山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

ぬばたまの黒髪濡れて泡雪の‥

2007-01-17 16:29:46 | 文化・芸術
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-表象の森- くるみ座の解散

劇団くるみ座が今年の3月でとうとう解散するという。
創立者の毛利菊枝が’01(H13)年に逝ってなお辛うじて命脈を保ってきたものの刀折れ矢尽きたもののようだ。
毛利菊枝といえば、昭和20年代、30年代、邦画界にあっては存在感ある脇役として欠かせぬ女優で、とりわけ東映時代劇華やかなりし頃の、老婆役となれば決まって登場する彼女の小躯に似合わず野太いよく透った声が、子ども心に強烈に印象づけられたものだ。
毛利菊枝(1903-2001)は戦前の築地座にも所属し、岸田国士に師事していたというから、山本安英(1906-1993)や杉村春子(1906-1997)と同世代で、新劇の草分け的大女優だ。美術史家であった夫の京大赴任に伴って京都へと移ってきた彼女は、学者や劇作家たちの勧めもあってすぐにも毛利菊枝演劇研究所を発足させている。
これが後にくるみ座となるのだが、1946(S21)年というから戦後の混乱期に生れ、小なりとはいえ関西にあって、田中千禾夫ら劇作派の作品上演などセリフを重視した芝居づくりや、周辺に山崎正和や人見嘉久彦・徳丸勝博などの劇作家を輩出させるなど、独特の矜持をもって戦後の新劇界にその存在を誇示してきた劇団で、現在では文学座、俳優座に次ぐ古参となる。
映画界では個性的な脇役として重宝された北村英三も創立当初から毛利菊枝に師事、後に演出家としても手腕を発揮するようになる30年代、40年代のくるみ座は、毛利菊枝自身が主演する作品や、ギリシア悲劇の連続上演などで、格調ある舞台づくりを誇っていた。
たしか大阪芸術大学の演劇科創設当初は北村英三が主任教授として迎えられたのではなかったか。


大女優・毛利菊枝とはついに直々の御目文字を得なかった、いや正確に言えば遙かな昔、此方が弱冠19歳の時に唯一その機会があったのだが、好事魔多し、惜しくもすれちがってしまい機を逸したまま以後縁がなかったのだが、北村英三さんとは神澤の縁で幾度かご一緒したことがある。
舞台ではあの濁声を独特の抑揚にのせて客席を圧する彼も、素顔は心優しい好々爺そのもので、ひとたび酒が入れば些か絡み癖ながらも愉しい御仁であった。
同じ京大の国文科同士、たしか神澤より7、8歳年長の北村英三さんがいつ逝かれたのだったか、記憶をたどるもどうにも思い出せない。敬愛する師毛利菊枝より先んじて逝かれたのは確かだが、相愛の師弟のあいだで、先立つ者と遺される者との逆縁に、ともに去来したであろう想いはどんなものであったろう。
Netを探りたどってやっと判ったが、北村英三さんの没年は1997(H9)年とあった。1922(T11)年生れだから享年75歳。晩年は引退して静かに余生を送っていたという毛利菊枝は4年後の’01(H13)年に静岡の病院で亡くなっている。享年97歳という長寿は女優としての弛まぬ鍛錬と節制の賜だろう。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<冬-42>
 忘れずよその神山の山藍の袖にみだれし曙の雪  飛鳥井雅有

隣女和歌集、四、冬。
1241年(仁治2)-1301(正安3)年、蹴鞠の家として名高い飛鳥井家の嫡流、正二位。定家の二男為家に古今集・源氏物語を学ぶ。家集「隣女集」は2600余首を数え、続古今集初出、勅撰入集は72首。
邦雄曰く、作者が賀茂の臨時祭の舞人を勤めた時、あたかも雪の降ったことを思い出しての歌という詞書がある。新古今・神祇の俊成「月冴ゆる御手洗川に影見えて氷にすれる山藍の袖」を本歌としたのであろう。俊成は氷、雅有は雪、この歌の冷え冷えと華やぐ感じもまたひとつの味である。新古今歌人、蹴鞠の名手雅経の孫。源氏物語の研究家でもある、と。


