あまねのにっきずぶろぐ

1981年生
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

価値なき生命

2016-12-29 20:32:24 | コラム
今日は前回の記事映画「イディオッツ」感想 愚かでいることは素晴らしいに引き続きまして障害、差別のテーマでまた記事を書いてみたいと思います。


今日の朝に読んだ下記の記事を読んで障害、差別、そして優生思想についてまとめました。いくつかの箇所をまずは転載します。


障害者殺傷事件の背景に―― 「優生思想」と「隔離」の怖さ


優生思想に後押しされた虐行
事件後の8月5日、藤井さんは日本障害者協議会代表として声明を発表した。
そこで触れたのが、第二次世界大戦時のナチス・ドイツの「T4作戦」だった。

〈容疑者の衆院議長にあてた手紙文の「障害者は生きていても仕方がない」「安楽死させた方がいい」は、ナチス政権下でくり広げられた「価値なき生命の抹殺作戦」(T4作戦)と重なります〉

「価値なき生命」とは働けない者、兵隊になれない者という意味で、対象は知的障害者と精神障害者が中心だった。
藤井さんは2015年、NHKとともにドイツに向かい、20万人以上の障害者が殺されたこのT4作戦を取材した。
虐殺の背景には、社会の役に立たないものは殺してかまわないという考え方があった。
この考え方に近いものを植松容疑者がもっていたのではと藤井さんは懸念する。








「遺伝性障害は生涯にわたってお金がかかります。それはあなたのお金です」と訴え、障害者を安楽死させることを促したナチスの月刊誌の表紙。
「T4作戦」は1939年から始められ、約20万人の障害者がガス室などで虐殺された。この手法はその後ユダヤ人の虐殺(ホロコースト)へと受け継がれた





この事件には、彼個人の「異常さ」だけで片づけられない問題があります。
彼が抱いていた「優生思想」です。
彼は「障害者は不幸を作ることしかできません」と考えていた。
残念ながら、こうした考えはいま社会全体を覆っているようにも思います。
つまり、社会に根を下ろしている優生思想に後押しされた虐行とも言えるのです。





藤井さんは、WHOの統計資料をもとに「世界のすべての精神科病床の2割が日本に集中している」という。
建前としての理念は掲げるも、事実上、障害者は隔離された施設や病院にいつまででも入れておけ、というのが日本の障害者政策の実相だ。




転載終わり






私は当時のナチス政権下で生きていたなら、ナチスの強制収容所へ運ばれていたなら、間違いなくガス室で処刑されていた存在です。


自分はかなりの重度の引きこもりでもうここ一年以上くらいほぼ外に出ない状態で暮らしています。
引きこもりだしたのは2008年からで、親は二人とも既に他界しているので2010年から生活保護を受けて一人で暮らしています。
鬱症状と対人恐怖、社会不安性障害といったもので外に出ることが極度に億劫で、生活保護を受ける人間の規則である定期的な通院さえまともにできず、病院には一年以上くらい行けていない状態です。

けっこう重い状態なのですが、どんなに苦しいと人にネット上で話しても、大体の人が自分のことを見下したり、苦しさが伝わってこないと言われたり、本当は軽い病気なのに不正で生活保護を受けてるんだろうという目でよく見られます。

そういったことが続いて、人とまともに関わることがどんどん苦しくなってきているようで、自分は今年から自分の話し相手はこの自分が自由に書くことができるブログだけになっています。

たまに話しかけてくる人間が一人いますが、相手は働いている人間なので働いてないわたしを見下しているというか、まあ心配で言ってくるのかもしれませんが、働く気が起きないから働けないと言ってるのに、何で働かないんだと言われることはすごく苦しいことです。


しかしあからさまに差別してくる人間というのはわかりやすいもんで、傷つきはしますが、そういう人間は自分の汚さとか、自分に対する憎悪の激しい人間ばかりなのでわたしからしたら大事な大事な仲間です。
だから傷つけられても納得しやすいものがあります。

でも精神障害を持ちつづけること、働かない人間で生きつづけることでずっと続く苦しみの一つに、ほとんどの人間から、差別されつづけている状態であるという事実、これを感じながら生きつづけることは、簡単に納得できるものではなく、この苦しみは生きていく中で絶望感へと繋がりやすい深い苦しみであると感じています。






