山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

しぐるるや石をきざんで仏となす

2005-08-25 06:58:03 | 文化・芸術
041219-023-1
Information「四方館 Dance Cafe」

<身体・表象> -9

<菅谷規矩雄の「詩的リズム
 ――音数律に関するノート」からのメモ-2>

今宵は、三ヶ月ぶりの「四方館ダンス・カフェ」の第二夜である。
題して「Objetのある風景のなかで」
二ヶ月に一度くらいのペースで四、五回かさねてみたいと思っていたが、少しばかり長い間合いとなってしまった。
その三ヶ月余りのあいだに、私自身の頭のなかの交通整理はいくらかは進んだように思える。論理的明晰な頭脳とはほど遠いから歩みも鈍く、交通整理とはいったものの理路整然とは少しもならないのだが、なにやら煮詰まってきているとの感がする。ここを突破すれば視界は意外にひらけるのだろうと思われもするが、理論と実践は別次のことだし、私たちの世界は実践の場にしか価値はない。
さて、今宵の会-即興によるDance-PerformanceとFree-Talkの一夜は、オブジェと競演することとなったが、はたしてどんなことになるのだろうか。


以下は前掲載につづく菅谷規矩雄の作業仮説ともいうべき本書の第一章「詩的リズム」より要約の後半部分である。

13、用語について
このノートの主題は<構成力としてのリズム>を論ずること。
a、音-音節
b、拍-等時拍。無音の拍=休止を含む
c、小節-句
d、律-定型化された句、さらには行
e、行-リズム構成のマキシマム
f、篇-作品、短歌ならば一首
14、休止とはなにか
<休止が群団化の標識>であることを、時枝は指摘したが、
詩的リズムの構成にあっては、この休止が長短=二様のあらわれかたをすること
ハマノ(-)マサゴト(-)ゴエモンガ(-)
この十二の音節は、次の3・4・5音パターンとのあいだに、無音の拍=休止(-)を含むことを必須としている。
15、ゼロ記号
時枝も三浦つとむも、音数=拍数と前提したまま、<休止>を<無音の拍>として位置づけていない。
他方で構文論においては<ゼロ記号の陳述>とい概念を提起し、言語過程説の基幹に据えたにもかかわらず、リズム論においてそれと対応すべき<休止>の理論化に及んでいない。
16、加速の構造 & 17、複合 
タカイ ヤマカラ タニソコ ミレバ ウリヤ ナスビノ ハナザカリ
3・4・4・3・3・4と、最初の三音節を基準として、次の四音節のテンポは加速化されるが、それと同時に、日本語本来の等時拍を保持しようとする潜在力=規範性に対する圧迫でもある。この圧迫に対して生じる抵抗は、後続の小節のみならず、先行の小節にも反作用を及ぼさずにはいない。その結果、最初の小節に無音として潜在していた休止-モティーフ=発語のインパクトとしての無言-を拍として顕在化させる。
最後の音節-ハナザカリ‥‥の五音は、やはり同様に加速の傾向を含むが、しかし、それまでの小節群の規則性-ここでは4拍子、に対する矛盾をなす。
かくして、ハナザカリの五音は、基準テンポの加速の最大値を含むとともに、リズム単位=小節の複合・拡大をともなって、はじめい構成上固有の位置をうる。
このような複合小節-時価としては2小節の長さを含むが、構成上は分割し得ない単位、の成立こそ、日本語の詩的リズムにおいて主要な特質をなす。
18、減速
加速のピークは、当然、行末=休止の直前ということになる。 カとリの間に存在し、最後のリはむしろ休止に向かって減速の支配下に入るものと暗示されている。
/○ウリヤ/ナスビノ/ハナザカ/リ○○○/
 <加速>-―――――――――<減速>休止
行の構成力は、加速に対する反作用のあらわれである休止=無音の拍に求められる。
休止は、減速の作用を内包している。
19、上句と下句
20、歌謡の定型-行の転換
隆達節のように、七七七五の近世歌謡の定型-3・4・4・3/3・4・5‥‥の音構成は、それぞれ4拍子4小節からなる二つの行、8小節32拍の等時性とみなされる。
後半末尾の五音節は、3拍分の休止を含む2小節=8拍からなる複合小節であり、3拍分の休止には終止の機能が与えられている。
21、二部構成・三部構成
室町期の歌謡に、七・七・七・七(五)の型が多くみられるのは、短歌との対応と分岐の過渡的な状態が暗示されている。
短歌-五・七・五・七・七
歌謡-七・七・七・七(五)
本来、三部構成としの歌謡として発生した短歌が、二部構成へと強化されてゆくにしたがって、
初句五音の機能が無化されてゆき、ついには四句二部構成の作品としての固有の構成原理が求められたのである。
22、終止
○ハマノ/マサゴト/ゴエモンガ○○○/
○ウタニ/ノコシタ/ヌスットノ○○○/
○タネハ/ツキマジ/シ・チ・リ・ガ・ハ・マ/
行の固有性としては、3・4・5音における複合小節は加速のピークをなす-と同時に、5音=8拍の複合小節は、基準テンポに対する原則のマキシマムをなす。
シチリガハマの6音、いわゆる字あまりは、七五構成の行末を、より終止的に減速せしめ、それによって三行ひとまとまりとして完結せしめる。
23、「若菜集」における結句
七五調は、それ自体に終止を外化する定型性を有してはいない。
したがって七五調の長詩は、本来無構成的で、調子にのったら止まるところを知らないという条件を負っている。
島崎藤村は「若菜集」において、その作品或はストローフの終わりに7・7音節をもって終止の方法を際立たせている。しかもその殆どは、3・4音構成である。
しかし、この型を、古代の長歌における終止に関連づけるべきではなく、藤村の方法は新古今或は古今集以前には遡れず、短歌的なるものに類する。
24、<風の又三郎>-シンコペーション
現代にいたる近代詩人のなかで、詩的リズムの定型性に徹底した自覚を貫いたのは宮沢賢治だろう。
  どつどど どどうど どどうど どどう -8・7音の16拍
  ああまいりんごも吹きとばせ -8・5音の16拍
  すつぱいりんごも吹きとばせ -8・5音の16拍
  どつどど どどうど どどうど どどう -8・7音の16拍
日本語のリズム定型が、七七と七五の行の本源的な等時性を有し、本来は十五の音節と一つの無音の拍=休止を行とする単位でありうることを暗示している。
リズムに関するかぎり、賢治の到達したピークは、この歌や「北守将軍と三人兄弟の医者」の語りが示しているように、七五音律の完全な口語化にあったといえよう。


