山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

いがきして誰ともしらぬ人の像

2008-10-17 21:44:21 | 文化・芸術
Db070509t110

INFORMATION
林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」


―世間虚仮― 蟹工船ブームで‥

文化後援会-大阪文化日本共産党後援会-という名称で私宛に時折送られてくる書面に、このたびは何故だか連合い殿と連署になっていたのが目に付き、少しばかり怪訝な気持にさせられながら開封してみたものの、なんのことはない、いつものように共産党の宣伝パンフ類。

その小さな冊子の裏表紙に「蟹工船ブームで1万人新規入党」と、毎日新聞などが採り上げた記事が紹介されていた。どうも眼にとまった記憶がないのでその記事を追ってみると、9月1日付に同じ見出しのものがある。昨年9月以降からの10ヶ月間で約1万人が入党、あるいは、京都府トラック協会が京都1区の穀田衆議院議員の来訪を初めて迎え入れたことや、地方の保守系首長や議員との接触も新たに生まれていること、などが報じられている。

また産経新聞の伝えるところでは、蟹工船ブームの火付け役となったのは、1月9日付の毎日新聞に掲載された高橋源一郎と雨宮処凛の格差社会をめぐる対談記事で、雨宮が「蟹工船を読んで、今のフリーターと状況が似ている」と思ったと言い、これに高橋が「僕が教えている大学のゼミでも最近読んでみたところ、意外なことに学生の感想はよく分かる」と応じたものだった。

既成政党のどの党よりも高齢化が目立ち、組織内部の世代交代が積年の課題でもある日本共産党、その古い党人たちは時ならぬブームに懐疑的だというが、蟹工船を介した若い世代からの共鳴が幾許かの実を結ぶことを、他人事ながら願ってやまないものである。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」-31

   雲かうばしき南京の地  

  いがきして誰ともしらぬ人の像  荷兮

次男曰く、「いがき」は斎籬、忌籬、瑞籬と云っても同じ。本来は神域の垣だが必ずしもそれに限らず、ここもただちに神垣と考えぬほうが面白い。

前句の注文どおり「南京」を奈良と読替え有りそうな嘱目を付けただけで、祭祀とは名のみの、廃寺業祠であってよし、祀ってある人もわからぬ、それ以上解を須いない句である。

あるいは、句案の背後に伝西行の「何事のおはしますをばしらねどもかたじけなさに涙こぼるる」があったかと思うが、俤付というわけではない。歌は延宝2年の板本「西行法師家集」に「太神宮御祭日よめるとあり」と詞をつけて収め、伊勢参宮の記や案内にも載せるものだ。

はこびの凝りをうまくほぐした、素直な佳句である。この巻の芭蕉と羽笠の付合は6ヶ所-蕉・笠が4、笠・蕉が2-、これは客二人をefに配した興行の趣向によるもので、、偶然とはいえない。蕉・笠のからみもめでたく赤壁の攻防に終った。あとは帰心の工夫のみ、と荷兮は云いたいのだろう。

はこびはいよいよ名残裏入である、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

雲かうばしき南京の地

2008-10-16 16:49:00 | 文化・芸術
Alti200601076_2

INFORMATION
林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」


―表象の森― 宇目の唄げんか

大分県の豊後大野と宮崎県の延岡を結ぶ国道326号線沿の県境近く、宇目町-現・佐伯市宇目町-の北川ダムに架けられたずいぶんモダンなPC斜張橋を「唄げんか大橋」というそうだ。昔、この奥宇目のあたり、木浦鉱山での採掘が最盛期であった江戸初期の頃より唄い継がれてきたとされる子守唄「宇目の唄げんか」に因んでの名付けらしい。

この子守唄、唄げんかというからに、悪たれをつきあいながら二者掛合いの唄になって延々と続けられ、なんと22番まで採録されているが、続くほどにまこと、おもしろうてやがて哀しき、喧嘩唄である。

