ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

自分がこの世から去ったら・・

2015-02-15 14:27:21 | ひとの幸福
自分がこの世から去ったときは葬式なんかしなくていいし、

焼いたら骨は全部焼き場に置いてきて構わないし、

墓参りなんかしなくていい・・と思っていたけれど、

自分が死んだ後のことは後に残った人が好きにしてもらえばいいと思うようになった。

まぁ、なんでもどうでもいい。

墓参りしたいなんぞと思う人はそういうところですればいいし、

骨を墓に入れたかったら入れればいいし、

入れたくなかったら入れなければいいし、

私のことを思ってくれてもいいし、

全然思わなくったって構わないし、

死体のまま放置されててもいいし、

それを片付けたい人が居たら片付けたらいいし、

本当になんでもいいなと思う。

死んだ後のことは私の関知するところじゃない。

なんの願いもない。

死ぬ前に近くにいる人、それが子供なのか誰なのかわからないけれども、

そういう人がこういうことをしてから死んでちょうだいと言ったら、

なるべく言うようにしたいと思うけどね。


でも、死ぬ前から・・生きているうちから・・そういうふうになれたらいいなぁ。






亡くなって今日で10日・・・

2015-02-15 14:06:59 | 日々の暮らし・思い出
墓掃除に毎朝行っている。

えーっと、こういうことなんだ・・・

義父は骨になってしまったんだけど、寺の坊さんが

骨を墓に入れるのは77忌(四十九日というもの)の時だと言うようになり・・・

(そういえば、義母の時はもっと早くに葬式の後に墓に骨を入れた)

以前ここは77忌まで毎日墓参するべきという習わしがあったのだけれど、

骨がまだ入ってないので行かなくてよい、ということになったのだが・・・

だがだが、三界さん(三界万霊の碑)という石碑の所と、

六地蔵という6つ並んでいるお地蔵様の管理というか水を上げたり、

お線香を上げたり、そこをきれいにしたり、の役目を、

死人が出た家が次に死人が出るまでの期間それをでする、という習わしがあるので、

それをするのだが、それが在る場所は離れている2つの墓地にそれぞれあり、

うちの墓が、まぁ、それが驚くのだけれど、

その離れた墓地の2か所に在るのだ。

(「○×家の墓」という墓名が彫ってある墓石が2か所の墓地にある)


結局のところ、どうせ2か所の墓地に行かなくてはならないので、

骨も何も入ってない墓石が置いてあるだけの墓と骨入りの墓(まだ義父の骨は入ってない)の墓参りも毎日している。

今という時代、この地区でもそういう習わしをしない人もいるらしいけど、

わが夫はそこらへんが大変律儀というか、私のようではないので、

私たちは毎朝線香をあげ手を合わせ美化作業をしている。

やっていて別に嫌なことではない。

空や梅の咲き具合やなんかを見たりしてそれなりに楽しんでいる・・・


それなのに・・・・


今朝、新聞を読んでいたら、そろそろ行こうかという夫の声。

それを聞いて、一瞬え?どこへ?というふうになる。

毎朝墓場に行っているのに、行くことを毎朝見事に忘れるのだ。

声がかかって、あ、そうだ、そうだ、になる。

これはどういうことなんだろう???

単なる認知症状の一つか。

私より5歳も年長でも、夫は忘れないのに。

新しい習慣が身についてないということなのか・・・

信仰心が薄いからなのか・・・

どうでもいいと思っているからなのか・・・

どれもが当てはまる気もする・・・