リベラルくずれの繰り言

時事問題について日ごろ感じているモヤモヤを投稿していこうと思います.

芸術祭:「政府の気に入らなければ金は出さない」は憲法違反の検閲そのものだ

2019-09-03 | 政治
国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」が慰安婦を表わす少女像などを展示したことで激しい抗議を受け、テロ予告や脅迫も相次いで中止に追い込まれた件について、展示の実行委員会のメンバーが「(中止は)安全の問題だというが、表現の自由を侵害した行政の判断は検閲に当たる」と批判した(朝日新聞2019-9-3)。
私にはこの批判はあまりぴんとこない。「表現の自由を侵害した行政の判断」というのは「中止の決定」を批判していると読めるが、今回の言論テロの規模を考えると中止の判断を批判する気にはなれない。今回は電話応対担当者というソフトターゲットが限界に達してしまい、あの時点での継続は難しかったと思う。
もちろん、テロや脅迫に屈してはならないとか、電話攻勢で気に入らない企画をつぶせる前例を作ってしまったという点で問題ではあるのだが、「中止」に関する限り、批判されるべきは脅迫やテロ予告をした人たちと、それをあおった一部政治家であって、「行政による検閲」ではないと思う。

その一方で、行政が払うはずの金を払わないを言っていることは「検閲」に等しいと思う。名古屋市の河村たかし市長は、市の負担金約1億7000万円のうちまだ払っていない約3000万円について、「国はどうするのか。共同歩調をとりたい」と述べて支払わない可能性を示唆した(朝日新聞2019-9-3)。
その国はというと、菅義偉官房長官は8月2日に「(補助金)交付の決定にあたっては、事実関係を確認、精査して適切に対応したい」と述べている。
政府の気に入らない内容が含まれていたら負担金や補助金を支払わないというのは憲法が禁じる「検閲」そのものではないか。

「金を払わない」という人たちの言い分は2つあると思う。
第一に、河村氏がいうように「公共がやると、やったことが正しいと裏書きする効果がある」という点だ。だが芸術となると社会に挑むかのような過激な作品だってあるはずだ。そうしたものを行政がいちいち「精査」して金を出すかどうかを決めるというのは問題だ。特定の主張をする作品だって少なくないと思うが、公金が支出されているからといって政府のお墨付きを得ていると思う人はいないのではないか。
第二に、言論の自由は私費で発表することを認めているのであって、そうした発表に公金を投じる義務まで定めているのではないという点(過去ブログで引用した慶応大の憲法学者が言っていた)。「特定の作品に公金を出すかどうか」という観点ではそのとおりかもしれない。だが「多数の作品を展示する公共展示に受け入れる作品を行政が選別していいか」というとやはり違うと思う。
今回の場合、国の補助金については公文書で採択決定が出ているし、名古屋市の負担金についても「実行委で予算も議決してやっている」とのことで、展示内容によって支出決定を覆すことは許されないと思う。

関連記事:
「「表現の不自由」展やシンポの中止:威圧的なクレームが跋扈する社会はなんとかならないか」
「企画展やシンポを中止に追い込んだ電話攻勢を仕掛ける人たちの実態は?」
「「ネット世論」は少人数で操作できる」
「少女像:職員への過剰な抗議はパワハラだ」
「「表現の不自由展」中止:怒りは主催者ではなく、テロ予告をした犯人や扇動政治家に向けよう」
「「表現の不自由展」中止に海外でも批判――ソフトターゲットへの暴言をどう防ぐ?」
「「悪質クレーム」「客によるパワハラ」:ガイドライン充実のために」

関連リンク:
「電話対応時のクレーマーへの対応方法100選!(対応例文付き)」


この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« プラごみ:分別の努力が無駄... | トップ | 戦時中の加害責任を語ること... »
最新の画像もっと見る

政治」カテゴリの最新記事