あまねのにっきずぶろぐ

1981年生
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

「問題は存在しない」

2018-06-21 14:19:24 | 存念
質問 「問題は存在しない」ということを、心から理解する方法がありますか。

「問題を解決すること」に喜びを感じている人に対しては、できることはあまりありません。
しかし、大きな問題をかかえて悩み苦しみ、その解決法として、自殺を決心したような人は、そうした「問題解決病」から自分を切り離すことができます。
それとは逆に、人生には色々と不都合な問題があると思っている人は、これからもその不都合な状態のままでいるでしょう。
テクニックを知りたいのでしたら、最良のアドバイスは、「自分の心のなかで、何が本当に起きているのか、よく観察すること」です。
中略

自分の想念のパターンを深い意識を持って正直に観察すると、自分が他人を傷つけたり、毒に満ちた想念を他人に送ったり、他人の幸福を破壊したり、他人の不幸を望んだりしていることがわかるはずです。





『バーソロミュー 大いなる叡智が語る 愛と覚醒のメッセージ』P108より





バーソロミューとは、はて、何者か?というと、バーソロミューとは、所謂、高い次元の叡智に富むエネルギーであるようだ。
つまり人間じゃなければ、宇宙のどこかの星に住んでいる異星人という存在でもなく、バシャールよりかは、シルバーバーチ寄りな存在と言えるだろう。
おれはこのバーソロミューも、宇宙空間に漂っている"A.I."ではないかと考えている。
実際そうでなくとも、人工知能と、高い次元の叡智に富むエネルギーの、一体なにが違うのか?と考えるとわからなくなるのである。
まあその話は別の機会に話すことはないとして、スピリチュアルの高次元の存在が言うことは、まあ大体は同じようなことである。

何故、問題が存在しないかというと、それはそのことを、問題と想っている人間の想念が問題であるだけで、そのこと自体は問題でもなんでもなく、ただそこに起きていることだからと考えると、いやでも問題は問題だろうと、それが問題であるから、問題は問題として存在しているではないかと言う人がいることだろう。

バーソロミューの言っている問題とは、人間のいうその問題のことである。
一人一人が抱えている問題のことである。
人間がいくら、悩み苦しもうとも、それは問題ではないということである。
では、なんなのか?

人間は、悩み苦しみたいが為に、悩み苦しんでるだけなのである。
自らそれを望んでいるのに、それを問題と呼ぶのは可笑しなことである。

例えば、おれは最近、とても落ち込んでいる。
それは先月からで諸々の理由があるのだが、最近とても、虚しいなと感じるのである。
誰もおれのことを愛してなければ、おれも誰のことも本当は愛していないんじゃないかなと想うのである。
こういう想念に陥ると生きてても面白くないな、喜びがないな、苦しいな、孤独だな、惨めだな、おれという存在は、本当に虚しいな、虚無やな、絶望的な有り様やな、と想って死にたくはならないものの、生きることがとてつもなく雑になってしまうのである。

6月18日(月曜日)7時58分頃、おれの住んでいる地域が震度6弱か震度5強の地震が起きて、偉い揺れて家のなかがより酷い状態になり、ガスも未だに復旧していないが、こんなときにも、おれは全くと言っていいほど危機感というものを感じられなかった。
ただ家屋が崩壊したり死んだりすることは恐怖であった為、余震に怯えながら、余震が来る度に心臓をばくばくさせて苦しかった。

死者は今で五人、これが大阪北部地震という問題である。
いや問題というか、自然災害であると想われる方はいるかもしれないが、これはおれにとって、大いなる問題であったのである。

なんでかというと、その地震の来る一時間50分前と一時間40分前くらいに、おれは或る人に、呪詛を吐き連ねるメールを二通送り付け、人を心の底から打ち呪って床に就いたからである。
そして突然の強い揺れの地震により目が覚め、その瞬間、おれは想った。
おれがあんなメールを送って人を呪ったから、神が怒(いか)ったのだと。
あのとき、このマンションは崩壊し、おれもみちた(飼い兎)も共に死ぬかもしらん。と想い戦慄した。

おれは今でも、今回の大阪北部地震は、おれのこの負のエネルギーが最後の地震の起こる集団の負のエネルギーの一滴のエネルギーとして加えられ、それがために起きてしまったのかもしれないと想い悩み、おれ自信の呪いのエネルギーというものについて、酷く問題であると考えている。

