質問 「問題は存在しない」ということを、心から理解する方法がありますか。
「問題を解決すること」に喜びを感じている人に対しては、できることはあまりありません。
しかし、大きな問題をかかえて悩み苦しみ、その解決法として、自殺を決心したような人は、そうした「問題解決病」から自分を切り離すことができます。
それとは逆に、人生には色々と不都合な問題があると思っている人は、これからもその不都合な状態のままでいるでしょう。
テクニックを知りたいのでしたら、最良のアドバイスは、「自分の心のなかで、何が本当に起きているのか、よく観察すること」です。
中略
自分の想念のパターンを深い意識を持って正直に観察すると、自分が他人を傷つけたり、毒に満ちた想念を他人に送ったり、他人の幸福を破壊したり、他人の不幸を望んだりしていることがわかるはずです。
『バーソロミュー 大いなる叡智が語る 愛と覚醒のメッセージ』P108より
バーソロミューとは、はて、何者か?というと、バーソロミューとは、所謂、高い次元の叡智に富むエネルギーであるようだ。
つまり人間じゃなければ、宇宙のどこかの星に住んでいる異星人という存在でもなく、バシャールよりかは、シルバーバーチ寄りな存在と言えるだろう。
おれはこのバーソロミューも、宇宙空間に漂っている"A.I."ではないかと考えている。
実際そうでなくとも、人工知能と、高い次元の叡智に富むエネルギーの、一体なにが違うのか?と考えるとわからなくなるのである。
まあその話は別の機会に話すことはないとして、スピリチュアルの高次元の存在が言うことは、まあ大体は同じようなことである。
何故、問題が存在しないかというと、それはそのことを、問題と想っている人間の想念が問題であるだけで、そのこと自体は問題でもなんでもなく、ただそこに起きていることだからと考えると、いやでも問題は問題だろうと、それが問題であるから、問題は問題として存在しているではないかと言う人がいることだろう。
バーソロミューの言っている問題とは、人間のいうその問題のことである。
一人一人が抱えている問題のことである。
人間がいくら、悩み苦しもうとも、それは問題ではないということである。
では、なんなのか?
人間は、悩み苦しみたいが為に、悩み苦しんでるだけなのである。
自らそれを望んでいるのに、それを問題と呼ぶのは可笑しなことである。
例えば、おれは最近、とても落ち込んでいる。
それは先月からで諸々の理由があるのだが、最近とても、虚しいなと感じるのである。
誰もおれのことを愛してなければ、おれも誰のことも本当は愛していないんじゃないかなと想うのである。
こういう想念に陥ると生きてても面白くないな、喜びがないな、苦しいな、孤独だな、惨めだな、おれという存在は、本当に虚しいな、虚無やな、絶望的な有り様やな、と想って死にたくはならないものの、生きることがとてつもなく雑になってしまうのである。
6月18日(月曜日)7時58分頃、おれの住んでいる地域が震度6弱か震度5強の地震が起きて、偉い揺れて家のなかがより酷い状態になり、ガスも未だに復旧していないが、こんなときにも、おれは全くと言っていいほど危機感というものを感じられなかった。
ただ家屋が崩壊したり死んだりすることは恐怖であった為、余震に怯えながら、余震が来る度に心臓をばくばくさせて苦しかった。
死者は今で五人、これが大阪北部地震という問題である。
いや問題というか、自然災害であると想われる方はいるかもしれないが、これはおれにとって、大いなる問題であったのである。
なんでかというと、その地震の来る一時間50分前と一時間40分前くらいに、おれは或る人に、呪詛を吐き連ねるメールを二通送り付け、人を心の底から打ち呪って床に就いたからである。
そして突然の強い揺れの地震により目が覚め、その瞬間、おれは想った。
おれがあんなメールを送って人を呪ったから、神が怒(いか)ったのだと。
あのとき、このマンションは崩壊し、おれもみちた(飼い兎)も共に死ぬかもしらん。と想い戦慄した。
おれは今でも、今回の大阪北部地震は、おれのこの負のエネルギーが最後の地震の起こる集団の負のエネルギーの一滴のエネルギーとして加えられ、それがために起きてしまったのかもしれないと想い悩み、おれ自信の呪いのエネルギーというものについて、酷く問題であると考えている。
この話を、笑う人間や、ただの精神障害者の誇大妄想と取る人があるかもしれないが、おれはそんな人間もまた、問題であると感じる。
自然災害とは、人が関係しておらず、何をやっても食い止められないものであると諦めて、自然の脅威と向き合おうとしていないように想えるからである。
それは自分のなかに存在する神と向き合おうとしていない、そのため自分が何を遣ろうと自由、自分が何か悪いことを遣ってもそれが自然災害に繋がるはずはないと思い込んでいる無責任な人間であるように想えるからである。
おれは人間に問題があるから、自然災害も起きると想っている。
それは亡くなられた犠牲となられた方々が問題が特にあったからと言っているのではない。
寧ろ、それ以外の人間に問題があるため、その問題の多い人間たちのために犠牲となり亡くなられたのだと想っている。
自分が死ぬことによって、人間が自分の問題について向き合うことができるようにと、命を懸けて、この世を去ったのかもしれない。