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是をささげ鉄鉢の日ざかり

2005-08-24 03:17:17 | 文化・芸術
050512-018-1
   Information「四方館 Dance Cafe」

<身体・表象> -8

<菅谷規矩雄の「詩的リズム
 ――音数律に関するノート」からのメモ-1>


二十数年ぶりになるが一ヶ月あまり前から、菅谷規矩雄の表題の書を繰り返し読みながら、メモをとる作業をしている。
日本語としての言語表現たる詩のリズム論が、なにゆえ<身体・表象>を考えるに必然となるのかという疑問については、いまのところ確たることは言い難いのだが、私の仕事=身体表現の世界をじかにいくらかでもご存知の人ならば、なんとはなく心あたるものを感じていただけるかもしれない。
さしあたり菅谷の作業仮説ともいうべき本書の第一章「詩的リズム」より要約する。


-吉本隆明による跋から-
私には、和語の詩の韻律の問題は、音数律の構成的な美に帰するよりほか、すべがないようにおもわれた。それと同時に、言語の韻律を指示性の根源にあるもの、と定義するほかなかった。
本書において菅谷規矩雄は、この問題を、わたしなどが打ち捨てたところから遥かに遠くまで引っぱってゆくのに成功している。
菅谷がまったくあたらしく前提したのは、
等時拍である和語の言語的な特性と、詩歌の韻律としてあらわれるばあいの、音数律の時間的な長短との矛盾は、<無音の拍>で切り抜けられること、意味の時間的な流れには、<テンポの変化>が微妙だが存在することなどである。
この二つの前提があれば、音数律の長短は、ほぼ同一の時間性に収斂するすることが説明できるし、また詩歌の終りは、徐々にゆるいテンポによって大休止にいたる過程として説明しうる。
この着想は、たぶん詩歌を<韻律の意味化>と解する限り画期的なものであり、菅谷は詩の韻律の問題を、かつて何人もなしえなかったところまで普遍化したのである。