「働かざる者、食うべからず」という言葉はもともとは新約聖書のテサロニケ人への第二の手紙 3章10節の


わたしたちがあなたがたと共にいた時にも、「働きたくない者は、だれも食べてはならない」と、あなたがたに命じておいたはずです。


という聖句が元であるのですが、この聖書というもの自体が当時の権力者によって宗教で人を操りやすくするために、勝手に改訂された箇所が多いものであると言われています。
これを書いたイエスの弟子であるパウロが記した言葉とされていますが、本田哲郎神父はこの部分を著作からはずしており、これは偽書である可能性は高いと私も思います。
参考リンクそもそもこの書簡は偽書だと思います。パウロ直筆ではない。なぜならパウロの手紙の書き方は起承転結がしっかりしているのに、この手紙の結びはあっさりしすぎているからです。パウロだったらもっとしつこく書いたでしょう。


何故なら、イエス自身はこんな言葉を言う人だったからです。


それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。


空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。
マタイによる福音書 6章25,26節


また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。
28節

きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。
30節

この聖句から、イエスは着る物や食べるもので思い煩い、食べるため、衣服を着るために心を悩ませて働くことをよしとする人ではなかったことがわかります。

神は種を撒いて刈り取ったり倉に取りいれたりと働くこともしない空の鳥を養っておられ、働きもつむぎもしない野の花を養い、装ってくださるのに、なにゆえに、そのあとには「働きたくない者は、だれも食べてはならない」などということを言うことがあるでしょうか?









相模原障害者施設殺傷事件の容疑者である青年Aの持っていた優生思想は、強者が持つ思想では決してなく、これは弱者が持つ思想です。
強者と弱者の定義は、
自分が苦しいときに他者に手を差し伸べられる人が強者であり、
自分が苦しいときに他者を巻き添えにして苦しめてしまう人は弱者だと自分は感じています。

たぶんこの世界で三分の二以上は弱者である。

この国のありかたを見れば解ります。
先進国で珍しい死刑存置国であり、同時に世界一の中絶大国であり、ブラック企業ばかりがはびこる過労死と自殺大国です。

自分の愛するものが殺されたとき、相手に死刑を望む人は弱者です。
畸形児が生まれると解れば中絶する人は弱者です。

ほとんどの人が、自分が苦しいときに、他者を助けることができません。
他者の生命を生かそうとするのではなく、殺そうとします。

「優生思想」とは「価値なき生命」と判断した他者の生命を、奪う思想です。
「生きる価値のない生命」と独断的に判断し、生かそうとせず、殺すほうを選びます。

「生きる価値」があると思うのならば、どのような理由があっても堕胎しないはずです。
死刑を望まないはずです。

「働かざるもの、食うべからず」とだけ言い捨てはしないはずです。

「生きる価値」が、人間に平等にあると思うのならば。

しかし多くの人は、平等よりも、不平等の思想で「生きる価値」を認めないとして、生かさないことを望みます。



「障害者は生きていても仕方がない」「安楽死させた方がいい」
と手紙に書いた青年Aの優生思想と、中絶や死刑を肯定する人、そして自ら働こうとしない者は生きる価値がないといった思想はさほど変わりのない思想のように私は感じます。

独断によって、人間の生命の価値に優劣を置き、生かすより死なせるほうを選んでいるからです。
死刑になった人は生きたかったかもしれない、堕胎された胎児はそれでも生きたかったかもしれない、障害者は、生きたいのに殺されたかもしれません。
働いて生きることをやめた私は、それでも生きて行きたいのです。


日本では死刑も中絶も、安楽死というものがありません。
死刑囚も胎児も苦しみぬきながら死にます。
それは明らかに、拷問です。


彼は「障害者は不幸を作ることしかできません」と考えていた。

この青年Aの言った言葉の、「障害者」のところを書き換えてみましょう。

「死刑囚は不幸を作ることしかできません」
「奇形児は不幸を作ることしかできません」
「働かない者は不幸を作ることしかできません」

だから殺すのです。処刑するのです。堕おろすのです。「食べる価値もない、生きる価値もない」と言うのです。


不幸だけを作る存在など、わたしは存在しないと宣誓します。


最後にこの記事を書かれた全盲という障害を持ちながら障害者の問題に向き合い続けている藤井克徳さんの言葉をもう一度載せてこの記事を終えたいと思います。




残念ながら、こうした考えはいま社会全体を覆っているようにも思います。
つまり、社会に根を下ろしている優生思想に後押しされた虐行とも言えるのです。






映画「イディオッツ」感想 愚かでいることは素晴らしい

2016-12-29 15:15:56 | 映画
今日の朝方にかけて、たぶん前に観たのは2001年から2003年くらいのころにビデオで観てすごく感動したラース・フォン・トリアー監督の98年の作品「イディオッツ」という映画をもう一度観た。