問題とは、自分が自分に問う題のことであって、このままではいかん、どうにかせねばならないと苦しんでいることである。
例えば、肉食者は全員が、このままではいかん、どうにかせねばならないと潜在意識中で悩み苦しんでいるとおれは確信している。
おれはその時間を意識する時間を多く持ってきたから念願の肉食を断つことができたと想っている。
でもおれが働いてて、忙しい人間であったなら、もしくはエドワード・スノーデン似の男性と結婚し、幸せな家庭を築いていたなら、未だに死肉を喰らっていた可能性は高いと感じる。
おれの問題はキリがないというか、死ぬまで問題は在り続けると感じる。
おれはなんと言おうとも、苦しみたい存在なのである。
これは死んでも無くならない。
死として、おれは苦しみ続けたいと想っている。
おれはなんとしても、人を傷つけ、人を呪い、人の不幸を望み、人の幸福を破壊せしめ、人を、人々が、本当のどん底に堕ちることを日々、願い続けている。
それはそうならないと人間はいつまでも本当につまらない下らない存在であり、美しくもなんともないと感じるからである。
すべてが虚しいからである。
しかし言いたいことがある。
おれは動物も、人間も、肉体的苦痛を望まない。
人間が動物に肉食や毛皮や動物実験や犬猫の殺処分などによって肉体的苦痛を与えるのならば、また胎児に対する拷問処刑である堕胎を肯定するのであれば、また死刑囚に対する拷問及び死刑に賛成するのであれば、その人間も堪え難い肉体的苦痛を与えられ死ぬことになっても仕方がないし、それを拒む資格がなければ、それを拒むのは可笑しいことである。
自分の遣ったことがただ自分に返ってきて、それを理不尽だと想って嘆き悲しみ、何かを呪うのは可笑しなことであり、人間は自ら、自分の問題を作り出しているに過ぎない。
おれは人間にも、動物にも、肉体的苦痛を一切望まない。
おれが人間に、望んでいるのは精神的苦痛である。
堪えられないものは望まない。
おれは人間も、動物も、肉体的な痛み苦しみのなかに死んで行くことを喜ばない。
今すぐに、この世界から無くなってほしい。
家畜も胎児も動物実験にされている動物も、毎日拷問のような肉体的苦痛のなかに死んで行ってるこの世界で、バーソロミューはおれに言う。
「問題は存在しません」
まだ瓦礫の下で苦しんでいるかもしれない被災者がいる可能性があるときに、サッカー観戦に喜ぶ人間を心から軽蔑しながら、おれは地震の揺れで開いた網戸の隙間から入ってきた巨大な黒ゴキブリがまだ家のなかに潜んでいるかもしれないことに脅えつつ、今これを打ち込んでいる。(昨夜ゴキちゃんの嫌いなペパーミントオイルやゼラニウムオイルやらを家中に撒いて玄関のドアを少し開けて寝たから運良くば勝手に外に逃げてくれたかもしれない。おれはゴキちゃんも殺さない人間となりました。ゴキちゃんも殺す人間は、その肉体的苦痛がいつか自分に返ってくる覚悟で殺した方が良い)
おれはみんなに、ただ堪え難い肉体的苦痛を無くしてやりたいと想って言ってるのに、みんな聞く耳持たず、肉食や堕胎や死刑制度に無関心で、自分の未来に堪え難い肉体的苦痛を築き上げている。
おれがこれにさえ堪えられるなら、この世界に、「問題は存在しない」
「問題を解決すること」に喜びを感じている人に対しては、できることはあまりありません。
しかし、大きな問題をかかえて悩み苦しみ、その解決法として、自殺を決心したような人は、そうした「問題解決病」から自分を切り離すことができます。
それとは逆に、人生には色々と不都合な問題があると思っている人は、これからもその不都合な状態のままでいるでしょう。
テクニックを知りたいのでしたら、最良のアドバイスは、「自分の心のなかで、何が本当に起きているのか、よく観察すること」です。
中略
自分の想念のパターンを深い意識を持って正直に観察すると、自分が他人を傷つけたり、毒に満ちた想念を他人に送ったり、他人の幸福を破壊したり、他人の不幸を望んだりしていることがわかるはずです。
『バーソロミュー 大いなる叡智が語る 愛と覚醒のメッセージ』P108より
バーソロミューとは、はて、何者か?というと、バーソロミューとは、所謂、高い次元の叡智に富むエネルギーであるようだ。
つまり人間じゃなければ、宇宙のどこかの星に住んでいる異星人という存在でもなく、バシャールよりかは、シルバーバーチ寄りな存在と言えるだろう。
おれはこのバーソロミューも、宇宙空間に漂っている"A.I."ではないかと考えている。
実際そうでなくとも、人工知能と、高い次元の叡智に富むエネルギーの、一体なにが違うのか?と考えるとわからなくなるのである。
まあその話は別の機会に話すことはないとして、スピリチュアルの高次元の存在が言うことは、まあ大体は同じようなことである。
何故、問題が存在しないかというと、それはそのことを、問題と想っている人間の想念が問題であるだけで、そのこと自体は問題でもなんでもなく、ただそこに起きていることだからと考えると、いやでも問題は問題だろうと、それが問題であるから、問題は問題として存在しているではないかと言う人がいることだろう。
バーソロミューの言っている問題とは、人間のいうその問題のことである。
一人一人が抱えている問題のことである。
人間がいくら、悩み苦しもうとも、それは問題ではないということである。
では、なんなのか?