一、詩的リズム
01、定義について
リズムとは<時価の一定の組合せが、周期的にくりかえされることである>
言語-詩のリズムもまた、本質的に原理は時間性にもとめられるべきものであるが、
時価とはなにか、反覆はリズムの本質であるか-というふたつの反問を、根源的な問いとして見失わないこと。
02、時間-言語における
言語-詩における時間とは<観念-意識>としての時間性
03、構成力
リズムは二重の時間性からなる構造である-この二重性とは、
拍の等時的反覆と、それにたいする非等時的傾向性との相互作用が
表現-構造としてのリズムをうみだす
ふたつの相反する作用の矛盾が、その臨界点において、リズムの構成力たりえているということ。
04、等時的拍音
日本語のリズム特性は、強弱アクセントでも、長・短音節の組合せでもなく、等時拍であること。
05、群団化の標識-時枝説
リズム形式の群団化-音声の休止・間-構文の切れ目=文節と一致する
06、拍と音
初めの定義にもどって、反覆はリズムの基本的原理であるか。
07、五七五七七
岡井隆の直観-短歌形式の五七五七七の句分けは、明らかな長短リズムというよりは、等時的リズムを五回反覆したのに近いのではないか。
08、テンポの変化
音数=拍数の前提を保持しつつ、岡井隆の直観を裏付けようとするなら、<テンポの変化>を導入すればよいはずである。
 狭井川よ 雲立ちわたり
 畝傍山 木の葉さやぎぬ
  風吹かむとす
狭井川よ-という初句の五音にたいして、霞立ちわたり-の七音は、より早いテンポで読まれるのではないか。三句と四句においても同様に。-そして最後の七音は逆にもっとゆるいテンポで。
09、無音の拍
日本語の詩的リズムにおいて、休止-無音の拍とテンポの変化は、もっとも本質的な構成力である。
10、変速-上限と下限
この変化の規則性-恒常的なる基準テンポと、それに対する変速の上限および下限が、想定されるべきである。
11、弾性化
詩的リズムの構成においては、各音節はいわば弾性化される。
-等時的拍音が、本来の時価の動態化=可変性へとひきよせられる。
その変化の許容度は、最小のリズム単位=二音節と、最大のそれ=五音節とが、1:1の時間比をなすと想定した場合からはかられる。
言いかえれば、2音節、3音節、4音節、5音節のいずれもが、1:1:1:1の時間比をなそうとする傾向を有するのである。
12、加速
-ツキモ、オボロニ、シラウオノ‥‥のごとく、3・4・5という規則的な音数増加が美的でありうるのは、
テンポの加速による快感に起因している。
-浜の真砂と五右衛門が、歌に残した盗人の、種は尽きざる七里ガ浜‥‥
と、3・4・5の加速パターンが周期的に反覆されていくのだが、
a-このパターンは、3・4・5・6‥‥とさらに音数を増加させないのか
b-三回目のパターンはなぜ、七里ガ浜-と6音になるのか
aの解明は、日本語の定型音律について、七五調がなぜ優勢にいたったかの解明につながり、
bに答えるは、リズムは作品の構成にいかなる作用をおよぼすか、作品の構成力としてどこまで機能しうるか-という究極的な問いにつながりうる。


――――――以下つづく

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果てもない旅のつくつく法師

2005-08-23 18:04:06 | 文化・芸術
041219-049-1
Information「四方館 Dance Cafe」


<四方の風だより>



母親はひと晩ぢう、子守唄をうたふ
母親はひと晩ぢう、子守唄をうたふ


淋しい人の世の中に、それを聴くのは誰だらう
淋しい人の世の中に、それを聴くのは誰だらう



         ――中原中也「子守唄よ」より


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膝にとんぼが、おのれを鞭うつ

2005-08-22 12:45:12 | 文化・芸術
041219-053-1
   Information「四方館 Dance Cafe」

<古今東西-書畫往還> 

<スコットランドの民族衣装、
    キルトとタータンは意外に新しい>

高橋哲雄・著「スコットランド 歴史を歩く」を読んでいると、あの民族衣装、男性がはく膝丈のヒダつきスカートのキルトも、氏族ごとに色や柄がちがうといわれる格子縞模様のクラン・タータンも、そんなに歴史を遡るものではなく、意外と新しい風俗だとあって、歴史や伝統の捏造とはいわないまでも、伝統性などというものは遡って虚構化されていくものだと、あらためて実例をもって気づかされる。

