山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

さみしい湯があふれる

2010-06-09 22:58:29 | 文化・芸術
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―表象の森―言の葉/宮本常一

「日本人にとっての未来は子供であった。自らの志がおこなえなければ、子供にこれを具現してもらおうとする意 欲があった。子供たちにも、またけなげな心構えと努力があった。」/日本の子供たち-1957-

「歩きはじめると歩けるところまで歩いた。そうした旅には知人のいることは少ない。だから旅に出て最初によい人に出会うまでは全く心が重い。しかし一日も歩いているときつとよい人に出会う。そしてその人の家に泊めてもらう。その人によって次にゆくべきところがきまる。」/民俗学の旅-1978-

「日本の村々をあるいて見ると、意外なほどその若い時代に、奔放な旅をした経験を持った者が多い。村人たちはあれは世間師だといっている。
明治から大正、昭和の前半にいたる間、どの村にもこのような世間師が少なからずいた。それが、村を新しくしていくためのささやかな方向づけをしたことは見のがせない。いずれも自ら進んでそういう役を買って出る。政府や学校が指導したものではなかった。」/忘れられた日本人-1960-


―山頭火の一句―
行乞記再び -78-
3月19日、お彼岸日和、うららかなことである、滞在。

今朝は出立するつもりだつたが、遊べる時に遊べる処で遊ぶつもりで、湯に入つたり、酒を飲んだり、歩いたり話したり。

夢を見た、父の夢、弟の夢、そして敗残没落の夢である、寂しいとも悲しいとも何ともいへない夢だ。
終日、主人及老遍路さんと話す、日本一たつしやな爺さんの話、生きた魚をたたき殺す話などは、人間性の実話的表現として興味が深かつた。

元寛君からの手紙を受取る、ありがたかつた、同時にはづかしかつた。

※句作なし、表題句は前日付記載

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Photo/嬉野温泉全景

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Photo/温泉名物の湯豆腐


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春が来た旅の法衣を洗ふ

2010-06-07 23:09:45 | 文化・芸術
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―世間虚仮― Soulful Days-39-予想外、重い判決

自動車運転過失致死傷事件、M被告の判決が下された。

「禁固1年、執行猶予3年」

前回の公判で、検察の求刑は実刑の禁固1年というものであったのだが、Mに対しもっと軽微な刑を望んでいた被害者側としては、下された判決は予想外に重いものとなった。

判決主文に付し、補足的に語られた裁判官の説明のなかで、私としては聞き逃しがたい事実関係が語られていた。
それは検察が当初より主張していた、右折しようとしていた被告Mが、直進のT車に気づいた時点が、事故発生の2秒前であり、直後にMが制動動作に入ったものの、この時点では事故の避けようがなかったことを、徐行時速や距離関係の数値を挙げて詳細に解説したものであったが、この論理構成自体裏返せば、私が検察などで主張してきたように、ほんとうに2秒前の時点でMが直進のT車に気づいたのであれば、このときMは制動などせずそのまま右折行為を遂行しさえしておれば、事故が起こるはずもなかった距離関係なのだという矛盾を孕んだものなのだが、そのことにはいっさい触れず、事実関係の構成論理としてわざわざ裁判官が言及したことは、前回公判においてドライブレコーダーの記録動画が証拠資料として検察から提出され、わざわざこれをTV画面で検証したことと併せて、裁判官と検察の両者合同による作為を感じさせずにはおかないものである。

ところで、平成21年度犯罪白書によれば、自動車運転致死傷事件-H20年度総件数737,396件-で公判請求されたものは、0.9%の6636件である。要するに6600件余りが起訴され法廷で裁かれた。その判決内容は、6ヶ月以上10年未満の実刑判決が9.7%、残りの90.3%が執行猶予判決だが、その内訳は6ヶ月未満0.6%、6ヶ月以上1年未満22.3%、1年以上2年未満54.0%、2年以上13.4%となっている。
また、飲酒や酒気帯びなどが絡んだ危険運転致死傷事件においては、H20年総件数307件で、内75.9%の267件が公判請求され、96件が実刑判決、171件が執行猶予判決、2年以上の執行猶予は267件中の60件、22.5%となってており、
これらの統計に照らせば、このたびのMへの判決は、その重さにおいて実刑と執行猶予の2年以上を足した23.0%の範囲内にあり、これは危険運転致死傷事件における2年以上の執行猶予件数とほぼ同値となり、危険運転致死傷の場合でさえ2年以下の執行猶予判決が46%もあるという事実と照らせば、かなり厳しいものと言わざるを得ない。