一、あん子面みよ目は猿まなこ ヨイヨイ
 口はわに口えんま顔 アヨーイヨーイヨー、
返 おまえ面みよぼたもち顔じゃ -以下囃し同-
   きな粉つけたら尚良かろ 
二、いらん世話やく他人の外道 
   やいちよければ親がやく 
返 いらん世話でも時々ゃやかにゃ
   親のやけない世話もある
三、わしがこうしち旅から来ちょりゃ
   旅の者じゃとにくまるる
返 憎みゃしません大事にします
   伽じゃ伽じゃと遊びます
四、寝んね寝んねと寝る子は可愛い
   起きち泣くこの面憎さ
返 起きち泣くこは田んぼにけこめ
   あがるそばからまたけこめ
五、旅んもんじゃと可愛がっちおくれ
   可愛がるりゃ親と見る
返 可愛がられてまた憎まるりゃ
   可愛がられた甲斐が無い
六、おまいどっから来たお色が黒い
   白い黒いは生まれつき
返 おまいさんのようにごきりょが良けりゃ
   五尺袖にゃ文ゃ絶えめえ

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」-30

  寅の日の旦を鍛治の急起て  

   雲かうばしき南京の地  羽笠

かうばしき-香ばしき-、南京-なんきょう-の地-つち-

次男曰く、二句続いたもっともらしい嘘のあとに「寅の日」と継がれれば、「三人言えば虎を成す」諺を思い出さぬほうがおかしい。鍛冶屋が寅日に早起する風習などあろう筈がない、と容易に気づく。

杜国や野水の思付の嘘はともかく、私の嘘にはそれなりの根拠がある、ひとつ信じて探してみないか、という誘いは俳諧地の虚を実に奪ううまい工夫で、芭蕉は謎を掛けながら、答は自分でも用意していたにちがいない。それは。「戦国策」の諺にはじまり「三国志」の英雄たちに及ぶといったかたちで、一座の話題を作り上げていったのだと思う。

後漢の建安13-208-年、江南を望んだ魏の曹操はも80万の大軍を南下させて赤壁に陣を布いた。この時彼がわずか3万の兵に敗れたのは、孫権の武将たちの計に嵌められたからである。まず、黄蓋が苦肉の計を用いて内通を装い、次はその詐りの投降状を闞沢が曹操の許に届ける。そして最後に龐統が、連環の計なるものを進言する。つまり三人掛かりで曹操を騙しにかかったわけである。これを信じた曹操は、早速軍中の鍛冶屋を集めて夜を日に継いで鎖を打たせ、自らの兵船を悉く繋いでしまった。水軍に不慣れな華北の人間の弱みを衝かれたわけだが、この策略はまんまと図に当り、魏80万の大軍は呉側の火攻の前にもろくも潰え去った。時に建安13年12月、いわゆる赤壁の戦である。

その呉の首都建業が、のちに南京になった。南京という名は、明の3代永楽帝が国都をここから北京に遷したときに与えられたもので、ここには江南諸国が歴代の都を置いた伝統がある。

羽笠が、芭蕉の謎掛を赤壁の戦の舞台ごしらえと読取って、その始末を付けているらしい事は、ここまで考えるとよくわかるが、芭蕉が、赤壁の故事を持出した本当の狙いは、曹操ならぬ私が仕掛けた鎖から自由になる工夫を見せて欲しいというところにあるらしい。これは芭蕉の口から必ずや出たと思う。羽笠の句が大振りになったのは、そのことに関係がある。

「斗牛を貫く」という諺がある。岳飛の詩「青泥寺ノ壁ニ題ス」より出て、北斗・牽牛を貫くほどに雄気の漲るさまをいうが、蕉・笠の二句は、北東-寅-に起こる気があれば、、南東にも呼応する英気がある、と読むことができる。と読むことができる。「南京」と遣ったのは、曹操の南征は読み取ったと一座に伝えながら、故事から逃れるため、読みもナンキンなどと示さず、南京は京都に対する奈良の呼び名でもあるから、「雲かうばしき南京の地」と仕立てたか。

句は二ノ折の表の最後、羽笠の仕立には、興行の締めくくり方をも睨んで、俳諧地を中国の故事から日本の旧都に引いてくる狙いがあるから、刀工の姿は自ずとそこに浮かんでくるが、それはあくまで英気のうつり-焼刃の匂-としてであっても句はこびの糸目は芭蕉が仕掛けた連環の計から入り、それを脱する工夫に求めるしかあるまい、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

