Information「四方館 Dance Cafe」
<身体・表象> -8
<菅谷規矩雄の「詩的リズム
――音数律に関するノート」からのメモ-1>
二十数年ぶりになるが一ヶ月あまり前から、菅谷規矩雄の表題の書を繰り返し読みながら、メモをとる作業をしている。
日本語としての言語表現たる詩のリズム論が、なにゆえ<身体・表象>を考えるに必然となるのかという疑問については、いまのところ確たることは言い難いのだが、私の仕事=身体表現の世界をじかにいくらかでもご存知の人ならば、なんとはなく心あたるものを感じていただけるかもしれない。
さしあたり菅谷の作業仮説ともいうべき本書の第一章「詩的リズム」より要約する。
-吉本隆明による跋から-
私には、和語の詩の韻律の問題は、音数律の構成的な美に帰するよりほか、すべがないようにおもわれた。それと同時に、言語の韻律を指示性の根源にあるもの、と定義するほかなかった。
本書において菅谷規矩雄は、この問題を、わたしなどが打ち捨てたところから遥かに遠くまで引っぱってゆくのに成功している。
菅谷がまったくあたらしく前提したのは、
等時拍である和語の言語的な特性と、詩歌の韻律としてあらわれるばあいの、音数律の時間的な長短との矛盾は、<無音の拍>で切り抜けられること、意味の時間的な流れには、<テンポの変化>が微妙だが存在することなどである。
この二つの前提があれば、音数律の長短は、ほぼ同一の時間性に収斂するすることが説明できるし、また詩歌の終りは、徐々にゆるいテンポによって大休止にいたる過程として説明しうる。
この着想は、たぶん詩歌を<韻律の意味化>と解する限り画期的なものであり、菅谷は詩の韻律の問題を、かつて何人もなしえなかったところまで普遍化したのである。
一、詩的リズム
01、定義について
リズムとは<時価の一定の組合せが、周期的にくりかえされることである>
言語-詩のリズムもまた、本質的に原理は時間性にもとめられるべきものであるが、
時価とはなにか、反覆はリズムの本質であるか-というふたつの反問を、根源的な問いとして見失わないこと。
02、時間-言語における
言語-詩における時間とは<観念-意識>としての時間性
03、構成力
リズムは二重の時間性からなる構造である-この二重性とは、
拍の等時的反覆と、それにたいする非等時的傾向性との相互作用が
表現-構造としてのリズムをうみだす
ふたつの相反する作用の矛盾が、その臨界点において、リズムの構成力たりえているということ。
04、等時的拍音
日本語のリズム特性は、強弱アクセントでも、長・短音節の組合せでもなく、等時拍であること。
05、群団化の標識-時枝説
リズム形式の群団化-音声の休止・間-構文の切れ目=文節と一致する
06、拍と音
初めの定義にもどって、反覆はリズムの基本的原理であるか。
07、五七五七七
岡井隆の直観-短歌形式の五七五七七の句分けは、明らかな長短リズムというよりは、等時的リズムを五回反覆したのに近いのではないか。
08、テンポの変化
音数=拍数の前提を保持しつつ、岡井隆の直観を裏付けようとするなら、<テンポの変化>を導入すればよいはずである。
狭井川よ 雲立ちわたり
畝傍山 木の葉さやぎぬ
風吹かむとす
狭井川よ-という初句の五音にたいして、霞立ちわたり-の七音は、より早いテンポで読まれるのではないか。三句と四句においても同様に。-そして最後の七音は逆にもっとゆるいテンポで。
09、無音の拍
日本語の詩的リズムにおいて、休止-無音の拍とテンポの変化は、もっとも本質的な構成力である。
10、変速-上限と下限
この変化の規則性-恒常的なる基準テンポと、それに対する変速の上限および下限が、想定されるべきである。
11、弾性化
詩的リズムの構成においては、各音節はいわば弾性化される。
-等時的拍音が、本来の時価の動態化=可変性へとひきよせられる。
その変化の許容度は、最小のリズム単位=二音節と、最大のそれ=五音節とが、1:1の時間比をなすと想定した場合からはかられる。
言いかえれば、2音節、3音節、4音節、5音節のいずれもが、1:1:1:1の時間比をなそうとする傾向を有するのである。
12、加速
-ツキモ、オボロニ、シラウオノ‥‥のごとく、3・4・5という規則的な音数増加が美的でありうるのは、
テンポの加速による快感に起因している。
-浜の真砂と五右衛門が、歌に残した盗人の、種は尽きざる七里ガ浜‥‥
と、3・4・5の加速パターンが周期的に反覆されていくのだが、
a-このパターンは、3・4・5・6‥‥とさらに音数を増加させないのか
b-三回目のパターンはなぜ、七里ガ浜-と6音になるのか
aの解明は、日本語の定型音律について、七五調がなぜ優勢にいたったかの解明につながり、
bに答えるは、リズムは作品の構成にいかなる作用をおよぼすか、作品の構成力としてどこまで機能しうるか-という究極的な問いにつながりうる。
――――――以下つづく
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