 ぬばたまの黒髪濡れて泡雪の降るにや来ます幾許恋ふれば  作者未詳

万葉集、巻十六、由縁ある雑歌。
幾許(ここだ)-こんなに多く、こんなに激しく、の意。
邦雄曰く、公務を帯びて旅立った新婚の夫は年を重ね、新妻は病の床に臥した。やっと帰還した夫を迎えて妻はこう歌った。息せき切ってたどりついた若い夫の髪が雪に飾られ、額は雫し、眸は燃えている。感動的な一場面が初々しい修辞の間から浮かび上がる。夫の歌は「かくのみにありけるものを猪名川の沖を深めてわが思へりける」とあり、遙かに響きが低い、と。


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道にあひて咲まししからに降る雪の‥‥

2007-01-14 15:02:40 | 文化・芸術
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-表象の森- 脳と記憶のしくみ

年が明けて今日まで、図書館からの借本はまだない。

-今月の購入本-
「Newton 2月号/2007」ニュートンプレス
「Newton」2月号は脳科学の最前線から「脳のニューロンと記憶のしくみ」の特集に惹かれて。


船橋洋一「ザ・ペニンシュラ・クェスチョン」朝日新聞社
朝鮮半島第二次核危機と副題された「ザ・ペニンシュラ・クェスチョン」は外交・国際ジャーナリスト船橋洋一のノンフィクションリポート。02年の小泉訪朝から六者協議の内幕、北朝鮮をめぐる日米韓中ロの外交駆引きの裏舞台が活写される大部の著。


熊野純彦「西洋哲学史-古代から中世へ」岩波新書
々 「西洋哲学史-近代から現代へ」 々
「読んでおもしろい哲学入門書」と評判の岩波新書「西洋哲学史」は柔らかな叙述のなかに先人たちの魅力的な原テクストを散りばめつつ書き継がれる、廣末渉をして「お前は詐欺師だよ」と言わしめた熊野純彦の著。


M.フーコー「フーコー・コレクション-フーコー・ガイドブック」ちくま学芸文庫
フーコー・コレクションシリーズの番外編「フーコー・ガイドブック」は主要著書の解説と11編の講義要旨と詳細な年譜を収録している。


シェイクスピア/安西徹雄訳「リア王」光文社文庫
古典新訳シリーズ光文社文庫版「リア王」の翻訳者安西徹雄は、演劇集団「円」の演出家でもあり、実践家の眼が生きた新訳。


V.ナボコフ/若島正「ロリータ」新潮文庫
若島正による新訳「ロリータ」も一部の評者には06年の収穫として高い評価を受けている。

清岡卓行「アカシアの大連」講談社文芸文庫
昨年6月、鬼籍の人となった詩人清岡卓行の小説「アカシアの大連」、この文庫版には初期の「朝の悲しみ」「アカシアの大連」と「初冬の大連」他3つの短編からなる「大連小景集」が収録されている。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<冬-41>
 契りてし今宵過せるわれならでなど消えかへる今朝の泡雪  藤原伊尹

一条摂政御集、おはせむとての夜、さもあらねば、翌朝、おとど。
邦雄曰く、あるいは今宵を共にと期待していた人と、ついに逢わずに明けたその翌朝、ほろ苦い思いを噛みしめて歌を贈った。泡雪に類えた相手は当意即妙に、「降る雪はとけずや凍る寒ければ爪木伐るよと言ひにしものを」と返歌する。謙徳公は絶世の美男、風流人で殊に色を好み、太政大臣になった翌年、48歳で世を去った。勅撰入集歌38首、と。


