山本淳子氏著作「平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む」から抜粋再編集
蹴鞠の日以来、女三の宮を忘れられなくなった柏木は、垣間見のきっかけとなった猫を東宮を通じて手に入れ、女三の宮の身代わりのように可愛がって、縁談にも耳を貸そうとしなかった。
四年が過ぎ、冷泉帝は二十歳の東宮に帝位を譲った。東宮には明石女御所生の六歳になる皇子が立ち、光源氏の血は外孫を通じて皇統に入ることとなった。だが光源氏は、我が秘密の子である冷泉帝の皇統が途絶えたことを内心寂しく思う。十月、光源氏は紫の上、明石女御、明石の君、明石の尼君も連れて、住吉大社にお礼参りを行う。その華やかさは、世に光源氏一族の繁栄を見せつけた。
女三の宮は二十歳を過ぎてもいとけない性格のまま、今や光源氏の訪れは紫の上と並ぶほどになっていた。その頃、光源氏は翌年の朱雀院の五十賀(ごじゅうのが)を六条院で催すことを思い立ち、賀の余興のため、女三の宮に琴を教え込む。正月、稽古の成果を披露する形で内輪の女楽(おんながく)が催され、明石の君が琵琶、紫の上が和琴(わごん)、明石女御が筝の琴で、女三の宮の琴と合奏した。女たちはみな美しく、演奏も華麗を極めた。
その翌日、光源氏は紫の上に向かって満足げに人生を振り返る。その言葉の中で、紫の上は自分の苦しみが理解されていないことを悲観し、光源氏との間に心の齟齬を感じて、前年から乞うていた出家を改めて願い出る。しかし光源氏は許さなかった。紫の上はわが人生を顧みながら独り眠ったが、翌朝から胸を病む。
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住吉大社は「住吉さんと呼ばれている。ただ「すみよしさん」ではなく「すみよっさん」。身近にあって、人々に愛されている神様なのだ。
大阪市を南北に貫く上町大地のほぼ南端にあって、現在は海岸線からはほど遠い。だが、かつてはこの地が、「難波江(なにわえ)」と呼ばれた大阪湾の岸辺だった。当時をしのばせる「佐竹本三十六歌仙絵巻」の図を見れば、白砂青松(はくしゃせいしょう)の浜には、名物の松、そして鳥居と社殿。みな西を、つまり海の方角を向いている。この社の神は海の神なのだ。祀られている三柱の男神は、「古事記」「日本書紀」によれば、イザナギノミコトが禊をした際に海の中から生まれた神という。海上交通の平安を祈って、遣唐使の発遣(はつけん)の折には朝廷から幣(ぬさ)が奉納された。
だがこの神、文学作品に現れる限りでは、妙に人間臭い。たとえば紀貫之は、土佐守の任を終えた帰京の旅で、この住吉を通過した。後に振り返り、「土佐日記」として記される船旅の、ようやく終わりに差し掛かったころである。突然風が出て、漕いでも漕いでも船が進まない。船頭が言うには「住吉の神は一癖ある神で、物を欲しがっている」らしい。だが幣(ぬさ)を奉っても、風は一向にやまない。「もっと神の嬉しがる物を」と言われ、大切な鏡を海に投げ入れるとどうだろう。たちまち波が静まり、海面はまさに鏡にように凪いだ。
― 「ちはやぶる神の心を荒るる海に 鏡を入れてかつ見つるかな ー(神様の御心を、荒れた海に鏡を入れることで、しっかりみてしまったよ。海の旅を守る御心も、かたや現金な御心もね)」。
住吉といえば、「すみの江(澄んだ入江)」という名も、憂さを忘れるという「忘れ草」が咲くことも、かわいい名前の「岸の姫松」でもしられていて優美揃いのようだが、いやはやそんな優しい神ではない。というのが、「土佐日記」が漏らす感想である。だがこれは、貫之一流のひねりだろう。おそらく貫之は、住吉辺りで神がかりめいた目に遭ったことが、本当は嬉しいのだ。平安時代、住吉は「和歌の神」としても崇められていたからである。
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