山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

どかりと山の月おちた

2011-09-26 03:23:05 | 文化・芸術
Santouka081130006

―表象の森― 蛇状曲線的-痙攣的

対比-コントラスト-と逆説-パラドックス-の「蛇状曲線様式」による幻視者的な「高速度撮影-像」は、ヨーロッパ精神史の中でいくつかの頂点を閲している。こうした「爆発的に凝固した」頂点の一つがティントレットの傑作、ヴェネツィアのスクオーラ・ディ・サン・ロッコの「キリスト昇天」である。天使の翼の「爆発」に目をとめるがいい。これは全ヨーロッパ芸術の中にみずからの姿に似たものを探し求める一種の「異常-静力学(パラ・スタティック)」である。つぎにやや奥まった画面の中心点を見よう。すなわち「イデア」の世界からきたエーテル様の、テレプラズマ風なものの像-かたち-、さらにまた画面下方に重心をおく古典的構図が右手でなく左手へとずらされている点に注目しよう。すぐれて反古典的なのは天使の足である。それはまるで天使らしい点がないという怪物性を物語るように、エーテル様の中央のものの像をおそろしく非審美的な仕方で脅かしている-左画面の縁の上半-。何という対比、何という独創的な逆説! 対比と逆説はティントレットにおいて、-グレコにおけるとともに-当時のマニエリスムの頂点に達した。

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 -「キリスト昇天」ティントレット(1518-1594)-

フランスとイタリアのマニエリスムを識っていたグレコは、瑕瑾のない創造的な純粋性のうちに、このヨーロッパ的様式を適用し、ゴンゴラとともに、「形式と内容」のある醇乎たる、幻視者的な一致に到達したのであった。その蛇状曲線様式の傑作「ヨハネ幻視」は、グレコの先行者たちにとってのラオコオン群像のように、後の時代にとってひとつの「原像」となった。その今日の例としては、ピカソの「アヴィニヨンの娘たち」やマックス・エルンストの「動かない父親の幻視」などが挙げられる。
而して、ドヴォルシャックとともに、こう断言して差し支えないだろう―「芸術的幻想はマニエリスムにおいてこそ、先行する幾世紀の間に創られたもの一切をささやかな序曲と想わせる飛翔にまで高められる」と。

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 -「ヨハネ幻視」エル・グレコ(1541-1614) -
  ―G.R.ホッケ「迷宮としての世界-上-」岩波文庫より

―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和7年-248

9月14日、晴、多少宿酔気味、しかし、つつましい一日だつた。
身心が燃える-昨夜、脱線しなかつたせいかもしれない、脱線してもまた燃えるのであるが-、自分で自分を持てあます、どうしようもないから、椹野河へ飛び込んで泳ぎまはつた、よかつた、これでどうやらおちつけた。-略-
いつもリコウでは困る、時々はバカになるべし-S君に-。
イヤならイヤぢやとハッキリいふべし、もうホレタハレタではない-彼女に-。
大きな乳房だつた、いかにもうまさうに子が吸うてゐた、うらやましかつた、はて、私としてどうしたことか! -略-
月がよくなつた、蚊もゐなくなり、灯による虫も少くなかつた、暑くなし寒くなし、まことに生甲斐のあるシーズンとなつた、かうしてぶらぶらしているのが勿体ないと思ふ。
新町はお祭、月夜、四十八瀬川のほとりに組み立てられたバラツクへ御神輿が渡御された、私も参拝する、月夜、瀬音、子供の群、みんなうれしいものだつた。
此頃はよく夢を見るが-私は夢中うなるさうな、これは樹明兄の奥さんの話である-、昨夜の夢なんかは実に珍妙であつた、それは或る剣客と果し合ひしたのである、そして自分にまだまだ死生の覚悟がほんとうに出来てゐないことを知つた。
夢は自己内の暴露である。 -略-

※表題句の外、11句を記す

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Photo/北の旅-2000㎞から―ランプの宿・森つべつのロビーにて-’11.07.26


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