人間は、悩み苦しみたいが為に、悩み苦しんでるだけなのである。
自らそれを望んでいるのに、それを問題と呼ぶのは可笑しなことである。
例えば、おれは最近、とても落ち込んでいる。
それは先月からで諸々の理由があるのだが、最近とても、虚しいなと感じるのである。
誰もおれのことを愛してなければ、おれも誰のことも本当は愛していないんじゃないかなと想うのである。
こういう想念に陥ると生きてても面白くないな、喜びがないな、苦しいな、孤独だな、惨めだな、おれという存在は、本当に虚しいな、虚無やな、絶望的な有り様やな、と想って死にたくはならないものの、生きることがとてつもなく雑になってしまうのである。
6月18日(月曜日)7時58分頃、おれの住んでいる地域が震度6弱か震度5強の地震が起きて、偉い揺れて家のなかがより酷い状態になり、ガスも未だに復旧していないが、こんなときにも、おれは全くと言っていいほど危機感というものを感じられなかった。
ただ家屋が崩壊したり死んだりすることは恐怖であった為、余震に怯えながら、余震が来る度に心臓をばくばくさせて苦しかった。
死者は今で五人、これが大阪北部地震という問題である。
いや問題というか、自然災害であると想われる方はいるかもしれないが、これはおれにとって、大いなる問題であったのである。
なんでかというと、その地震の来る一時間50分前と一時間40分前くらいに、おれは或る人に、呪詛を吐き連ねるメールを二通送り付け、人を心の底から打ち呪って床に就いたからである。
そして突然の強い揺れの地震により目が覚め、その瞬間、おれは想った。
おれがあんなメールを送って人を呪ったから、神が怒(いか)ったのだと。
あのとき、このマンションは崩壊し、おれもみちた(飼い兎)も共に死ぬかもしらん。と想い戦慄した。
おれは今でも、今回の大阪北部地震は、おれのこの負のエネルギーが最後の地震の起こる集団の負のエネルギーの一滴のエネルギーとして加えられ、それがために起きてしまったのかもしれないと想い悩み、おれ自信の呪いのエネルギーというものについて、酷く問題であると考えている。
この話を、笑う人間や、ただの精神障害者の誇大妄想と取る人があるかもしれないが、おれはそんな人間もまた、問題であると感じる。
自然災害とは、人が関係しておらず、何をやっても食い止められないものであると諦めて、自然の脅威と向き合おうとしていないように想えるからである。
それは自分のなかに存在する神と向き合おうとしていない、そのため自分が何を遣ろうと自由、自分が何か悪いことを遣ってもそれが自然災害に繋がるはずはないと思い込んでいる無責任な人間であるように想えるからである。
おれは人間に問題があるから、自然災害も起きると想っている。
それは亡くなられた犠牲となられた方々が問題が特にあったからと言っているのではない。
寧ろ、それ以外の人間に問題があるため、その問題の多い人間たちのために犠牲となり亡くなられたのだと想っている。
自分が死ぬことによって、人間が自分の問題について向き合うことができるようにと、命を懸けて、この世を去ったのかもしれない。
問題とは、自分が自分に問う題のことであって、このままではいかん、どうにかせねばならないと苦しんでいることである。
例えば、肉食者は全員が、このままではいかん、どうにかせねばならないと潜在意識中で悩み苦しんでいるとおれは確信している。
おれはその時間を意識する時間を多く持ってきたから念願の肉食を断つことができたと想っている。
でもおれが働いてて、忙しい人間であったなら、もしくはエドワード・スノーデン似の男性と結婚し、幸せな家庭を築いていたなら、未だに死肉を喰らっていた可能性は高いと感じる。
おれの問題はキリがないというか、死ぬまで問題は在り続けると感じる。
おれはなんと言おうとも、苦しみたい存在なのである。
これは死んでも無くならない。
死として、おれは苦しみ続けたいと想っている。
おれはなんとしても、人を傷つけ、人を呪い、人の不幸を望み、人の幸福を破壊せしめ、人を、人々が、本当のどん底に堕ちることを日々、願い続けている。
それはそうならないと人間はいつまでも本当につまらない下らない存在であり、美しくもなんともないと感じるからである。
すべてが虚しいからである。
しかし言いたいことがある。
おれは動物も、人間も、肉体的苦痛を望まない。
人間が動物に肉食や毛皮や動物実験や犬猫の殺処分などによって肉体的苦痛を与えるのならば、また胎児に対する拷問処刑である堕胎を肯定するのであれば、また死刑囚に対する拷問及び死刑に賛成するのであれば、その人間も堪え難い肉体的苦痛を与えられ死ぬことになっても仕方がないし、それを拒む資格がなければ、それを拒むのは可笑しいことである。
