夫が隣で数独(ナンバープレイス)というパズルをしている。
かなり集中してやっている。面白くて止められないといったふう。
これをやり始めて5,6年は経つだろう。
「もう問題も作れるんじゃない?」と彼に聞いた。
返事は「いやぁ・・」だったけど。
その時思った。数独の問題を作れるには、
解き方がわかっていることと、答えがあることがわかっていることが必要だと。
そんなの当たり前か・・・
問いを作った人は答えが必ずわかる。
プロセスを踏んで行けば必ず答えに行き着くことを
わかってなければ、“問いを作れない”
そうなんじゃないか????
問いを持てたら半分は既にわかっているくらいのことなんじゃないか・・・???
小さな子供が「これ、何と読むの?」と問う。
その文字には必ずなんらかの読み方があると子供はわかっている。
答えがあるとわかっているから問う。
小さな子が「これなぁに?」と問う。
そのものが何かのものであり、名前があるものだとわかっている。
答えがあるとわかっているから問う。
なんであの人はあんな行動をとるんだろう?という問いを持つ。
その行動をとる“わけがあること”をわかっているから問う。
「ここに在った鍵知らない?」と問う。
何処かに鍵は必ず“ある”とわかっているから、問う。
何故、空は青いんだろう?何故、地球は丸いんだろう?
何故、世界はこうなっているんだろう?
何故、人は生まれるんだろう?何故、人は死ぬんだろう?
何故、あの人は私に優しいんだろう?何故、ひとは病気になるんだろう?
何故、あの人は長生きなんだろう?どんなふうに、釈迦はさとったんだろう?
何故、あの人はあんなふうに考えるようになったんだろう?
何故、あの人はあんな事をしてしまったんだろう?
何故、私はいつも同じ失敗をしちゃうんだろう?
・・・きりがないけど、こういう問いをひとが持ってしまうということは、
その問いに答え(本当の)があるとわかっているからなんじゃないか。
答えがあるということは、そこにたどり着く道が必ずあるということ。
同じ現象を見聞きしても、そういう問いを持たない人や場合がある。
それはそうなった答えがあること、プロセスがあったことを
わかってない、知らない、ということになるのか・・・?
そんなことには興味がないということなのか・・・?
ただ、?が浮かばないということにわけはないのか・・??
ついつい考えてしまう・・・悪い癖か・・・
私たちは答えの見つからないたくさんの問いを持っている。
それを問えるということは、
必ずいつかは答えがわかるだろうということなんだろうか。
この時代には無理でも、次の時代の人が
答えに行き着くことがある問いもあるかもしれない。
不思議だなと思うことは、
かなり先のことであってもいつか必ずそれは不思議ではなくなる???
だって、その現象が在るということは
必ずわけ・答え・プロセスがある、ということだから。
それでも、ひとは在るもの、こと、の全てをわかることはないのかもしれない。
それがわかったら生きる楽しみがなくなるものね。
かなり集中してやっている。面白くて止められないといったふう。
これをやり始めて5,6年は経つだろう。
「もう問題も作れるんじゃない?」と彼に聞いた。
返事は「いやぁ・・」だったけど。
その時思った。数独の問題を作れるには、
解き方がわかっていることと、答えがあることがわかっていることが必要だと。
そんなの当たり前か・・・
問いを作った人は答えが必ずわかる。
プロセスを踏んで行けば必ず答えに行き着くことを
わかってなければ、“問いを作れない”
そうなんじゃないか????
問いを持てたら半分は既にわかっているくらいのことなんじゃないか・・・???
小さな子供が「これ、何と読むの?」と問う。
その文字には必ずなんらかの読み方があると子供はわかっている。
答えがあるとわかっているから問う。
小さな子が「これなぁに?」と問う。
そのものが何かのものであり、名前があるものだとわかっている。
答えがあるとわかっているから問う。
なんであの人はあんな行動をとるんだろう?という問いを持つ。
その行動をとる“わけがあること”をわかっているから問う。
「ここに在った鍵知らない?」と問う。
何処かに鍵は必ず“ある”とわかっているから、問う。
何故、空は青いんだろう?何故、地球は丸いんだろう?
何故、世界はこうなっているんだろう?
何故、人は生まれるんだろう?何故、人は死ぬんだろう?
何故、あの人は私に優しいんだろう?何故、ひとは病気になるんだろう?
何故、あの人は長生きなんだろう?どんなふうに、釈迦はさとったんだろう?
何故、あの人はあんなふうに考えるようになったんだろう?
何故、あの人はあんな事をしてしまったんだろう?
何故、私はいつも同じ失敗をしちゃうんだろう?
・・・きりがないけど、こういう問いをひとが持ってしまうということは、
その問いに答え(本当の)があるとわかっているからなんじゃないか。
答えがあるということは、そこにたどり着く道が必ずあるということ。
同じ現象を見聞きしても、そういう問いを持たない人や場合がある。
それはそうなった答えがあること、プロセスがあったことを
わかってない、知らない、ということになるのか・・・?
そんなことには興味がないということなのか・・・?
ただ、?が浮かばないということにわけはないのか・・??
ついつい考えてしまう・・・悪い癖か・・・
私たちは答えの見つからないたくさんの問いを持っている。
それを問えるということは、
必ずいつかは答えがわかるだろうということなんだろうか。
この時代には無理でも、次の時代の人が
答えに行き着くことがある問いもあるかもしれない。
不思議だなと思うことは、
かなり先のことであってもいつか必ずそれは不思議ではなくなる???
だって、その現象が在るということは
必ずわけ・答え・プロセスがある、ということだから。
それでも、ひとは在るもの、こと、の全てをわかることはないのかもしれない。
それがわかったら生きる楽しみがなくなるものね。