あまねのにっきずぶろぐ

1981年生
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

愛と悪 第六十五章

2020-09-10 00:12:31 | 随筆(小説)
殺人と自殺と事故死と災害死と病死と食肉と死刑と堕胎、このすべてが、再生産されつづける地球という星で、たった独り、永続する死のなかを、生きている神、エホバ。
死体写真を眺めて、生きている人の姿を観ると、なんて味気ないのだろうと感じるんだ。
虚しいとも感じる。生きている人の姿の方が。
何故だと想う…?
生きている人の方が、死者よりも劣っているんだ。
一体、何に於いてなのかな。
僕は死体のなかで、最も惨殺された死体が好きだ。
その次に、自殺した死体が好きだ。
その次に、事故死した死体が好きだ。
僕は彼らを美しいとは感じない人たちを、どこかで機械のように感じている。
それ以前に、彼らは死体をみずから眺めようとはしない人たちだ。
自分がこのような死体になる可能性について、考えたくもない人たちだ。
彼らが、この世界で多数派であり、彼らは虚しい幸福を毎日噛み締めて生きている。
彼らは切実であり、ただただ、みずからと、自分の愛する存在の幸福を、最も願い続けて生きている。
僕らもまた切実であり、すべての幸福を、ただただ願い続けて生きている。
”共有”できるものは、たくさんある。
だが虚しい。この両者が共有できうるすべて、それが虚しい。
死体は何も語らない。だが多くの場合、死体は何かを訴えている。
死体が最も訴えているものとは、悲しみ。
死体を美しい悲しみ以外の何かで、装飾することをやめてほしいんだ。
死体とは死んだ身体(肉体、dead body)ではなく、死んだ者(存在、existence)。
彼らは、意識しておらず、また、死(無)でもない。
彼らは、その中域に、ただ、息を潜めて、存在している。
死体は、最早、生きていた者でもなく、死んだ者でもない。
彼らは、身体を喪った後も、そこに、存在している。
それを、誰かは未知なるエネルギー体だと考えるだろう。
でもそれは、残響じゃない。
生きていた者が、遺して行ったものじゃない。
それそのものが、新たなる存在として、そこに生まれたんだ。
彼らは、霊体でも魂魄でもなく、また、念体でもない。
神の本質もまた、そのすべてじゃない。
死体はただただ、悲しみを訴えている。
神の本質が、本質を忘却している人間に向かって、ただただ、訴えている。
それは、感情を擬態させた、死の本質。

そう、彼女は樹海で見つけた優しい、生きた何より優しい表情の髑髏に向かって話し掛けたが、彼は今は、安らかに眠っているようだ。












白い覆面の男は、狭いMotelの一室のベッドで眠る彼女を見つめていたが、彼女には顔がなかった。
だが男にとって、彼女は自分の母であり、自分だった。
彼女は、今は眠っているが、夜が明けると、目覚め、あどけない顔で男に向かって訪ねる。
「だれよりも愛するママはぼくだけを愛している。なのになぜこんなに、さびしいの…?」
男は、自分の娘に向かって、何も答えなかった。
男は、自分の顔がなかった。
彼女はいつものように、母親にキスをして、ガソリンスタンドのバイトに出掛けた。
部屋にひとり残された男は、長い時間そこに静かにじっとしていたが、姿見鏡に映った自分にふと気づき、自分の顔を見つめた。
顔の原型を留めない肉塊が、瞬きをして自分の顔のない顔を見つめていたが、やがて椅子から立ち上がると、仕事に出掛けた。





















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