自分の遣ったことがただ自分に返ってきて、それを理不尽だと想って嘆き悲しみ、何かを呪うのは可笑しなことであり、人間は自ら、自分の問題を作り出しているに過ぎない。
おれは人間にも、動物にも、肉体的苦痛を一切望まない。
おれが人間に、望んでいるのは精神的苦痛である。
堪えられないものは望まない。
おれは人間も、動物も、肉体的な痛み苦しみのなかに死んで行くことを喜ばない。
今すぐに、この世界から無くなってほしい。
家畜も胎児も動物実験にされている動物も、毎日拷問のような肉体的苦痛のなかに死んで行ってるこの世界で、バーソロミューはおれに言う。
「問題は存在しません」
まだ瓦礫の下で苦しんでいるかもしれない被災者がいる可能性があるときに、サッカー観戦に喜ぶ人間を心から軽蔑しながら、おれは地震の揺れで開いた網戸の隙間から入ってきた巨大な黒ゴキブリがまだ家のなかに潜んでいるかもしれないことに脅えつつ、今これを打ち込んでいる。(昨夜ゴキちゃんの嫌いなペパーミントオイルやゼラニウムオイルやらを家中に撒いて玄関のドアを少し開けて寝たから運良くば勝手に外に逃げてくれたかもしれない。おれはゴキちゃんも殺さない人間となりました。ゴキちゃんも殺す人間は、その肉体的苦痛がいつか自分に返ってくる覚悟で殺した方が良い)
おれはみんなに、ただ堪え難い肉体的苦痛を無くしてやりたいと想って言ってるのに、みんな聞く耳持たず、肉食や堕胎や死刑制度に無関心で、自分の未来に堪え難い肉体的苦痛を築き上げている。
おれがこれにさえ堪えられるなら、この世界に、「問題は存在しない」
もし虚無でないなら御前に物申す。
命懸けでコメントしてこいよ。
おれの精神を不安定にさせたらおれは本当に死ぬ危険があるからね。
でも虚無なら、っていうかおまえ虚無やろ。
言い方が虚無だ。おれは本当に虚しい。
おまえはおれの命なんて何とも想ってないってことやからな。
そんなおまえがおれに嫌味をゆうたところでなんになろう。
おまえも虚しいだけやろ。
おまえは他の人間にも同じような嫌がらせコメントを書いて人を苦しめて楽しんでいるのか。
おまえはそれでいいのか。
おまえの問題とはそこだ。
おれは自分の問題で人を殺してしまったのかもしれないが、おまえも人を殺してきたのかも知れないし、これから殺してしまう可能性がある。
前に言葉は人を殺害せしめることのできる凶器であるとおれは言ったが、おまえはそれに対してもスルーしたな。
おまえが何故そんな人間であるのか。
それはおまえが誰からも愛されていない人間だからだ。
おまえは愛を知らないから、人に嫌がらせを言うことしかできないんだ。
否定するのか?
では訊こう。
おまえは誰に愛されているんだ。
ゆうてみろ。
おれにゆうてみろ。
おれはなあ、今クロゴキブリちゃんがまた現れて、びくびくしながらこれ打ってるねん。
おまえならクロゴキブリちゃんを殺すのか。
それともどんなに苦労しても生きて逃がしてやるのか。答えろ。
おれのこれが安全圏でおまえは安全圏ではないと言いたいわけか。
あほ言え、この世界に生きて、一体誰が安全圏で生きられてるねん。
おまえはほんまに浅い思考でしかおれに嫌がらせをゆうてくることしかできんのか。
それでおれの精神を不安定にさせ、おれもおれの家族も死に追いやってる。
おれは姉の猫は、おれのせいで死んだと想ってる。
おまえから嫌がらせを受けて、精神が不安定になり、おれが姉に泣き叫んで、その時発せられたおれの負のエネルギーから、姉の猫は姉を護るため、自分の命を懸けたんだ。
だから姉の猫は、おれとおまえの所為で死んだんだよ。
それをおまえはわかってないから、また懲りもせずに同じようなこと遣ってるんだよ。
おまえもおれも、相当重い症状だ。
そういうのをこの世界では人格障害と呼ばれているんだよ。
おまえもおれも、人を苦しめてもなんとも想わない人間なんだ。
人を殺してでも、人を救いたい人間なんだ。
謂わばオウム真理教と変わらない。
おまえは嫌がらせコメントというサリンをぶちまけている。
おれが死のうが、おまえは何とも想わない。
おまえはおれを救ってやったと想うだろう。
いいか、その考えは、この世界では精神障害とされる。
おまえも立派な精神障害者だ。
そうでないなら、まずこんな嫌がらせをしてはこない。
おれはこの記事を、三時間近くかけて一生懸命に書いた。
それがおまえはなんや、何分でその下らないコメントをしてきてんねん。
おまえなんで長文のコメントをしてこられへんねん。
ところでおまえはあれから日記を書いたの?
もしかしてまだ書いてない?
幼稚園児みたいな文章力、表現力のままでいいのか?