犯罪事件における、警察の捜査、検察による起訴等の処分、そして裁判所の公判及び判決、これら司法三セットの構造システムが、被疑者の人権を守りつつも、つねに夥しい数の事案を処理しなければならぬという状況下で、いかに効率よい処理能力が求められているかを思いやれば、被告自身が根幹の事実関係を争うという訳でもなく、このたびの私などのように、明々白々の事実でもって異議申立てが出来る訳でもなく、少なくとも彼ら司法サイドから見れば、いかにも中途半端な事実認定への疑問なんぞで、本来ならたった1回の公判であとは判決言渡しとなるケースを、さらに余分の公判を煩わせたがために、謂わば見せしめ的に刑が重くせられたのではないか、とそんな下司の勘ぐりもしたくなるような判決ではあった。

―山頭火の一句― 行乞記再び -77-
3月15日、16日、17日、18日、滞在、よい湯よい宿。

朝湯朝酒勿体ないなあ。
余寒のきびしいのには閉口した、湯に入つては床に潜りこんで暮らした。
雪が降つた、忘れ雪といふのださうな。
お彼岸が来た、何となく誰もがのんびりしてきた。-略-

方々からのたより-留置郵便-を受取つてうれしくもありはづかしくもあつた、味々、雅資、元寛、寥平、緑平、俊の諸兄から。
緑平老の手紙はありがたすぎ、俊和尚のそれはさびしすぎる、どれもあたたかいだけそれだけひとしほさう感じる。

ここに落ちつくつもりで、緑、俊、元の三君へ手紙をだす、緑平老の返事は私を失望せしめたが、快くその意見に従ふ、俊和尚の返事は私を満足せしめて、そして反省と精進とを投げつけてくれた。

とにもかくも歩かう、歩かなければならない。
ここですつかり洗濯した、法衣も身体も、或は心までも。-略-

※表題句の外、3句を記す

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Photo/10年前から催されている嬉野温泉の冬の風物詩「うれしのあったかまつり」における灯籠の群れと、面浮立-メンブリュウ-の踊り

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Photo/嬉野茶の歴史は古く、永享12年(1440年)平戸に渡来してきた唐人が不動山皿屋谷に居住して陶器を焼くかたわら、自家用にお茶を栽培したのがはじまりといわれ、その製法は、日本でも珍しい釜炒り茶製法の流れをくんだ、蒸製玉緑茶が主流、とか。

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嬉野茶の声価は日本的-宇治に次ぐ-、玉露は百年以上の茶園からでないと出来ないさうである、茶は水による、水は小川の流れがよいとか、茶の甘みは茶そのものから出るのではなくて、茶の樹を蔽ふ藁のしづくがしみこんでゐるからだといふ、上等の茶は、ぱつと開いた葉、それも上から二番目位のがよいさうである。


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枯草の長い道がしぐれてきた

2010-06-06 23:22:06 | 文化・芸術
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―日々余話― 呑むほどに、酔うほどに‥

昨夜の宴、集ったのは一人増えて7人となった。
いずれも昭和19年生れだが、お互いにとっては初めての人間もいる。いずれの者ともすでに面識あるのはMひとりの筈。

日頃、なかなか会えないのだが、それだけに、逢いたい奴と会うというのは、まことに心地よい。
お互いの太い糸、細い糸を手繰り寄せての集いである。これからも各々個別には相見えることはあろうけれど、この7人が一堂に会することは、もう二度と起こりえぬのかもしれぬ、そんな予感さえ孕む一夕。

誰かが、想いのありったけを、語り尽くす訳でもない。この年まで歩みきて、いまさらそんな必要はない。それぞれに空中戦のように飛び交う言葉の切れ端から、茫としたものながらも立ち上がってくるそいつの全体像といったものが仄みえてくる。それでじゅうぶんに堪能、腹が充たされてくるといった感じだ。

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愉しかった。


―山頭火の一句―
行乞記再び -76-
3月14日、曇、時々寒い雨が降つた、行程5里、また好きな嬉野温泉、筑後屋、おちついた宿だ

此宿の主人は顔役だ、話せる人物である。

友に近状を述べて、-
嬉野はうれしいところです、湯どころ茶どころ、孤独の旅人が草鞋をぬぐによいところです。
私も出来ることなら、こんなところに落ちつきたいと思ひます、云々。

楽湯-遊於湯-何物にも囚へられないで悠々と手足を伸ばした気分。
とにかく、入湯は趣味だ、身心の保養だ。

※句作なし、表題句は1月26日付の句

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Photo/武雄から嬉野へ向かう俵坂峠の番所跡

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Photo/俵坂峠にさしかかる嘗ての長崎街道

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Photo/嬉野温泉、嬉野川沿いの露天風呂


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ここにおちつき草萌ゆる

2010-06-04 23:48:57 | 文化・芸術
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-日々余話- 田の字ばかりの朋輩が‥