寅の日の旦を鍛治の急起て

2008-10-15 12:06:14 | 文化・芸術
51jpjrsq1dl_ss500__2

NFORMATION
林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」


―表象の森― この母と、この子

藤原書店の別冊「環」シリーズ「子守唄よ,甦れ」-05年5月刊-を読む。

「暗きより暗きに移るこの身をばこのまま救う松かげの月」

松永伍一の「日本の子守唄」-1964年初刊-が、角川文庫版となって初版されたのは84-S59-年だったようである。とすると私が読んだのもそれ以降のこととなるが、そのずっと前に読んだ彼の「底辺の美学」の記憶とごっちゃになってか、もっと昔のことだと思っていた。

この短歌、松永伍一の母が85歳で亡くなったその辞世の歌だという。
字句どおり素直に読めば、自ずと歌の意は通ずる。「暗いところから暗いところへ移っていく、この私のような極悪非道な人間こそ、如来の慈悲に救われるでしょう‥。親鸞の悪人正機を理論的に解明したりとか、分析したりするようなことではなくて、自分の生きてきた悪をこのままの状態で如来様は見て下さるという意味でしょうか。」と、松永自身、誌上の対談で言及もしている。

ただそれだけのことなら、とりわけ強い印象も残らずにやり過ごしてしまったところだが、ここで彼は一つの具象的な像を差し出すことで、歌の内実に迫り、この私は震え、込み上げてくるものを禁じ得なかった。このところ読みながら感きわまって突如涙する、といったことが多くなったおのが姿につくづく老いを感じる始末だ。

彼はこの辞世の歌に「間引きの背景が見えてくる」と語る。

「私は戸籍上8番目の子でも、上のほうが途中で死んでましたから、生き残っているのは私が5人目なんですけれども、8番目のわが子を間引きしそこねて、それで私が生まれたんです。母は44歳でした。間引きというのは、話は聞いてましたけれど、子守唄の調査をしているうちに、意外と間引きの歌に出会うわけです。育てられなくて間引きしたり、この子は育つ力を本来もたない子だとわかるから間引きしたり、‥ その時は『日本の子守唄』によそ事のように書いていましたら、今度は母が亡くなった時に、一番上の姉から、『あんたはほんとは生まれてくるはずじゃなかったのよ。お母さんが間引きしようとして、水風呂に入ったり、木槌でおなかを叩いていたりしてた』というのを聞いた時、ああ、子守唄を書いていてよかったなと思いました。そのことを先に聞いて本を書いたんじゃなくて、子守唄の本を書いてから、その母の悲しみにふれる結果になって、‥」

「母が亡くなる少し前に、故郷にちょっと見舞を兼ねて帰りました時に、二人の姉と兄と私と計4人生き残っておりましたから、その4人で座敷の真ん中に寝てた母親を布団のまま縁側に連れ出して、母親の体から生まれ出た4人で、生きてるうちに体を全部きれいに拭いてあげたんです。その時、ものすごくエロチックな感動を覚えましたね。母親のここから生まれてきたんだなという。これは特別な感動でした。」

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」-29

   つゞみ手向る弁慶の宮  

  寅の日の旦を鍛治の急起て  芭蕉

旦-あした-、急-とく-起-おき-て

次男曰く、虚に虚を以てした相対の付に、更に重ねて絵空事を付ける訳にはいかない。促されて取出した実情のある作りには違いないが、さて「寅の日」がわからない。

評釈は、弁慶の宮の縁日だとか、鍛治の吉日だとか、あるいは猛虎を弁慶に思い寄せた付などと解している。中で筋らしいものがあるのは弁慶に虎の連想ぐらいのものだが、そんなくだらぬ連想に頼ったとしたら、芭蕉も相当なへぼだったということになる。

月院社何丸の「七部集大鏡」は、「寅は猛獣にして風を司る故に、寅の日を祝ふは刀工の常なるべし。寅年寅月寅の日に打たる刀を三寅と号して、伊豆権現に納めしとなり」と説く。尤もらしい俗説で、刀工の吉日はむしろ庚申だ。第一、句は刀鍛冶ときまっているわけではない。野鍛治であってもよい。