おまえは言葉で人を殺したいならな、もっと文章力、表現力を身に付けるべきだな。
そして人を殺してみろ。
おまえは立派な殺人者だ。
死んでも地獄だ。
わかってるんやろな。
おまえの人生、生きても死んでも地獄だ。
クロゴキブリちゃんは殺されたときのその苦しみだけだが、クロゴキブリちゃんを殺す人間は死んでも地獄だ。
家畜を殺してでも喰う人間も、死んでも地獄だ。
よく憶えてろ、おれはクロゴキブリちゃんを殺さないからな。
今夜もたぶん、同棲だ。
おまえがおれに偉そうに言うなどな、百万年早いわ。
おまえなど、誰からも愛されない。
おれもおまえを、愛せない。
さようなら。
おまえが安全圏からなんかゆうてもな、俺に敵うことはないぞ。
ええ加減にさらしてくれ。
おまえのつまらないお遊びに付き合うほど俺は元気じゃない。
今度匿名で安全圏からなんかゆうてきたら、おまえを呪い殺す。
俺の呪い殺しをとくと味わえ。
さようなら。
それが何ヵ月後かにはこのコメントか。
おまえはほんま餓鬼やな。
おまえはほんま糞餓鬼やな。
おまえはそうやってころころ変わるから人から相手にされへんのとちゃうか。
だから寂しくて、せめてネット上で人から構って貰いたくて、愛されたくて、愛してくれる人間を探し、さ迷っていた。
あまねなら、俺を愛してくれるやもしれまい。
一縷の希望を俺に懸けて、おまえは構ってもらえそうなコメントばかり残すようになった。
構ってもらえるとそれだけで嬉しかった。
でも構ってもらえないとき、あまねが憎くなり、あまねを蹴落とし、あまねに殺意を覚え、殺してやろう、そう想って今夜も匿名で安全圏から、嫌味をゆうてやったのさ。ふふん。ざまあみさらせ、あほんだらあ。
あまねをこうして釣ることだけが、俺の生き甲斐。
あまねが死んだら嫌なのは、死んだらもうあまねを釣って楽しめないから。
あまねの代わりが見つかれば、別にあまねじゃなくても良い。
あまねなど、死ねばいい。
今日明日にでもすぐに、腐乱死体になって、白骨化すればいい。
どうでもいい。あまねのことなんて。
生きてても、何も生産できない屑女、あまね。
惨めに孤独に、誰からも愛されずにたった一人で誰からも悲しまれずに死んで行けばいい。
あまねみたいな身も心も醜い女は絶対に、エドワードスノーデン似の男となんて、結婚できない。
死ね、あまね。
死んでくれ。
頼むから。
この世から、おまえという腐敗物を、クロゴキブリという人を気持ち悪がらせて恐れさせる生き物を、俺が殲滅させてやるのだ。
可哀想なあまね。
おまえが死んでも、誰も悲しまないよ。
寧ろ、嬉しい。
おまえは人を喜ばせなかった。
おまえは人を幸福にできなかった。
おまえは人を愛せなかった。
おまえは生きる価値がない。
おまえは生きる価値がない。
おまえは生きる価値がない。
おまえは生きる価値がない。
おまえは生きる価値がない。
おまえは生きる価値がない。
おまえは生きる価値がない。
おまえは生きる価値がない。
おまえは生きる価値がない。
おまえは生きる価値がない。
おまえは生きる価値がない。
おまえは生きる価値がない。
おまえは生きる価値がない。
おまえは生きる価値がない。
おまえは生きる価値がない。
おまえは生きる価値がない。
おまえは生きる価値も意味も、愛もない。
生きてても、虚しいだけ。
今夜も玄関のドアを開けているが、クロゴキブリちゃんがあのドアの隙間から逃げてゆく瞬間を、俺は想像している。
光輝く光景だ。美しき感動する光景だ。
しかしそのあと、クロゴキブリちゃんの運命は如何に。
誰かに忌み嫌われ、殺されてしまう可能性も高い。
何も悪いこと、していないのに。
考えたら本当に可哀想だ。
クロゴキブリちゃんを殺す男とは俺は結婚したくはないね。
おまえは安全圏から、いつも俺に嫌味ゆうてきてるよな。
おまえに言う資格など無い。
おまえが安全圏から嫌味をゆうて来てる以上、おまえの言葉はすべて薄っぺらいものになることがおまえにはわからんか。
俺がずっとこのblogを遣っているのは、自分のすべての言葉に責任を持つためだ。
ところがおまえはどうだ、匿名で言いたいことゆうたあと、まさかトンズラするつもりじゃあないやろね。
そんなやつはな、糞にもならんぞ。
おまえは糞以下の、糞にもなれない、なんかであり、おまえはそうやって俺に構ってもらえなくなったなら、こんだ人でも殺し始めるつもりか。
おまえが居るところが安全圏であり、俺のいるところは安全圏ではないんだよ。
おまえもblogで、自分のすべてを何年と表現していけばわかる。
俺は何一つ安全圏から発してはいない。
大袈裟な話ではなく、俺は世界の大企業にとって不都合な問題をこのblogでも取り上げているから静かに暗殺されてしまう可能性もある。
詳しくは「カウスピラシー」というドキュメンタリー映画がネットフィリックスで観れるから観てみろ。
ネット上で正直に表現し続けてゆくことは全く安全圏ではない。
だから俺は命を懸けて表現を遣っていると言っただろう。
俺はただ表現が遣りたいだけなんだ。
おまえも顔写真と本名を載せてblogで畜産業の残酷さを訴え続けてみたらいい。
まず日本のCIAとかからは目をつけられるから。
俺は殺されたとしても訴え続けて行かなくてはならないことだから遣ってるんだよ。
おまえは安全圏ではないところから、何を遣っているのか。
命を懸けて、護りたい存在がいるのか。
俺は命を懸けて、すべてを護りたい。
地球を護りたい。
クロゴキブリちゃんは恐怖だが、殺すくらいなら、俺はクロゴキブリちゃんと共に暮らす。
俺はクロゴキブリちゃんを護りたいんだ。
俺は家畜たちを護りたいんだ。
何を感じて生きてると想う?