富山と石川の県境近く、久利須という山深い地に住む友人が、明日は久しぶりに大阪に出てくるというので、同年の友らで逢おうじやないか、ということになった。
今のところ男女6人の同年の輩が集まるようだが、それにしてもこの顔ぶれ、6人中5人までが「田」のつく苗字であることに、いまさら気づいて吃驚してしまった。

日本の苗字は、佐藤と鈴木の二者が他を圧して多いというのは、昔からよく耳にした噺だが、丹羽基二著「日本人の苗字―三〇万姓の調査から見えたこと」-光文社文庫-によれば、姓にもっともよく使われているのが「田」字、次に「藤」、以下、山、野、川、木、井、村、本、中、と続いているらしい。

ちなみに、明日の夜、相寄る「田」のつく朋輩たちを、苗字の多い順に並べてみれば、田中-4位、石田-59位、上田-60位、飯田-124位、林田-416位とあいなる。

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友が住む富山県小矢部市の久利須村-?-

―山頭火の一句― 行乞記再び -75-
3月13日、曇、晴れて風が強くなつた、行程6里、途中行乞、再び武雄町泊、竹屋といふ新宿

同宿は若い誓願寺さん、感情家らしかつた、法華宗にふさはしいものがあつた。

※表題句は<改作>と註あり、他に句作なし

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Photo/武雄町の遠景

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Photo/武雄神社の大楠

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Photo/大楠の内部には小さな祠が

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Photo/武雄温泉の北はずれ、紅葉に染まる廣福寺の山門


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きのふは風けふは雪あすも歩かう

2010-06-03 23:02:22 | 文化・芸術
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―表象の森― 「平家物語」と慈円の「愚管抄」

源平両氏が交替で覇権を握るという認識は、平安末期の保元・平治の乱にはじまり、治承・寿永の乱にかけて形成された歴史認識である。しかし内乱の複雑な過程を単純化し、それを源平交替として図式化してとらえたのは平家物語であった。

平家物語の編纂が、比叡山-延暦寺-周辺で行われたこと、とくに天台座主慈円が、その成立になんらかのかたちで関与したことは、「徒然草」226段の伝承―後鳥羽院の御時、慈鎮和尚-慈円-の扶持した信濃前司行長が、平家の物語を作りて、云々とする伝承-からもうかがえ、また、平家物語が延暦寺の動向に詳しいこと、慈円の「愚管抄」との密接な本文関係が指摘されること、からも傍証される。

「愚管抄」が書かれたのは、承久の乱-1221年-の前年、後鳥羽院と鎌倉幕府の関係が、修復不可能なまでに悪化していた時期である。そのような時期に、幕府を敵対的な存在としてではなく、むしろ「君の御まもり」として位置づける慈円の史論とは、現実の危機を歴史叙述のレベルで克服する企てだったろう。

慈円の「愚管抄」によって意味づけられ、平家物語の語りものとしての広汎な享受によって流布・浸透してゆく源平交替の物語とは、要するに、源平両氏を「朝家のかため」「まもり」として位置づける論理であった。いいかえればそれは、武家政権を天皇制に組み入れる論理である。

王朝国家が、武家政権に対して最終的に発明した神話だが、しかしそのような源平交替の物語が、源氏三代のあと、北条氏が桓武平氏を称したことで、以後の歴史の推移さえ規定してゆくことになる。
たとえば、鎌倉末期に起こった反北条-反平氏-の全国的な内乱が、あれほど急速に足利・新田-ともに源氏嫡流家-の傘下に糾合されたこともまた北条氏滅亡ののち、内乱が公家一統政治として落着することなくただちに足利・新田の覇権抗争へ展開した事実をみても、源平交替の物語が、いかに当時の武士たちの動向を左右していたかがうかがえる。

内乱が社会的・経済的要因から引きおこされたとしても、それは政治レベルでは、ある一定のフィクションの枠組みのなかで推移したのである。そしてそのような物語的な現実に媒介されるかたちで、太平記はさらに強固な源平交替の物語をつくりだしてゆく。
  -兵藤浩己「太平記<よみ>の可能性」より

―山頭火の一句― 行乞記再び -74-
3月12日、また雨、ほんに世間師泣かせの雨だ、滞在。

札所清水山へ拝登、山もよく滝もよかった-珠簾庵-、建物と坊主とはよくなかつたが。
終日与太話、うるさくて何も出来ない、私も詮方なしに仲間入して暮らす。
名物小城羊羹、頗る美人のおかみさんの店があつて、羊羹よりいゝさうな!

※句作なし、表題句は2月26日付の句

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Photo/俗に清水観音と呼ばれる九州西国第22番札所清水山宝池院

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Photo/別名珠簾の滝とも呼ばれる名水100選の清水の滝


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