著者によれば、スコットランドは、ハイランド(高地地方)とロウランド(低地地方)の二つの異質の地域がこの王国のなかに居心地悪く同居しつづけてきた。ハイランドはスコットランドの北ないし北西に広がる高地地方と島嶼部からなる。深い谷と入江で分断され、人口密度は低く、ほとんど都市や産業らしきものはない。牛と羊の高地放牧を主な生業としてきた。18世紀まではケルト系のゲール語圏で、独特の氏族制が残っていた。いわば「化外の地」であって、わずかに古い城砦や石の十字架を見るにとどまる。
ロウランドは都市化の進んだ中央低地-エディンバラやグラスゴウがある-と東部海岸平野、それに南部の丘陵地帯を合わせた地域。地味、気候にめぐまれて早くから農業が行なわれ、産業化も進み、所得水準も相対的に高い。自治都市、王宮、司教座聖堂、修道院、裁判所、大学等はすべてロウランドに集中した。


キルトの場合、18世紀の初め頃に、ハイランド地方の森の作業場で、必要に迫られ生れた作業着にすぎないものが、19世紀初めの民族衣装ブームのなかで上・中流階級に急速にひろまって古来からの民族衣装へと昇格していったというのが事の真相らしい。
クラン・タータンとなるとさらに時代は新しく、ハイランド地方における氏族制度は1746年のジャコバイトの乱の敗北で解体されていくが、その頃でも氏族別のタータン柄というのは生れていなかったようで、ところが1822年のイングランド国王ジョージ4世がエディンバラ行幸したさいには、ハイランドだけでなくロウランドの貴族や郷士たちまでもが「わが家のタータン柄」と称してクラン・タータンを身につけていたという。


こうした<伝統が創られる>背景には、イングランド地方のイギリス国王とスコットランド地方の歴史的な長いあいだの相克から、統合・征服化されていくにしたがって、かえって征服される側=スコットランド地方の物語化、ロマン化が紡ぎ出されていくということがあるようだ。

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ふたたびここに草もしげるまま

2005-08-21 18:07:54 | 文化・芸術
050512-001-1
Information「四方館 Dance Cafe」

<世間虚仮>

<小泉郵政改革=アメリカ資本が狙う郵貯マネー>

兵庫から東京へと鞍替え刺客の小池ゆり子にはじまって、カリスマ主婦の藤野真紀子、財務官僚の片山さつき、国際政治学者の猪口邦子、そしてホリエモンこと堀江貴文と、劇場型総選挙の小泉流パフォーマンスは反乱組を蹴散らかさんばかりの勢いでヒートアップしているが、こんなくだらなくも危うい選挙戦術に国民の大多数がのせられ取り込まれていくとすれば、自民党をぶっ壊すどころか、日本の近未来そのものが小泉ひとりにぶっ壊されてしまう危険がおおいに潜んでいることだろう。

日経BPに立花隆の「メディアソシオ・ポリティクス」という連載コーナーがあるが、その最新記事が「日本経済までぶっ壊す小泉改革の幻想と実態」と題され、小泉改革の実態とその危険性について論評している。
なかでも傾聴に値するのは、金融機関のあの莫大な不良債権処理とは、永年にわたるゼロ金利政策で本来なら国民が取得すべき富=預貯金の利息を国家あげて収奪したもので、結果として購われたのだという主張で、小泉内閣の経済政策に一顧だにしないひたすら改革ありきを痛罵している。
さらに前回の連載「海外メディアが伝えた小泉・郵政解散劇の評判」のなかで、小泉はなぜかくも郵政改革一辺倒かといえば、アメリカからの強いプレッシャーゆえであり、アメリカ政府が毎年、日本政府に突きつけてくる改革要求リストのトップにあるというのが最大の背景となっているとしている。350兆円という郵貯マネーをグローバルな国際金融市場に開放させ外国資本の草刈場とさせること、この一点だけがアメリカの関心事であり狙いなのだというわけである。
グローバリズムがすでに抗いがたい世界の潮流だとしても、やみくもにそれに妄信・追随し、改革ありきの小泉の政治姿勢は建設的理論や計画性のない破壊衝動にかぎりなく均しいのではないか。小泉に追随・推進する竹中平蔵はじめ今回刺客に立った者たちも、米国型の自由主義市場経済を信奉するオプティミストばかりと思われるが如何。


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