ホント言葉に出すと出さないでいるのと違うその後がある。
本当にそうかなぁ・・どうなんだろう??という気持ちが生まれる。
この、本当は、というのは事件の真相のことじゃないんだけど。
アレを書かなかったら、その時のなんとなくの思いがそのまま
意識の奥に時間と共に消えて行くだけで終わっていたろうと思う。
まぁ、そんなことばかりではあるけれど。
何か事が起こると多くの正義の味方がそれ~やっつけろ~!になることが多い。
だからそうされないようにされないようにする、という風潮になるんじゃないかな。
そうされないように、そうならないように、とかいう心理の元には
非難されるものである、そうなるものである、という固定的な意識がある。
人を非難して人差し指でその人を指すとき、
あとの4本は自分を指しているという話があるけど、
こういう話を聞くようなことは近頃ない。
何かやってはいけないことをして、
周りの人たちがすごく非難しているとき、
キリストが自分が今まで一度もそういう気持ちになったことがない人だけ
前に出て、とかなんとか言ったという聖書の中のエピソードを思い出す。
やっぱり非難からは幸せは来ない。
けれど、
非難される側が非難の言葉の奥に在る愛、幸福を願う気持ち、に気付ければいいんだけど、
それは難しいよねぇ・・・・
本当にそうかなぁ・・どうなんだろう??という気持ちが生まれる。
この、本当は、というのは事件の真相のことじゃないんだけど。
アレを書かなかったら、その時のなんとなくの思いがそのまま
意識の奥に時間と共に消えて行くだけで終わっていたろうと思う。
まぁ、そんなことばかりではあるけれど。
何か事が起こると多くの正義の味方がそれ~やっつけろ~!になることが多い。
だからそうされないようにされないようにする、という風潮になるんじゃないかな。
そうされないように、そうならないように、とかいう心理の元には
非難されるものである、そうなるものである、という固定的な意識がある。
人を非難して人差し指でその人を指すとき、
あとの4本は自分を指しているという話があるけど、
こういう話を聞くようなことは近頃ない。
何かやってはいけないことをして、
周りの人たちがすごく非難しているとき、
キリストが自分が今まで一度もそういう気持ちになったことがない人だけ
前に出て、とかなんとか言ったという聖書の中のエピソードを思い出す。
やっぱり非難からは幸せは来ない。
けれど、
非難される側が非難の言葉の奥に在る愛、幸福を願う気持ち、に気付ければいいんだけど、
それは難しいよねぇ・・・・