山奥に金塊が在り、それを人間が見つけようと見つけられなかろうと
金塊が在ることに変わりはない。
でも、それを人間が見つけなければ、「金塊が在る」という思考は無い。
そう考えると、それに関心を向けること、
それに認識を持つということがその人間にとって、在るということになる。
その時その人が関心を向けたものだけがその人に見える、ということになる。
そのものに関心が行かなかった人にとってそれは存在しない・・
ということは・・・昼日中の公園の性器出し男に関心を向けなければ、
それは時間差を置いて、対象は存在しなくなる、
・・ということじゃないのか・・・
心に無いものは形にも現れなくなる・・・ということじゃないのか・・・
何が心になかったかというと・・・
どんな関心がなかったのかというと・・・・
その男を非難軽蔑するという。
見る側が、見られる側のその行為に対し非難軽蔑する気持ちがないと、
見られる側は、
いわゆる、非難軽蔑される行為で在ったものが、
非難軽蔑されない行為に自発的に変化する。
けれど、非難軽蔑するという気持ちが出てくるのは、
そういう常識が私たちにあるからだろう。
真善美を願ってしまうわたしたちの本質から来るものだと思う。
世間ではそういう行為は悪いと毛嫌いされるものだし、
賞賛される行為じゃない。
ただ、そういう考えでやって来たことで、
私たちの住む世界がどうなったかを
観察することが欠けていたんだろうと思う。
戦争反対と叫んで来て・・・悪を非難批判軽蔑して来て・・・
それらを征伐しようと、“なくそうとして”、一生懸命頑張って来た・・・
それを悪いと判断することなど一切ないけれど、
自分の願うこと(戦争がなくなることや、悪徳政治家がいなくなることや、
詐欺恐喝殺人傷害がなくなることや、平等な自由な世界になることや、
公園の性器出し現象がなくなることなんか)が、
その判断に基づく行為では叶わないという意味では、
悪いといえる。
“なくそうとするとなくならない”ということについては
見ようとすると見えない、という言葉を使っても、
何度も考え書いてきたし、
やっぱりそうなんだろうなぁと思う。
また、釈迦流に言えば、一切が、くう(空)であり、
それの言い方を変えれば、全てのものは相互作用でなってきたもの、
動的平衡と非動的平衡の繰り返しというプロセスからなってきたもの、
という事実からすれば、
その一点だけ、その現象だけをとって、軽蔑し批判し非難し注意し説得するのは、
事実に則してない観念といえるんだろうと思う。
釈迦の云ったという『見ないことが、究極のありようを見たことである』
こういう言葉からも、
その境地(判断無し)から発する思いが
対象にそういう変化をもたらすということに、
釈迦は確信を持っていたのかと思う。
そういう世界(人間)の変わり方を釈迦は提唱していたと言えないかな・・・
それを実現するのに修行をするとか講話を聞くとか説教を聞くとか、
念仏を唱えるとかお経を聞くとかの方法があって、
それもいいけれど、科学的な現代人向きの、
研鑽方式で実現しようと考えたのが山岸さんなのかと思う。
金塊が在ることに変わりはない。
でも、それを人間が見つけなければ、「金塊が在る」という思考は無い。
そう考えると、それに関心を向けること、
それに認識を持つということがその人間にとって、在るということになる。
その時その人が関心を向けたものだけがその人に見える、ということになる。
そのものに関心が行かなかった人にとってそれは存在しない・・
ということは・・・昼日中の公園の性器出し男に関心を向けなければ、
それは時間差を置いて、対象は存在しなくなる、
・・ということじゃないのか・・・
心に無いものは形にも現れなくなる・・・ということじゃないのか・・・
何が心になかったかというと・・・
どんな関心がなかったのかというと・・・・
その男を非難軽蔑するという。
見る側が、見られる側のその行為に対し非難軽蔑する気持ちがないと、
見られる側は、
いわゆる、非難軽蔑される行為で在ったものが、
非難軽蔑されない行為に自発的に変化する。
けれど、非難軽蔑するという気持ちが出てくるのは、
そういう常識が私たちにあるからだろう。
真善美を願ってしまうわたしたちの本質から来るものだと思う。
世間ではそういう行為は悪いと毛嫌いされるものだし、
賞賛される行為じゃない。
ただ、そういう考えでやって来たことで、
私たちの住む世界がどうなったかを
観察することが欠けていたんだろうと思う。
戦争反対と叫んで来て・・・悪を非難批判軽蔑して来て・・・
それらを征伐しようと、“なくそうとして”、一生懸命頑張って来た・・・
それを悪いと判断することなど一切ないけれど、
自分の願うこと(戦争がなくなることや、悪徳政治家がいなくなることや、
詐欺恐喝殺人傷害がなくなることや、平等な自由な世界になることや、
公園の性器出し現象がなくなることなんか)が、
その判断に基づく行為では叶わないという意味では、
悪いといえる。
“なくそうとするとなくならない”ということについては
見ようとすると見えない、という言葉を使っても、
何度も考え書いてきたし、
やっぱりそうなんだろうなぁと思う。
また、釈迦流に言えば、一切が、くう(空)であり、
それの言い方を変えれば、全てのものは相互作用でなってきたもの、
動的平衡と非動的平衡の繰り返しというプロセスからなってきたもの、
という事実からすれば、
その一点だけ、その現象だけをとって、軽蔑し批判し非難し注意し説得するのは、
事実に則してない観念といえるんだろうと思う。
釈迦の云ったという『見ないことが、究極のありようを見たことである』
こういう言葉からも、
その境地(判断無し)から発する思いが
対象にそういう変化をもたらすということに、
釈迦は確信を持っていたのかと思う。
そういう世界(人間)の変わり方を釈迦は提唱していたと言えないかな・・・
それを実現するのに修行をするとか講話を聞くとか説教を聞くとか、
念仏を唱えるとかお経を聞くとかの方法があって、
それもいいけれど、科学的な現代人向きの、
研鑽方式で実現しようと考えたのが山岸さんなのかと思う。