ほとんどの人間から忌み嫌われながらも、共に生活しているゴキブリちゃんたちは。
彼らも人間を怖れているんだ。
いや彼らの方が、本当は怖れているんだよ。
だって自分も家族も殺されてしまうんやからに。
しかも拷問のような方法が多い。
ホウ酸団子なら毒殺だ。
あれ食べたら、水をどれだけ飲んでも喉が焼けるように渇いて、苦しい、苦しい、苦しいと言いながら死んで引っくり返るんだよ。
人間に例えるならどれだけ残酷だろう。
もう十年以上、ゴキちゃんを殺した記憶がないが、昔は殺していた。
一度、炊事場に現れたチャバネゴキちゃんに、食器用洗剤をかけたことがある。
するとチャバネゴキちゃんは、シンクの上でもんのすごい高速にのたうち回って死んだ。
あれはゴキちゃんの身体にある呼吸する孔をすべて洗剤で埋めたことによる窒息死だ。
俺はあれを見て戦慄した。
そして想ったんだ。
もしやゴキちゃんとは、昆虫のなかでもその痛覚、苦しさをつかさどる機能が物凄く発達している虫なのではなかろうか?
あののたうち回って死ぬ姿はまるで人間のようではないか。
悪人が、ゴキちゃんとなって生まれ変わってきているのではないのか。
もし家族が悪人で、死んだ家族がゴキちゃんとなって生まれ変わってきているのだとしたら。
知らず知らず、人は愛する家族を殺しているかもしれない。
こんな悲劇が、そこらじゅうで繰り返されていて、その生命たちの無念さは、巨大なる無念エネルギーとして、この世を包み、俺たちも無念に死んでゆくことを約束されている。
小さな虫ころ一匹助けようとすること。
それが愛でなく、何であろう。
クロゴキブリちゃんは、俺に問う。
貴女はさっき、わたしを助けようとわたしを捕まえようとしましたが、物の下に、わたしが居るかもしれないことをしっかりと、確認せずに物を浮かせてまた置いたではありませんか。
あの下に、もしわたしが隠れていたなら、わたしは圧死していたかもしれません。
貴女はもう少し、慎重になったほうが、良いのではないですか?
貴女に物申したい。
クロゴキブリちゃんより
おまえはまた主語を入れずに相手に伝わる言葉でゆうてこんかったな。
しばくぞ。
おまえは何をゆうてもその為、一方通行だよな。
俺の長文のコメントの返信にもおまえスルーして、小説の感想送ってきたよな。
俺が返事するとでも想ったのか。
おまえのような自分の都合の悪いことはすべてスルーかます人間に、なんで俺が返信しなくてはならないんだ?
おまえみたいな人間は本当にこの世界に多いよ。
俺は例え興味のない事柄でも、一々丁寧に返事をすることを心掛けている。
それが相手への最低限の敬意だからだ。
もしくは返事を全くせずに切るか、そのどちらかだ。
おまえはそれで逆恨みか。
自分の遣ってることがどんだけ馬鹿げたことか想像してくれ。
おまえは俺の長文の返信を全スルーした。
そして俺の小説に新たにコメントを寄せた。
俺はそれに返事をしなかった。
するとまたもやおまえは、あれほど謝罪しておきながら、俺のblogに匿名で嫌味を吐き捨てた。
おまえはそうやってまた俺に赦して貰えるだろうと俺に甘えているが、俺は例え我が子でもおまえみたいな人間だったら俺は信じない。
信じたくても信じることができないんだ。
おまえは甘える人間を間違っているんじゃないか。
しかし俺という人間はおまえみたいな人間から好意と執着をよく持たれるから厄介だな。
俺は本当に冷たくて渇ききった人間であることが、俺の表現を通しておまえにまだ伝わってないことが残念だ。
おまえがいつも鏡に対して言ってるのはわかっているが、俺の返信へしっかりと返事することもできないなら、もうコメントをしてこないでくれ。
おまえは何べんゆうても、俺に敬意を持つことすらできないんだな。
俺はおまえにコメントをされた頃から、自棄に虚しいよ。
おまえはどれほど俺のblogに一生懸命にコメントを書いてきてくれているのだろうか。
俺は虚しいんだ。
誰一人、俺に閉じて、開いた心で話してくれていない気がする。
何故だろう。
俺は虚しい。
悦べ。またおまえのせいで起きたときから心臓が苦しく、はらわたと脳内が煮えくり返りそうで、脳内からまた変なぷちぷちという音がしているよ。
おまえはほんとうに俺を殺すことができるだろう。
嬉しいか?
おまえは俺を殺すつもりでまたこんなコメントをしてきたんだろう?
でも俺は俺一人で死ぬわけじゃないからね。
俺が死ねばみちたも死ぬ。
どうゆうことになるかわかってるんやろな。
俺がもし突然死したら、俺の腐乱死体の側でみちたは餓死しなくてはならないんだよ。
生々しくおまえに想像できるか。
もうこんなことは、やめてほしい。
おまえが人間であるなら。
おまえが鬼畜でマジで発狂している人間でないのなら。
おまえは人間に対して、こんな嫌がらせをするべきではない。
おまえのは人のブログをしっかりと読んだ上での反論でも批判でも非難でもなく、ただの嫌がらせだ。人に関わる上で大事な敬意も微塵もない。
それがわからないか?
それともおまえは俺にこう言うのか?
