―表象の森― 嗚呼、シラフジアカネ
いやぁ、ビックリした。
4日前の8/29、土曜の夜のことだが、生駒山脈の北、飯盛山の麓は四条畷神社の近く、黄昏時のえにし庵ではじまった麿赤児VS梅津和時のLive Sessionに、突如、放り出されるように半裸姿で這い出てきたのは、誰あろうシラフジアカネ-白藤茜-だった。
そういえば、始まる前の会場を、車椅子に乗せられたぽっちゃりと小太りの男が、すでに酒に酔っているのか、あっちへ行ったりこっちへ行ったりとしているのを眼にしていたが、そうか、あの酔っぱらいが白藤茜だったのか‥。
それにしても、この懐かしいような既視感に満ちた光景は、どうしたことか。おそらく30年の時空を隔てたある一コマが、ここに再現されようとしているにちがいないのだが、それを在らしめんとする執着、それは妄執にも近いものだとしても、それを孕みうる白藤茜自身と、これを受容しうるばかりか、むしろ喝采をあげて享楽のタネにもしてしまおうという祝祭の場とは‥。これをしもEventの仕掛人石田博の胸の内にあったとすれば、彼の企図に脱帽しなければなるまい。
8/9の項でも記したが、麿赤児率いる大駱駝艦が、京都曼珠院横に設えられた盤船伽藍なる野外劇場で「海印の馬」を上演したのは、80年の秋であった。この時のポスター・チラシが掲げた写真だが、これをデザインしたのが石田博であり、ゲスト出演として白藤茜が名を連ねてもいる。
この特異な盤船伽藍なる野外劇場の建設も、60年代末より、元京都府学連委員長だった高瀬泰司らを中心に、西部講堂に拠った活動家たちの運動からひろがっていったネットワークの数多の者らが、手弁当の労働で大いに与ったものだった筈だ。それは87年の「鬼市場」の仕掛や設営にしても然りだったろう。
後に、幾たびかの海外公演や国内各所での再演で、大駱駝艦の代表作ともされる「海印の馬」という公演タイトル自体、この時に初めて使われているところを見れば、この名付けが、必ずしも麿赤児自身からではなく、この企画を発案し支えた者たちのなかから創案されたものではなかったか、とさえ思われる。
そういったことを背景にしてみれば、異形白塗りの麿赤児を前にして、左半身の麻痺が老いゆくとともに進行し、もはや自ら立つこともならず、また容易に這うこともならない不自由な五体を、ただ曝すばかりの白藤茜との対照、その競演は、夜の帷が降りゆき、雲隠れしては顔を出す半月の下、篝火と二つ三つのスポットに照らされて、夏の名残の夜の夢幻のひとときか、胸中去来するもの曰くなんとも言い難し‥。
―山頭火の一句― 昭和5年の行乞記、10月23日の稿に
10月24日、雨、滞在、休養、宿は同前-富田屋-
雨、風まで吹く、同宿者7人、みんな文なしだから空を仰いで嘆息してゐる、しかし元来ののんき人種だから、火もない火鉢を囲んで四方八方の話に笑ひ興じる。-略-
長い退屈な一日だつた、無駄話は面白いけれど、それを続けると倦いてくる、-略-
晩酌には、同病相憐れむといつた風で、尺八老に一杯おせつたいした、彼の笑顔は焼酎一合のお礼としては勿体ないほどよかつた。
明日は晴れる、晴れてくれ、晴れなければ困るといふ気分で、みんな早くから寝た、私だつて明日も降つたら、宿銭はオンリヨウだ、-オンリョウとはマイナスの隠語である。オンリヨウ-とはマイナスの隠語である。
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