「・・・常に自己の相対性を反省しつつ、
一歩一歩絶対的な真理に近づこうとする努力の中にこそ、
科学の本質が見出される。
(湯川秀樹の「常識と非常識」より)
・・・この文章を読むと、
湯川秀樹自身の心がそういうものだったのかと思う。
さっきのブログを書いた(一部書き直した)とき、彼のこの文章を思い出した。
人間は相対的存在だからこそ、
生命の究極的意志(愛・真・善・美)を形に表わす(行為)ことも出来るし、
そうしないことも出来る。
そういう選択の自由の中、意識的か無意識的かはあるけれど、どちらかを選ぶ。
どっちを選ぶことも出来るという自由の存在だ。
望むこと何でも出来るという自由な存在だ。(結果はどうであれ)
人間が愛・・美しか選ぶことが出来ない状態だったら、
不自由な状態といえる。
相対的存在である人間も生命・自然の一部だ。
その意志は常に今ここに“在る”
存在は法則から逃れられない。
(量子力学の根本の法則は向きのない時間ひとつだけ。
それはエントロピーは増えないもの。絶対的なもの。それが在る)
究極である愛が在る・・ということと、
それを行為で表わす、ということは次元が違うことだ。
愛が在ると知っているというのは形のない知識に過ぎない。
それを体験すること(形ある)で喜びが生まれる。感情が生まれる。
愛ではない行為があるから、愛ある行為が喜べる。
神というか、それは、
経験が出来るという相対的世界に在るものじゃない。
神というか、それは相対ではない絶対なものだから。
それはある意味自由じゃない。
それしかない。選べない。
人間が意識的、精神的に成長するということは、
相対的世界の中で常に愛・・美という選択肢しか選ばない状態
になることを言うのかと思う。
キリストとか釈迦とかはそういうひとだったのかと想像する。
一歩一歩絶対的な真理に近づこうとする努力の中にこそ、
科学の本質が見出される。
(湯川秀樹の「常識と非常識」より)
・・・この文章を読むと、
湯川秀樹自身の心がそういうものだったのかと思う。
さっきのブログを書いた(一部書き直した)とき、彼のこの文章を思い出した。
人間は相対的存在だからこそ、
生命の究極的意志(愛・真・善・美)を形に表わす(行為)ことも出来るし、
そうしないことも出来る。
そういう選択の自由の中、意識的か無意識的かはあるけれど、どちらかを選ぶ。
どっちを選ぶことも出来るという自由の存在だ。
望むこと何でも出来るという自由な存在だ。(結果はどうであれ)
人間が愛・・美しか選ぶことが出来ない状態だったら、
不自由な状態といえる。
相対的存在である人間も生命・自然の一部だ。
その意志は常に今ここに“在る”
存在は法則から逃れられない。
(量子力学の根本の法則は向きのない時間ひとつだけ。
それはエントロピーは増えないもの。絶対的なもの。それが在る)
究極である愛が在る・・ということと、
それを行為で表わす、ということは次元が違うことだ。
愛が在ると知っているというのは形のない知識に過ぎない。
それを体験すること(形ある)で喜びが生まれる。感情が生まれる。
愛ではない行為があるから、愛ある行為が喜べる。
神というか、それは、
経験が出来るという相対的世界に在るものじゃない。
神というか、それは相対ではない絶対なものだから。
それはある意味自由じゃない。
それしかない。選べない。
人間が意識的、精神的に成長するということは、
相対的世界の中で常に愛・・美という選択肢しか選ばない状態
になることを言うのかと思う。
キリストとか釈迦とかはそういうひとだったのかと想像する。