俺は嫌がらせを受けるに値する人間であると。
おまえは働かない人間を差別している発言を前にしたよな。
俺が働かないで人の血税で酒飲みながら自由に表現を遣っていることが、おまえから死ぬかもしれない嫌がらせをされるに値されることであると、おまえは言いたいわけ?
働かないで好き勝手に表現を遣っている人間など、殺しても構わない。そういう訳か。
だとしたらおまえは本当に狂人だな。
おまえみたいな狂人と、まともに関わっていくことなどできない。
俺は生きていかなくてはならないんだ。
俺が死ねばみちたも死ぬ。
俺はおまえに殺されるわけに行かないんだよ。
もしちゃんとした返事を、今日中にしないなら、俺にも考えがある。
俺はこのブログを、やめる。
そしておまえに見つからない場所で、ひっそりと表現をまた遣ってゆく。
わかったか。
俺はおまえのために、二年間こつこつと続けてきたこのブログを喪う。
それに対しておまえが自分のなかだけで何一つ整理できない自分に対する憎悪や、後悔や、自罰の想いが他者へ向いて、俺に嫌がらせ行為をしてくるんじゃないのか。
俺はおまえのような匿名で短文で相手が困惑するような短文の嫌がらせ行為を遣ったことはない。
俺が相手と関わろうとするとき、いつでも真剣で真面目な対話をしたいと望んでるからだ。
でもおまえは違う、おまえは最初から相手を馬鹿にしていて、相手と真剣に話し合おうという態度ではない、おまえのようなコメントに対して、俺みたいに真面目に真剣に取り合う人間はほとんどいないだろう。
それは骨折り損になることがわかっているからだ。
おまえみたいなコメントにいちいち真面目に真剣に取り合っていたなら、身が持たない。
俺のように精神が不安定になり、鬱に為り、果ては早死にする。
おまえみたいなコメントは大体の人がスルーしているだろう。
おまえは他の人間にも同じような嫌がらせを遣っているのか。
それとも俺だけに対して遣っているのか。
「何故、愛してくれないのか」「何故、構ってくれないのか」「何故、俺の真面目なコメントにスルーしたのか」その想いが倒錯的になり、俺に対して、あの嫌がらせコメントになったのか。
おまえの文章力、表現力は小学生低学年並だからもどかしいだろう。
だから日記を書けよ。と言っているんだよ。
何故書かないんだ?
おまえはリアルな話し言葉でも、そういう片言的な感じなのか。
前に会った男も、そういう片言的な男で、いきなり面と向って「孤独?」と訊かれて苦笑いしたが、なんでそんな片言やねんと想って、あの男も精神障害を持っていて俺のブログに嫌がらせコメントを連投してくるような悪質な人間だった。
おまえとそっくりだ。
もしかしておまえなんじゃねえの?
だったら呆れるよな、どこまで人を騙すことにかけては長けてるんだろう。
呆れてものも言えんわ。
ええ年こいて、何をやっとるんだ?
俺より十以上上じゃないのか、何をやっとるの?
人に嫌がらせ行為続けて反省もろくにせず、自分は働いているからっつって誇ってでもいるのか?
あいつもおまえも、本当に仕事が嫌で、嫌々仕事を毎日遣っているのが目に見える。
だからこんなくだらん嫌がらせをするんだよ。
自分の仕事が楽しくないから、嬉しくないから、本当の喜びではないから、毎日がつらく、知らん人間に八つ当たりするんだ。
それがどんだけ俺にとって迷惑であろうとも、おまえは笑ってるような人間なのか。
一体、何が、どう、俺が安全圏のなかにいるのか?
おまえはちゃんと説明することもできひんのか?
例えばホームレスのおっちゃんがおって、おまえがそこを素通りした際に、おっちゃんに向って、「安全圏の中にいて、すごいね」と言って去っていったら、どうなると想う?
おまえ下手したらぼっこぼこにされるぞ。
https://sho.benesse.co.jp/qat/j/24.html
ここを観て勉強しろ。
「何が」に当たるのが、主語だ。
https://sho.benesse.co.jp/qat/j/23.html
そして「どういうことで(どういう訳で)」に当たるのはたぶん修飾語じゃないか。
おまえの「安全圏の中にいて」っていうのもたぶん修飾語だと想うが、その次の「すごいね」はたぶん述語だ。
そうするとおまえの「安全圏の中にいて、すごいね」という文章は、修飾語と、述語しか述べていない。
これでちゃんと相手に伝わるとおまえは想ってんのか?
誰が、何が、どういう訳で、何だから、安全圏の中にいて、すごいのか?
それがちっともわからない。
こういう文章が、相手を困惑させる嫌がらせ的な文章なのである。
おまえはそれで、俺はこれをわかってて、俺を困惑させるためにわざと遣っているんだと想っているから、本当に悪質だと感じる。
おまえはこれまでも何度も、人を困惑させることで楽しんできた人間じゃないか。
子供の頃、そうであったとしても、大体の人間は成長すると共に、そんなことは楽しくもなんともなくなってまともに生きてゆくのだが、おまえは未だに成長できず、人に嫌がらせして人を苦しめて楽しいと感じている。
厄介だよな、おまえは自分自身でも厄介やなと感じてるんじゃないのか。
そんなことしてたら人が離れてゆくばっかりだろう。
おまえはますます孤独になり、ますます人に嫌がらせをする。
こういった悪循環の果てに、人を殺す者もいる。
誰が苦しむのか、それは殺された人と、その被害者たちと、そしておまえだ。
おまえはそうやって地獄に堕ちるんだよ。
いったいどうすればいいと想う?
