ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

数独と考え書くこと

2014-07-22 13:00:48 | 日々の暮らし・思い出
さっきブログの文章書いたら、その後、なんだか気分がイキイキして来た。

なんでだろう?・・・

この頃数独をよくやっていて、とても面白い。

だけれど、面白いのはやっている最中で、

それが終わるとその面白さはそれで終わり。

そんなの当たり前だと思うけど、

数独を解くことと考え書きすることの違いはなんだ?

書くことで、あ~じゃないかこうじゃないか・・

いや、こうか?やっぱりこうか?・・

なんて考えるのは数独も文章を書くことも一緒だけど、

文章を書き考えるのは、

その時の面白さだけじゃなくて、

それが終えてもなんだか自分がイキイキしてる感じがある。

そういう毎日は便通もいい感じ。

やっぱりこんなふうに書き考えるということが、

公開するかしないかはあるけど、

私が生き生き生きることに、今は必要なことなのかと思ったよ。








「何故人を殺してはいけないのか」という問い

2014-07-22 10:49:02 | ひとの幸福
「救いとは何か」という2012年に出された本を読んでみた。

山折哲雄さんのもの。

その中に「何故人を殺してはいけないのか」というタイトルで

対談者と対話してる章があった。

途中で止めてしまったけど。

・・・途中で止めてしまう本が多い私であります。


おかしなこと、わからないこと、不思議なことにひとは問いを持つ。

わかっていること、不思議じゃないことには問いは持たない。


私自身で言えば、何故人を殺してはいけないのか?という問いを持ったことがない。

人を殺さないことが不思議でもなんでもない、当たり前のことだからだ。


けれど、その問いを発するのは誰か?

「人を殺してはいけない」という注意や訓告の言葉を聞く、“教えられる”子供だ。

人を殺さないことが不思議とも思ってない子供たちだ。

「人を殺すな」なんてわざわざ言われなくったって、わかる。

大人がわざわざそういう言葉を発するから、

子供はどうして?と聞くんだろう。


それに、どんなことも、「~してはいけないのか?」

という問いが発せられる前提には、~をしたいという欲求があるもんだ。

「あのお菓子食べちゃいけないの?」と幼児が発するのは

そのお菓子が食べたいからだ。


もし子供が人を殺したいと思ったとしたら、

「人を殺してはいけない」と言う前に、

どうしてそんなふうに思うのか、周りの大人は聴くのが先なのかと思うよ。

それを聴かずにやみくもに「いけない」では、

子供は(大人も)心を閉じるばかりだろうと思う。


何故人を殺してはいけないのか、その問いの答えは

人間は本来「人を殺したい」と“ならない”もんだからかもしれない。


人を殺したく“なる”のは、人の本質に外れている現象。

人を殺してしまう以外のことでも、本質に外れるように“なった”のは、

その人が本質から外れた扱いを多く受けたからかもしれない。

人に振り回されて暮らす人ばかりの中で暮らして来たからかもしれない。

自分の意識プロセスを観察しない多くの人の中で暮らして来たからかもしれない。


そんなふうになる多くのキッカケばかり掴んできてしまったのかもしれない。