この話を、笑う人間や、ただの精神障害者の誇大妄想と取る人があるかもしれないが、おれはそんな人間もまた、問題であると感じる。
自然災害とは、人が関係しておらず、何をやっても食い止められないものであると諦めて、自然の脅威と向き合おうとしていないように想えるからである。
それは自分のなかに存在する神と向き合おうとしていない、そのため自分が何を遣ろうと自由、自分が何か悪いことを遣ってもそれが自然災害に繋がるはずはないと思い込んでいる無責任な人間であるように想えるからである。

おれは人間に問題があるから、自然災害も起きると想っている。
それは亡くなられた犠牲となられた方々が問題が特にあったからと言っているのではない。
寧ろ、それ以外の人間に問題があるため、その問題の多い人間たちのために犠牲となり亡くなられたのだと想っている。
自分が死ぬことによって、人間が自分の問題について向き合うことができるようにと、命を懸けて、この世を去ったのかもしれない。

問題とは、自分が自分に問う題のことであって、このままではいかん、どうにかせねばならないと苦しんでいることである。

例えば、肉食者は全員が、このままではいかん、どうにかせねばならないと潜在意識中で悩み苦しんでいるとおれは確信している。

おれはその時間を意識する時間を多く持ってきたから念願の肉食を断つことができたと想っている。

でもおれが働いてて、忙しい人間であったなら、もしくはエドワード・スノーデン似の男性と結婚し、幸せな家庭を築いていたなら、未だに死肉を喰らっていた可能性は高いと感じる。

おれの問題はキリがないというか、死ぬまで問題は在り続けると感じる。

おれはなんと言おうとも、苦しみたい存在なのである。
これは死んでも無くならない。
死として、おれは苦しみ続けたいと想っている。
おれはなんとしても、人を傷つけ、人を呪い、人の不幸を望み、人の幸福を破壊せしめ、人を、人々が、本当のどん底に堕ちることを日々、願い続けている。
それはそうならないと人間はいつまでも本当につまらない下らない存在であり、美しくもなんともないと感じるからである。
すべてが虚しいからである。
しかし言いたいことがある。
おれは動物も、人間も、肉体的苦痛を望まない。
人間が動物に肉食や毛皮や動物実験や犬猫の殺処分などによって肉体的苦痛を与えるのならば、また胎児に対する拷問処刑である堕胎を肯定するのであれば、また死刑囚に対する拷問及び死刑に賛成するのであれば、その人間も堪え難い肉体的苦痛を与えられ死ぬことになっても仕方がないし、それを拒む資格がなければ、それを拒むのは可笑しいことである。


自分の遣ったことがただ自分に返ってきて、それを理不尽だと想って嘆き悲しみ、何かを呪うのは可笑しなことであり、人間は自ら、自分の問題を作り出しているに過ぎない。


おれは人間にも、動物にも、肉体的苦痛を一切望まない。
おれが人間に、望んでいるのは精神的苦痛である。
堪えられないものは望まない。

おれは人間も、動物も、肉体的な痛み苦しみのなかに死んで行くことを喜ばない。
今すぐに、この世界から無くなってほしい。

家畜も胎児も動物実験にされている動物も、毎日拷問のような肉体的苦痛のなかに死んで行ってるこの世界で、バーソロミューはおれに言う。



「問題は存在しません」



まだ瓦礫の下で苦しんでいるかもしれない被災者がいる可能性があるときに、サッカー観戦に喜ぶ人間を心から軽蔑しながら、おれは地震の揺れで開いた網戸の隙間から入ってきた巨大な黒ゴキブリがまだ家のなかに潜んでいるかもしれないことに脅えつつ、今これを打ち込んでいる。(昨夜ゴキちゃんの嫌いなペパーミントオイルやゼラニウムオイルやらを家中に撒いて玄関のドアを少し開けて寝たから運良くば勝手に外に逃げてくれたかもしれない。おれはゴキちゃんも殺さない人間となりました。ゴキちゃんも殺す人間は、その肉体的苦痛がいつか自分に返ってくる覚悟で殺した方が良い)


おれはみんなに、ただ堪え難い肉体的苦痛を無くしてやりたいと想って言ってるのに、みんな聞く耳持たず、肉食や堕胎や死刑制度に無関心で、自分の未来に堪え難い肉体的苦痛を築き上げている。

おれがこれにさえ堪えられるなら、この世界に、「問題は存在しない」