 道にあひて咲(エ)まししからに降る雪の消ぬがに恋ふとふ吾妹  聖武天皇

万葉集、巻四、相聞、酒人女王を思ひます御製歌一首。
邦雄曰く、穂積皇子の孫、酒人女王の、愛の告白を反芻しつつ、莞爾として、思はず高らかに歌った趣、読む者もまた微笑を誘われる。天皇が行きずりに笑みかけただけなのに、消え入るほどに恥じらい、夢うつつの風情、可愛さに「吾妹!」と呼びかけて、面影に手をさしのべたいと、一首の後にも言葉の溢れる感がある。相聞中でも出色の一首である、と。


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聞きわびぬ紅葉をさそふ音よりも‥‥

2007-01-11 13:16:40 | 文化・芸術
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-表象の森- 北斎の「べろ藍」

晩年の「富嶽三十六景」などで大胆なほどに多用された北斎の藍刷り。
通称「べろ藍」と呼ばれたその深みのある藍色の顔料は「プルシャンブルー」といい、そもそもはドイツで生まれたそうな。
「べろ藍」の「べろ」はどうやらベルリンの訛ったものらしい。「プルシャン」はプロシアからきている。
この顔料がドイツで生まれたのが1704年頃とされ、1世紀余を経て日本にも長崎を通して輸入されてくるようになる。
この新しい「青」をいちはやく、しかも斬新なまでに大胆に採り入れたのが北斎であり、「東海道五十三次」の安藤広重らの浮世絵だ。
時に1867(慶応3)年のパリ万博では、彼らの浮世絵が100枚ほども展示され、ヨーロッパにおけるジャポニスムブームは一気に過熱する。
ドイツで生まれた「べろ藍」が、ジャパンブルーやヒロシゲブルーと呼ばれ逆輸出、以後、日本の青として広く海外に知られ定着していった訳だ。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<冬-40>
 聞きわびぬ紅葉をさそふ音よりも霙ふきおろす嶺のこがらし  飛鳥井雅世

雅世御集、永享9(1437)年6月、春日社百首続歌、霙。
邦雄曰く、散紅葉をふきおろす風はすでに過去のものであるが、一首の全面にその色と、なお微妙枯淡な葉擦れの音を感じさせ、しかも現実には、冷ややかな霙の粒を凄まじく吹きつける、山頂からの木枯し、技巧を盡した一首の二重構成は、さすが名手、雅経七世の孫と頷くふしも多々ある。新続古今集すなわち最後の勅撰集選者。15世紀中葉62歳で他界、と。


 夜もすがら冴えつる床のあやしさにいつしか見れば嶺の白雪  越前

千五百番歌合、九百二十三番、冬二。
邦雄曰く、新古今集に7首初出の、後鳥羽院歌壇の作者であるが、詠風には宮内卿や俊成女のような鮮麗な色彩はなく、おとなしく優雅だ。第三句「あやしさに」までの緩徐調、まさに王朝女人の動きを見る感あり。第四句も同じく歯痒いほどの反応。番は二条院讃岐の「うちはへて冬はさばかり長き夜をなほ残りける有明の月」で季経判は越前負。持が妥当、と。


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月冴ゆる御手洗川に影見えて‥‥

2007-01-09 12:53:49 | 文化・芸術
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-表象の森- 縹(ハナダ)の色

歌詠みの世界として紹介している塚本邦雄選の「清唱千首」では、採られた歌にもまた解説にもよく縹(ハナダ)という言葉が出てくる。
古くから知られた藍染めの色名のことだが、藍色よりも薄く、浅葱色より濃い色とされ、「花田」とも表記され、「花色」とも呼ばれる。
「日本書紀」にはすでに、「深縹」、「浅縹」の服色名が見られ、時代が下って「延喜式」では、藍と黄蘗で染められる「藍」に対して、藍だけで染めるのが「縹」と区別され、さらに藍は深・中・浅の3段階、縹は深・中・次・浅の4段階に分けられているそうだ。


この縹と類似の色で「納戸色」というのもある。こちらはぐんと時代も下って江戸時代に使われるようになった色名だが、わずかに緑味のあるくすんだ青色をいう。色名の由来は、納戸部屋の薄暗い様子からとか、或いは御納戸方-大名各藩などで納戸の調度品の出納を担当した武士の役職-の服の色や、納戸に引かれた幕の色などと、諸説あるようだ。関連の色も多く、「藤納戸」、「桔梗納戸」、「鉄納戸」、「納戸鼠」、「藍納戸」、「錆納戸」などと多岐にわたってくる。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<冬-39>
 かたしきの十符(トフ)の管薦さえわびて霜こそむすべ結女はむすばず  宗良親王

