法行為となるだろう。
では仮に、相手との信頼関係の上にたって、もちろん相手の了解の許に、そのIDを利用して活動した場合、これをも<なりすまし>と見做されるのかという問題が残りそうだ。
言うなれば<なりすまし>ならぬ<なりかわり>とでもいうべき場合がありうる。
この場合をも違法・違反行為として摘発されべきか否かと問えば、否といわざるを得ないだろう。
取り沙汰された事件においても、本人の了解の許に為された行為だったようだから<なりすまし>というよりは<なりかわり>というのが事実に近い。
ならば問題になるとすれば<なりかわり>の行為によってもたらされる諸現象への評価という次元であろうし、それは倫理的にのみ問われるしかないというのが私の考えだ。
<ヴァーチャル・キャラ>とはたかだか仮想キャラクターというほどの意味でしかないが、これなくしてはゲーム世界が成り立たぬくらいだし、もちろん違法性などあり得ない。
ネット上では特定のグループや個人が積極的に<ヴァーチャル・キャラ>を創りあげてひろく関心を集める手法としてよく用いられもする。
ところで、ネット上で利用するハンドルネームは基本的には愛称のごときものではあろうが、ある意味で<ヴァーチャル・キャラ>に通底しているのではないだろうか。
SNS-ソーシャルネットワーキングシステム-においても、実名ではなくこのハンドルネームでお互いにコミュニケーションするのが一般的スタイルなのだが、お互いに直に対面することなく記述された言葉のみで紡がれていく関わりの織り模様が、仮想領域そのものではないか。
但し、私は仮想世界だからリアリティーがないのだなどと言っているのではない。アクチュアリティ(現実性)からは些か遠いかもしれないが、リアルなのだこの世界も。
アクチュアルな感覚からすれば、やはり人が有する五感すべてをお互いに働かせつつ交わりあうことが必要だろう。そういう意味でネット世界はアクチュアリティから遠いといわざるをえない。だが、リアリティの次元はそんなところにはない。アクチュアルかヴァーチャルかとは関わりなく、リアルか否かは問われつづけられなければならないのだ。
そもそも私などには、人が他者と関わり交わる場合、つねに<擬態>を重ねていくものだという認識がある。<擬態>とはミミクリ(模倣性)に近いものとして捉える限りにおいて、そういえるのではないかと考えている。ヒトが人として自己の確立をしていくこと自体において、いってみればヒトの成長過程そのものが、<擬態>の積み重ねのようなものだというわけだ。
さらにいえば、私を知る他者のひとりひとりが私というものをどのような人として観ているのかを、私は知らないし、確たることとしては知りようがないのだから、私は他者から観られた私の<像>を知りえない。その観られた私の<像>が実像か虚像かも判別しようがない。いや実像、虚像というけれど、そんな区別もほんとうのところはつけようがない。
すでに、このネットのなかで、約半年のあいだ私が重ねつづけた<擬態>の結果として、私のブログを読まれる他者のひとりひとりが、私に対してどんな<像>を描いているかを想像すれば、<四方館>という私の知りえぬいくつもの<ヴァーチャル・キャラ>がこのネット上を跋扈していることだろうと思われるのだ。
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