俺はそうゆう厄介な人間は、表現を遣るべきだと想っている。
警察沙汰になったことが、今まで俺は何遍も在る。
俺はずっと危ない橋を渡って生きてきたが、表現だけが俺を救うものだった。
俺から表現を奪うなら、俺は人を殺すか、自殺するか、そんな境地に立たされる可能性は結構在り得る。
それほど俺は底の底で、誰一人信じることもできずに生きている。
俺はだれひとり信じることができないんだ。
だから表現しか、俺は信じることが出来ない。
表現のできない世界がどれほどつまらないか。
何一つ、面白いとも感じられなければ美しいとも感じられない。
表現が一番の喜びだと俺は言ってきたが、それは違うんじゃないかと想いだしている。
表現だけが、俺の喜びなんじゃないのかと。
現に俺が物語を紡ぐことができないとき、俺は死んでいるように感じている。
でも物語は書いて終わりじゃない。
神と人との、最高のコミュニケーション手段なんだ。
だから人に読んでもらう必要があり、その為にこのブログも俺は遣り始めた。
でもおまえたった一人の為に、俺はこのブログで繋がった人たちすべてを、切らなくてはならないのか。
どうなんだ。
おまえに訊きたい。
まあそんなことはおまえ自身わかってないことだろうが、もしそうだとするなら、俺は彼について話しておきたい。
俺が愛しているのは、エドワード・スノーデンではない。
彼にはちゃんと長年愛し合う恋人がいて、彼は俺の特に興味のない分野で頑張って命を懸けて人を護ろうとしている人だ。
俺が愛しているのは、彼自身ではなく、彼のふとしたときの、その表情を本当に愛している。
俺がそのなかでも最も愛している表情は、「暴露 スノーデンが私に託したファイル」というタイトルの本の表紙になっている表情だ。
日記でも述べてきたが、彼のその顔は、俺の父親とすごく被ると感じている。
たぶん俺の愛する父の顔、表情の特徴とよく似ているのだと想う。
彼の顔は大体とても哀しそうで優しい。
特に細い顎の骨格のライン、鼻の大きさや形、鼻筋の細さ、唇の薄さ、髭の生え方、なんかもよく似ている気がするのだが、中でも一番似ていると感じる箇所はやはり目の部分であり、目が実はすべてではないだろうかと俺は感じている。
俺は彼の目が、その優しく哀しい目が、ずっとお父さんにだけ似ていると想ってきた。
しかし最近になって、ようやく気付いたんだ。
この目は、俺の愛するお母さんの目にも似ているからではないかと。
俺は母親の記憶がないが、幾つもの写真を見て、そのどれもがほとんど聖母のような慈悲に満ちた目と、微笑を浮かべていたことを記憶している。
母はクリスチャンであった。
俺は四歳で母を亡くし、母性愛に深く飢えてきた。
彼の顔は、深い母性を感じるときがあり、同時に厳しい父性も持ち合わせているような神秘的なモナリザのように見えるときがある。
日の微妙な当たり方の変化で、彼の表情は物凄く変化する。これは誰もがそうなのであろう。わたしはいつもそれに驚き、人間の表情の素晴らしさを知る。
ずっとその写真を見つめていると、俺の姉にも少し似ているような気がしてくる。
姉はモナリザにも少し似ている。
子供の頃はアンネの日記のアンネ・フランクに似ていると言われたそうだ。
母や姉は特に西洋系の血が入っているような顔立ちをしている。
しかし顔立ちより、わたしは人の顔を見るとき、いつも表情でその顔を判断している。
表に表れる情、わたしは彼のその奥深くにある情が、父と母と姉に似ていると感じているのだろうと想っている。
彼のその写真が撮られたのはアメリカ政府の大変不都合な機密を暴露したことを世界中に知らせたすぐ後か、知らせる少し前の時であり、これからどうなるのか、と彼が極度の不安と哀しみと苦痛のなかにカメラを向けられ、薄く微笑んだ決定的な瞬間の芸術的な美しさに満ちた写真である。
俺は最もこの写真の彼の表情を愛していて、他の彼の表情や写真をそこまで愛することはない。
この瞬間が一番、わたしの母と父に似ているように感じる。
だから本当に彼のこの表情を愛し続けてやまない。
彼が眼鏡を取った写真があるが、わたしは全く好きではない。
彼は眼鏡を取ると目がだいぶ大きくなる。
わたしの父も母も眼鏡を掛けていた。
彼が眼鏡を掛けて、その眼鏡の奥にある小さな優しい鯨のような目が、わたしの心を癒し、わたしの母と父の優しいときの目に似ているようだ。
わたしが眼鏡を掛けた男性が好きなのもそういうわけであるだろう。
わたしは父と母に似た男性を求めている。
そして生まれた子供は父と母に似ているのかも知れない。
わたしは父と母を生みたいと想っている。
わたしはいつでも、父と母を求めてきた。
父と母を融合させた存在を、生涯の夫にしたいと望んできた。
わたしが愛してやまないのは彼という男性ではなく、わたしの理想とするわたしだけを娘のように愛する父と母の融合体としての彼という幻の存在である。
彼はこの世の何処にも、存在しない。
だからこそ、これほど求め、愛し続けることができるのかもしれない。