前にカルテットというタイトルだったかで、バイオリン青年のことを書いたことがある。
彼はその曲を美しく弾きたいと強く願っていた。
その青年はそんなふうに弾けなくてずっと苦しんでいて、
あるとき先生が弾いていたのを聴いた時、
「美しく弾こうなんてしなくていいんですね、その曲は既に美しいんですから」と
感動的に気付いたことがあった、という話。
稀勢の里関が「大関としての相撲を取りたい」という願いを持ったのと同じだ。
稀勢の里だったら、
「大関としての相撲を取ろう、なんてしなくていいんですね。
僕は既に大関なんだから(実力があるから大関になれたんだから)」
こういうことなのかと思った。
稀勢の里で在るだけでいい。そのままでいい、ということなのかと。
稀勢の里という状態そのままでいれば稀勢の里の実力が出る。
(そんな願いがあるのなら、いっぱい練習してるんだろうから)
大関としての相撲を取ろう、という意識は、
その状態(身体の実力)に干渉という影響を与えることになる。
観測者効果だ。
その干渉は在るがままの稀勢の里という状態(実力)にマイナーな影響を与える。
自分の意識(無意識的も含めて)は自分の身体に即影響を与えることが出来る。
まぁ考えてみれば、大関としての相撲を取ろうという思いの出発点は
土俵の上のたった今、大関としての相撲を取れてない自分だということだ。
大関としての相撲を取れていたら、そんなこと思わないからね~
自分に向かって~とれてないと宣言してるのと同じようなもんだ。
自分でそう決めているから、自分という身体はその通りになる。
無いと思うから欲しがる。
在ると思えば欲しがらない。
こういうことなのかなと思った。
彼はその曲を美しく弾きたいと強く願っていた。
その青年はそんなふうに弾けなくてずっと苦しんでいて、
あるとき先生が弾いていたのを聴いた時、
「美しく弾こうなんてしなくていいんですね、その曲は既に美しいんですから」と
感動的に気付いたことがあった、という話。
稀勢の里関が「大関としての相撲を取りたい」という願いを持ったのと同じだ。
稀勢の里だったら、
「大関としての相撲を取ろう、なんてしなくていいんですね。
僕は既に大関なんだから(実力があるから大関になれたんだから)」
こういうことなのかと思った。
稀勢の里で在るだけでいい。そのままでいい、ということなのかと。
稀勢の里という状態そのままでいれば稀勢の里の実力が出る。
(そんな願いがあるのなら、いっぱい練習してるんだろうから)
大関としての相撲を取ろう、という意識は、
その状態(身体の実力)に干渉という影響を与えることになる。
観測者効果だ。
その干渉は在るがままの稀勢の里という状態(実力)にマイナーな影響を与える。
自分の意識(無意識的も含めて)は自分の身体に即影響を与えることが出来る。
まぁ考えてみれば、大関としての相撲を取ろうという思いの出発点は
土俵の上のたった今、大関としての相撲を取れてない自分だということだ。
大関としての相撲を取れていたら、そんなこと思わないからね~
自分に向かって~とれてないと宣言してるのと同じようなもんだ。
自分でそう決めているから、自分という身体はその通りになる。
無いと思うから欲しがる。
在ると思えば欲しがらない。
こういうことなのかなと思った。