「Idiots(イディオッツ)」とは、「白痴たち」という意味です。

内容は、知的障害者を装って人々を騙したり、お金を稼いだりと社会そのものを挑発する行為を繰り返すサークルに集う人間たちを手持ちカメラで追っていくという、役者たちにはほとんど即興で演じさせ、演出も即興を重視しているドキュメンタリータッチな映画なのですが、これが二度目に観ても大変素晴らしい作品でした。

映画の中には知的障害者を装うイェンス・アルビヌスが演じる青年ストファーの知的障害者への差別的発言もありました。

たしか本物の知的障害者が突然現れたとき(監督の即興演出か偶然かで)に、「ガス室で殺しちまえ」か「ガス室で殺せばいい」という台詞があったはずだ。(この台詞がイェンスのアドリブか監督の脚本かはわからない…)

そしてもっとも心に深く残るひとつの台詞がありました。
最初はそんなサークルに集う彼らの仲間に入り、彼らを冷静に観察し続ける過去の何かの出来事で深い悲しみの中を生きているカレン(ボディル・ヨルゲンセン)が救われたような顔をして後半に言う台詞。

「愚かでいることは素晴らしい」


知的障害者を装うこのサークルの人間たちは精神の正常さを保ち続けることが困難な人たちばかりなわけです。
それほどの苦しい過去を皆持っている。
言い方を変えると、なんらかの精神障害や、精神疾患性を持ち合わせている人間たちです。
普段はごく知的に話すことはできますが、何かが壊れやすくなっていて、壊れそうなところで生きている人たちばかり。

それは理性だったり社会のルールだったりモラルだったり、または生きることそのもの、ほんとうに崖っぷちのようなところに生きている人たちばかりではないかと私は思いました。

だから彼らは人の悲しみや苦しみにものすごく共感します。
一方で、共感しない人間たちを軽蔑し、嘲笑したりもします。

彼らは皆、愚かでいなくては生きていけなくなった人たちなわけです。
今以上に。
普段から十分愚かだと、自分を憎悪し、嫌悪し続けているのが伝わってくるのですが、今以上に愚かにならなければ、救われない人たちなんですね。

自責や自罰といった心理は、これはキリがない心理で、どこまでもどこまでも自分を責めつづけ、自分を罰しつづけようとするものなのです。

それがひとつ、たどり着いたところが、わたしはこの映画のように思いました。
最も自分を苦しめるものはなにかと探しつづけ、見つけたもの。
それが知的障害者を装って生きる。という生き方だったわけです。

まったく監督から知らされずに、即興で本物の知的障害者たちが現れたとき、彼らは演技さえ忘れ、その罪悪感に苦しみます。

「知的障害者を装う」という演技自体、この映画の演技であるのに、いったい自分はなんて酷いことをしているのだろう。と

ここに「差別」という問題に対して、人間の果てしない罪悪の心というものがものすごく深いことを表していると思いました。

演技かどうかなど関係ないというように彼らは知的障害者たちを傷つけている自分に対してなんて酷い人間なんだと感じるのです。

「演技」だからと割り切れるような精神を持つことさえできないのは、みんなが現実でも無意識のうちに彼らを差別し続けていると感じているからです。

普段は無意識で差別し続けていることを意識的に感じるわけです。
そんな人間という生き物が救われる唯一の方法、それがものすごく逆説的な「自ら愚かな者を演じる」という方法だった。
差別している対象者を、自ら演じて生きることの苦しみと解放。
彼らが望んで求めたのは自罰的な「苦しみ」だけではなかったし、救済なる「解放」だけでもなくて、その両方が彼らには必要であり、それを求め続けて、その深い悲しみ、苦しみを通して、彼らは苦しみから解放されることができたんだと思うのです。