その程度のことを云うなら、前句の余情として静御前から寅御前を連想したとか、あるいは前句を東北-寅-の方位に見定めたとか考えてもよさそうなものだが、それすら思い付いている注はないようだ。

結局、無難にやり過ごせば、「寅は泰の卦に当り、陽気盛んにして、武に相応しき故に、かりそめに取用ゐられるしならむか。‥寅の日を尚ぶこと当時の俗習なりしならむ」と見る露伴の説に与することになる。つまり、はこびの虚を実に執成すためのおとなしい遣句と見るわけだ。

柳田国男の「木綿以前の事」にも、三句について、「さういふ日-はやり正月-に撫子を飾りにすることも空想なれば、次の句の弁慶の宮とても実在ではない。もしもそんな宮があったら鼓を打って手向けるだろう位な所で、此一聯の句は出来たのであった。それをぢみちの方へ引戻さうとして、寅の日の一句は附けられたものと思ふが、尚興味はそゞろいて次の南京の地といふ句になったのである」と云っている。これも「寅の日」を気分による思付以上のものではないと眺めている。

どうも釈然としない。付けた人が芭蕉であるからとりわけこだわりたくなる。
「三人言エバ虎ヲ成ス」-戦国策-というよく知られた諺がある。起りは、魏の龐葱-ホウソウ-が趙都邯鄲に人質として送られた時、二人まではともかく三人が噂をすれば、市中にいるはずもない虎でも現実にいると思いこむようになると弁疏して、彼に対する。讒言の事実無根であることを魏王恵に訴えた故事にもとづく。

「寅の日」の思付は、どうやらこのあたりらしい。芭蕉は、前が二人までも見えすいた嘘をつくから、三人目は信じてもらえる嘘をつこう、と云っているのである。取合せるに鍛冶屋を以てしたのは、前句の鼓打つのひびきを利かせ、弁慶に打たせるなら鼓よりも鉄がふさわしい、という軽口の応酬だ。刀工などと物々しく考えると解釈はへぼ筋にはまる。

有り様は鍛治の早起き、つまりごく平凡な勤労の讃美である。この力強い槌音には民俗の実情がある筈だから、よく耳を澄ませてごらん、と句は云いたげだ。「寅の日」と絶妙に起して、転合はいいかげんにして俳諧の本筋に戻れ、とは景情兼ね備えた捌きぶりで、即興の機心もここまでくれば冴えている、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

つゞみ手向る弁慶の宮

2008-10-13 22:55:35 | 文化・芸術
Alti200601046_2

INFORMATION
林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」


―四方のたより― ポカラ・きしもと学舎だより

先月中旬の発行の筈だった「きしもと学舎の会だより」-Vol.10-を1ヶ月遅れでやっと仕上げ、どうにか発送にこぎつけた。これも突然降りかかった悲劇の所為だが、ひとまずはやれやれである。

岸本康弘は5月末、例によってほぼ半年ぶりにネパールから帰国して以来、いまなお宝塚の自宅に不自由な身をかこちながら暮らしている。ここ数年はそのパターンを繰り返すばかりだが、さすがに身体の方は衰えが目立つ。

会報の挨拶のなかで、「この正月に肺に穴が空いて咳が止まらず、ポカラで一週間ほど入院」したと、岸本自身も書いているように、またいつ倒れるやもしれぬといった危機を抱えながらの、学舎の維持運営である。

長年にわたったマオイストらによるネパールの民主化騒動もやっと平和的解決をみて、「ネパール王国」から「ネパール連邦民主共和国」へとなったが、長く続いた内乱状態にひとしい治安の悪化は、主要産業たる農業と観光を疲弊させ、国家経済に深刻な影響を与えたまま、とくに観光産業の復興はいまだ険し、といった感がある。

「ポカラきしもと学舎」とともに、車椅子の詩人岸本康弘の苦闘はなおもつづく。

詩「苦痛の竿先」

ぼくの左手はいつも
針の筵のような
しびれの激痛に包まれている
一〇〇キロの鉛を提げているようだ
それに
しびれて立てないのだ
これさえなければどんな辛抱でも、とよく思う
そうだろうか
別の苦痛が襲ったら
やはり
なんとかしたいと喘ぐだろう
甘受できるほど心は大きくないにしても
ひたすら辛抱しつづけていると
苦痛の竿先に
いのちの免罪符が見えることがある
そのとき
執着を昇華させてくれる佳人に会った気がする

