山本淳子氏著作「平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む」から抜粋再編集
光源氏四十一歳の三月、明石女御(元、明石の姫君)が六条院で東宮の第一皇子を出産すると、明石で知らせを受けた明石入道から長い文が届いた。そこには、明石の君の誕生前に見た霊夢により一族から中宮と帝が立つと予知していたことと、その目途がついた今、現世の絆を断って入山する決意が記されていた。明石の尼君、明石の君、明石女御はこの文を読み、改めて一族の思いを熱くする。いっぽうこの文を読んだ光源氏は、明石入道が一身を賭して、かつて政争に負けた家の再興を計ったことにことに感動する傍らで、光源氏の須磨・明石への流浪も明石一家のための運命だったのだと、初めて思い知る。
そのうえで明石の君と女御に、紫の上の情愛と思慮を忘れてはならないと釘をさす。明石の君は、光源氏の紫の上への愛情を痛感するとともに、紫の上に対して常に遜ってきた自分の生き方が正しかったと実感する。このように配慮を尽くして緊張関係を生き抜く明石の君や紫の上に比して、女三の宮はいかにも思慮に欠け、おのずと光源氏の寵愛が薄いことは、外目にも明らかだった。
その月の終わりごろ、柏木は六条院の前庭で夕霧たちと蹴鞠に興じていたが、折しも猫が綱を絡めて御簾を引き上げたため、端近にいた女三の宮の姿を垣間見てしまう。女三の宮への想いをいまだ断ち切れずにいた柏木は、恋情の虜となり、女三の宮の乳母子の小侍従を介して女三の宮に文をおくるのだった。
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「源氏物語」ー「若菜上」巻では、女三の宮は六条院で猫を飼っていた。この猫同士の追いかけっこで御簾に開いた隙間から、柏木は女三の宮を垣間見る。いわゆる「猫事件」だ。
実際に、「源氏物語」が書かれた当時の今上・一条天皇(980~1011年)にも、愛猫(あいびょう)がいた。生まれた時には人間と同様に誕生祝の「産養(うぶやしない)」の儀を催し、人間の乳母までつけたことが、貴族の日記「小右記」に載っている。世の人は批判しそうだが、「枕草子」-「上にさぶらふ御猫は」によれば、この猫は朝廷から五位の位まで与えられていたという。五位以上でないと帝の住まいである清涼殿へ上がることを許されないからで、とは言ってもそれは人間相手の規則なのだが、雌猫だった彼女は女官になぞらえられ、「命婦のおとど(命婦さん)」と呼ばれていた。ところがある日、この命婦のおとどが日の当たる縁側で眠っているところへ、同じく内裏に飼われていた犬の「翁丸」が走りかかったからさあ大変。命婦のおとどは驚いて御簾の中へ走り込み、翁丸は叱られ・・というのがこの章段のストーリーで、帝は怖がる命婦のおとどを懐に入れてなだめたというのだから、その可愛がりようがよくわかる。
面白いのは、虫である。「堤中納言物語」の「虫めづる姫君」では、姫が多種多様の恐ろしげな虫を飼い、なかでも毛虫がお気に入りだったらしい。