あまねのにっきずぶろぐ

1981年生
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

サッド ヴァケイション

2016-07-23 05:07:02 | 映画




ストーリー

中国人の密航を手助けしていた健次は、中国人マフィアから逃げるため運転代行に転職した。
ある日、泥酔客を送って行った先は、若戸大橋を間近に見上げる小さな運送会社の間宮運送。
そこで健次はかつて自分を捨てていった母の千代子を目撃する。




寺山修司が母親との強い共依存関係状態にありながら「母の不在」を見たのなら
この「サッドバケイション」の浅野忠信演じる主役健次は自分を捨てたくせに自分に執着をする母親に同じく「母の不在」を見たのではないだろうか。

母親の記憶がない自分にとって「母」とはまるで未知の存在のようだ。
この映画で石田えりが演ずる母親像というのは、息子が自分を捨てた母親に対する恐怖と願望がぐちゃぐちゃに合わさったとてもリアルな母親像に思える。

青山真治監督は最近「共喰い」の映画も撮ったけれども、あの原作である田中慎弥の小説の母親像もこの映画とよく似ていて「リアルな母親」というより、不気味なほどに強く、母性を超えてしまってるような家族愛の不在を感じた。

自己愛が巨大になったものが神々しくなるのは何故なのだろう。

母を知らない自分の書きかけの小説がこの「サッドバケイション」のひとつのテーマでもある「自分を捨てた恐ろしい母親に対するひとつの復讐」というのとほぼ同じものなだけに、とても面白いものがあったし、深く考えさせられる。

この母親もその強さは母性愛の深さや人格の深さではなく、どこか無知な子供のような強さなのだ。
子供は大切なものを失っても、それは心の奥底に封印し、すぐに生きることに熱中する。
それが大人でもある状態はある意味「強さという狂気」のようなものだ。

母親の矛盾極まりない性質を目の当たりにして頭を抱え込む息子健次の苦悩は計り知れんものがある。
そら、ああなってまうよ、という感じである。

男という生物が母親に求めるものが巨大であることが息子の壊れ行く姿を見るだけでよくわかる。
男が行うすべてが母親に認めてもらうがための行いであるとすら思えてくる。

男は「陽」で女は「陰」というのもこの映画の母親を見れば深く頷けるものがある。
陽である男が求めるすべては女の陰なのだ。
どんな母親もその母性愛というのは恐ろしくてならないものなのだろう。
子供を捨てる母親も子供から離れない母親も根源的に同じ母性愛を備えていると感じられる。
「母は強い」「女は強い」というより「母は恐ろしい」「女は恐ろしい」というほうがこれは近いんじゃないか。
女に備わった母性という本能は男の持つ動物的な本能よりずっと恐ろしいものなんだろう。

自分はそんな母の姿を目にして育ってこれなかったが、まったく同じものが自分の中にも存在していると思うと自分も恐ろしくなる。

自分の胎内で何ヶ月と育てあげ、自分の乳を飲ませていた子供を捨てたり、または堕胎するというのもこれまた恐ろしい。
女は男以上に恐ろしい。
切り離そうにも切り離せない母性というものに女は一生涯苦しむのだろう。

自分が母親になればどうなるのか興味深いが、今以上に恐ろしくなることは間違いない。
生命を産み落とす存在というのはそれだけでも恐ろしいものがある。

女が母親であることの狂気を男が描く母親像を通して垣間見たい方はこの「サッドバケイション」をお奨めします。

で、自分は女やけども、同じようなテーマを書くというのは母を知らない娘もまた同じような母親像を描いてしまうものなのだからか?自分が男に近いからか?母を知らない娘は男化するのかどうかは、わからん話である。

とりあえずこの映画は面白かった。
『Helpless』『EUREKA』に続く“北九州サーガ”の第三作、完結作品。
「男の狂気」「人間の狂気」に続き「母親の狂気」で締めくくると。
いいんじゃないかな。

中国人マフィア役の本間しげるは異質を放ってて魅せられた。
斉藤陽一郎の演技がまたこの上なく自然ですごく良かった。
オダジョー(自分の兄と似てる)と宮崎あおい(役名が自分の本名と同じ)の関係の続きは別作品でまた作ってほしかった。
続きを観れないのは、悲しい。