ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
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子供の意思

2011-12-16 14:44:26 | ひとの幸福
江戸時代や明治や大正や昭和初期や第二次大戦後間も無い頃は、

社会全体が物質的に貧しくて、

ひとは自分や子供が食べるために忙しく働くばかりで、

たくさんの子供なんかに構っていられなかった。多分。

そういう時、子供の「意思・意志」はどんなふうに発揮されてたんだろ。


朝起きて、着替えしたり、ご飯食べたり、

学校へ行ったり、友達と遊んだり、親の手伝いをしたり・・

・そういう日常の行為をするときの意志は・・・・・?

例えば、朝起きるとき、

起きるまで親が何度も声かけたり、

起きない子供が起きるまで見張っていたのか・・

着替えするとき、

ずっと傍に居て、あれこれ指導したのか・・

食べるとき、

甘いものを食べ過ぎるな、これを食べろ、

アレを食べないとダメ、これも食べないといけない、と指導したのか・・

学校生活のことで、

成績についてアレコレうるさかったのか・・

きちんと授業を受けているか心配したのか・・

遊びについて、

こう遊べと指導したのか、誰それと遊ぶなと言ったのか・・

こんなふうに想像してみると、

こどもは結構放ったらかされ状態で、

自分の意思で動いていたんじゃないかな。

意思は尊重されるべきとして、

意識的にそういう環境にしたわけじゃないだろうけど、

日常の生活での細かな部分の意思、子供のその時々の意志は、

現代の子供より尊重されていたんじゃないかな。

「意思、意志」は規制を受けなかった、といってもいいし、

介入されなかった、と言ってもいいし、

干渉されなかった、と言ってもいいし、

子供にまかされていた、といってもいいかも。


いやいや、そんなこと言っても、

遊びたいという意志に介入して、やたら働かされたんじゃないか・・

なんてこと言われるかな。


貧しい暮らし・時代背景の中で、親がせっせと働いている時に、

遊びたい、そんな作業はしたくないと思うことは時にはあっても、

この状況はこれをするときだな、そうしようと、

子どもは自発的に思ったんじゃないかな。

親の手伝いではなくて、一つの役割を担っていたと思う。

働けと命令されてもされなくても、

状況を見て今はこうする、という“納得”があったかと思う。

そういう状況で遊びたい、

なんて発想は浮かばないのが普通かもしれない。

他からの規制で隷属的に動いていたとは、

言えないんじゃないかと思う。


無くていいたくさんの言葉を過剰に発する親は、

本来、自発的に発揮される意思を働かせて行動する機会を、

子供から奪っているんじゃないかなぁ。

そういう不自然なことを年がら年中してると、

しっぺ返しが来るのは当たり前なのかと思うよ。

親殺しなんかそうなんじゃないかな。

自分の身の回りの世話をしてくれた親を殺すなんて、

よっぽどのことがなきゃしないよ。


自分の意思や意志を無いもののように扱われるのは、

人としてよっぽどのことで、一番悲しいことかな。