彼らは間違いなく、「苦しみながらの解放」を得ていたはずです。
「苦しむことでの解放」、彼らは自分を苦しめながら解放されていました。

ラース・フォン・トリアー監督の作品はどれも、このテーマなんですよね。
彼自身が、それを求めていることがよくわかります。

だからわたしはもう言えるかなと思いました。
いちばん好きな監督は、やっぱりラース・フォン・トリアー監督だな。

自分の求めていることも、彼とまったく同じものだからです。

そういえば、レディオヘッドのボーカルのトム・ヨークも以前こんなことを言っていました。
「誰もが幸福を求めるわけじゃない」と。
トムも、同じところに生きている人であるのがこの一言でもうわかっちゃう感じです。
トムもとてつもない自責感や罪悪感や自罰感を常に持って生きている人だというのは、彼の音楽を聴いていると苦しいくらいに伝わってきます。

そしてこれをよく言うなら、真面目で繊細で感性の鋭い人間といえますが、同時にトリアー監督もトムも私自身も重い鬱症状に苦しみつづけてきた人間です。

鬱が酷いときは、もう身体さえコントロールできないし、死んでいるような感覚なので、死体のように生きているのに「いっやぁ、俺は真面目で繊細で感性鋭いのだろうからみんな認めてくれよ」とも言いがたいものがあるわけです。

死体を死体でないものとして認めろといってるようなもんだからです。

そして欝のときは変にイライラとするときもあるのでだれかれ構わずに暴力的な行動や言動に出てしまうこともままあります。
だからそんな人間たちは、果てはこう言われます。

「精神障害者」「人格障害者」「精神疾患」「鬱病」「社会不適応者」「役立たず」「人を不幸にさせる者」「働かざるもの、食うべからず」

非常に、痛い言葉だと思います。
私がいつも、受けている差別の言葉であり、人の目です。
だから余計人が怖くなり、そんな人間たちは引きこもりがちになります。
でもその「人の目」とは、他者の目ではないのです。
「鏡」なのです。
この世にあるすべてが、私自身の「鏡」なのです。
自分が、自分自身に向かって、言い続けているのです。
「精神障害者」「人格障害者」「精神疾患」「鬱病」「社会不適応者」「役立たず」「人を不幸にさせる者」「働かざるもの、食うべからず」と。

ほんとうにひどい症状のときは、空や風や木や草や花など、本来癒されるはずである自然物たちでさえ、わたしに向かって同じ言葉を吐き続けます。
そして最後に決まって言われます。そのすべてから「死ね」と。

つまり、最も自分を「差別」しているのは、他者ではなく、自分自身というわけです。
自分が誰よりも自分を差別し続け、苦しめ続けている存在ということです。

そんな人間たちが救われる道とは何か。
救われる生き方とは何か。

それがこの映画「イディオッツ」で監督自身がたどり着いたひとつの自己救済。

自ら今よりも、もっとひどい障害者〈愚かな者)を自分自身を差別するために演じて、人々から蔑まれ、憎まれ、差別され、その苦しみによって、解放されること。

自分自身も、けっこう覚えがあります。
ほとんど無意識でやっているようなことも多くあると思いますが、たとえば私が統合失調症などの精神疾患の中で最も酷いといわれている精神病があるように見せかけ(幻聴、幻覚の症状があるように装ったりなど)、心配されたり忌避されたりすることで自分自身を嘲笑い、軽蔑し、みずから苦しもうとする方法です。

そして同時に、そんな自分を恐れたり、差別する人間に対して嘲笑している自分がいて、またその嘲笑している自分を自分が嘲笑するわけです。

そんな人間というのは、もう起きている間はずっと、自分をどこかで嘲笑しつづけて生きているので、ほんとうに心底から心が休まる瞬間というものは、一瞬さえありません。

これが本物の「精神障害者」なわけですが、彼らは救いを求めるほど、自分を苦しめることを選ぶのです。

こういった人間の心理を知ってからこの映画を観ると、カレンが言った「愚かでいることは素晴らしい」の意味がどれほどの苦しみと悲しみの中から発せられた言葉だったかを想像することができると思います。



でも私は思うのです。
これはなにも、きれぎれのところで生きている人間たちだけに当てはまるものではないはずだと。
何故なら、誰かを無意識にも差別しつづけて生きる人はほぼ全員だと思うからです。

差別する心がほんの少しでもある以上、その救いは、この映画の中にあるのです。


人間が愚かでいることは、本当に素晴らしい。

何よりもの、人間の救いだ。

わたしは断言できます。

いいえ、誓います。

神に。