李花集、冬。
邦雄曰く、編目十筋を数える菅の筵は陸奥の名産であった。これは親王が信濃に在った折、人に北国の寒さを問われて詠じたとの詞書あり。結ぶのは霜ばかり、都の夢も見ることもないとの返事である。良経の千五百番歌合・冬三に「嵐吹く空に乱るる雪の夜に氷ぞ結ぶ夢は結ばず」あり、密かな本歌取りと見てもよかろうか。肺腑に沁みとおる調べである、と。


 月冴ゆる御手洗川に影見えて氷にすれる山藍の袖  藤原俊成

新古今集、神祇、文治六(1190)年、女御入内の屏風に、臨時の祭かける所を。
邦雄曰く、俊成76歳の正月11日、後鳥羽院中宮任子入内の屏風歌。臨時祭は11月下酉の賀茂の祭。神事に着る小忌衣の袖は白地に春鳥・春草を藍で摺染にする。寒月と川と神官の衣の袖の藍の匂い。殊に水に映じているところを歌った趣向は、絵にも描けぬ美しさであろう。俊成独特の懇ろな文体が、寒冷の気によって一瞬に浄化されたか。


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霜の上に霰たばしるいや増しに‥‥

2007-01-07 19:03:46 | 文化・芸術
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-世間虚仮- 冬の嵐

「冬の嵐」だそうな。
太平洋側を北上している低気圧と日本海を北上している低気圧が北海道付近でひとつに合流、台風なみの低気圧に発達するという。


大阪でも昨夜半から間断なく強風が吹きすさぶ。夜中、配達のバイクを走らせていると突風に煽られハンドルを取られそうになるほどだ。南港へと渡る運河の橋上では横なぐりの激しい風に思わず倒れそうになった。このぶんでは自転車の場合などとても堪らないだろうと、他人事ながら心配される。これで雨混じりだと泣くに泣けない始末と相成るのだが、雨や吹雪に見舞われている地方には申し訳ないけれど、その点は不幸中の幸いだった。
それにしても先日の爆弾低気圧といい、この冬の嵐といい、暖冬異変のさなかで激しくも荒れ模様の天候つづきには、すわ異常気象かとざわめきたつのも無理はない。


そういえば、近年、「冬の嵐」が頻発しているヨーロッパでは、この気象異変と二酸化炭素の大量放出による地球温暖化との相関が伝えられている。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<冬-38>
 吹くからに身にぞ沁みける君はさはわれをや秋の木枯しの風  順徳院

続拾遺集、恋四、題知らず。
邦雄曰く、秋に「飽き」の見飽いたような懸詞ながら、四季歌のさやかな調べのなかにちらりと紅涙のにじむのを見るような歌の姿が、退屈な新勅撰集恋歌群の中では十分味わうに値しよう。一首前に宮内卿の「問へかしなしぐるる袖の色に出でて人の心の秋になる身を」があり、これも面白いが、二首並べると殺しあう感あり。第四句の危うい息遣い救いあり、と。


 霜の上に霰たばしるいや増しに吾は参来む年の緒長く  大伴千室

万葉集、巻二十、少納言大伴宿禰家持の宅に賀き集ひて宴飲する歌三首。
邦雄曰く、天平勝宝6(754)年正月4日、大伴氏の郎党が年賀の挨拶に参集して、かたみに忠勤を競っている、その気息が伝わってくる。橘氏との拮抗・摩擦烈しく、ともすれば劣勢に傾こうとしていた時勢ゆえに、このような述志も、どことなく悲愴味が加わる。第一・二句の凜冽肌を引緊める天候描写こそは、おのづから大伴氏一人一人の胸中でもあったろう、と。


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