   ―岸本康弘詩集「つぶやくロマン」所収―

「きしもと学舎の会だより」-Vol.10-は此方からご覧になれる。


<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」-28

  はやり来て撫子かざる正月に  

   つゞみ手向る弁慶の宮  野水

次男曰く、俄とはいえ正月にナデシコを飾るといえば、有ると思えば有り無いと思えば無い風俗だと誰でも考える。むろん、撫子の風情にも目がとまる。

野水句は、「弁慶の宮」「つゞみ手向る」と剛柔の取合せを以てした奇抜な対付の趣向で、「つゞみ手向る」は「撫子かざる」の移りだとは容易にわかるが、これも有りそうで聞いたことのない話だ。柳田国男の「生活の俳諧」中、「山伏と島流し」にも、二句共まったくの空想の所産だと説いている。

尤も、「撫子かざる」だの「つゞみ手向る」だのは、実際の行事としてどうであれ、祓を支える人情としては有ってよい。そう思わせる詩味が、先の胡麻千代祭などよりは謎掛を複雑にする。

所の名よりも情の見究めを促さんがために、二句対の虚事に作って実へ執成す興を盛り上げた、と考えればわかる。因みに次句は客人芭蕉である。もてなしになるだろう。

弁慶の宮については錦江の「七部通旨」に考証がある。「奥州平泉不動院に弁慶の宮あり、荒人神といふ。近村隣郷信仰甚しく、此絵像を安産の守とす。霊験著しといふ。按ずるに其場の付にて撫子に安産の守の寄せもあるべきか。東海道藤沢の駅にも弁慶の宮あり、金子の宮と称す。其ほか諸国に猶あるべし」。

尤も、「つゞみ手向る」風習については何も云っていない、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

はやり来て撫子かざる正月に

2008-10-12 23:56:58 | 文化・芸術
080209018

INFORMATION
林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」


―世間虚仮― タイ政府与党解党か?

米国初の金融危機から世界同時株安の震撼と日本人のノーベル賞連続受賞などで沸き返る一週間だったが、11日-土曜-の記事で、タイの最高検が最大与党「国民の力党」に解党処分を憲法裁判所に申し立てた、というのにははひときわ驚かされた。

18行4段抜の記事本文はさしたる量ではないが、与野党入り乱れ政党ぐるみの選挙違反が常態化したタイの政治事情が端的に伝えられており、先月観た映画「闇の子供たち」とも重なって、長年にわたるタイ王国の政府や軍部トップから国民大衆の底辺に至るまで滲透しきった構造的腐敗の根深さを思い知らされたものである。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」-27

   釣瓶に粟をあらふ日のくれ  

  はやり来て撫子かざる正月に  杜国

次男曰く、流行り正月と云って、天災地変や悪疫の流行などがあると正月を二度重ねて厄払いをする風習が、古くから各地にある。俄正月・触正月とも云うが、季詞ではない。ないが、ことの性質上、夏-陰暦6月朔日など-に行った例が多いようだ。

句はその流行ると正月を上下に裁分けて作ったものだと思うが、あるいは「疾病-はやり-来て」かもしれぬ。いずれにしろ、季を雑から夏へ転ずる趣向に流行り正月を使っている。

但し、季語は「撫子」。ナデシコは秋の七草の一つだが常夏という異名もあるとおり、「万葉」以来秋にも夏にも詠まれてきた花だ。連・俳でも夏に扱う。「はなひ草」以下陰暦6月とするものが多く、「年浪草」その他に5月としているものもある。現代の歳時記が多くこれを初秋に部類しているのは、山上憶良の「秋の野の花を詠む」と題した有名な歌があるからだ。どちらでもよいようなものだが、古名の伝統は七草よりやや重い。

夏正月にナデシコを飾るなどという風習はどこにもあるまいが、云われてみればいかにも有りそうに思わせる。二句一意、農村日常の暮しには流行り正月をからませて、趣向を面白くしたと読んでおけばよい。夏正月なら餅も粟餅がふさわしい、という興だ、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。