狭い道路に居た人をやくざ風な人だと思い、
そこを通りたくても、恐いからと声もかけず、通らなかったら、
「やくざ風な人がそこにいたから、通れなかった」
と不満な思いが生まれることがある。
これも一つの動的平衡状態だろうと思う。
恐そうな人だと自分が思って、
声を掛けないことを自分で決めて、
そこを通らない事も自分で決めたという、
一連の自分の意識という実態を知らずに、
やくざふうな人が居たせいでその道を通れなかったと、
自分が自分の自由意志で行為したことをやくざ風の人のせいにし、
自ら被害者になる。
自分がそのときそのとき、
何を感じ、
何を思い、
何をしようとしているのか、
自分のことなのだが、知らないでいる。
そして知らないでいることを知らないでいる。
自分しかそこを観る人がいないのだけど・・・。
こういうのって、
目をつぶって生きていると言ってもいいかもしれない。
そこを通りたくても、恐いからと声もかけず、通らなかったら、
「やくざ風な人がそこにいたから、通れなかった」
と不満な思いが生まれることがある。
これも一つの動的平衡状態だろうと思う。
恐そうな人だと自分が思って、
声を掛けないことを自分で決めて、
そこを通らない事も自分で決めたという、
一連の自分の意識という実態を知らずに、
やくざふうな人が居たせいでその道を通れなかったと、
自分が自分の自由意志で行為したことをやくざ風の人のせいにし、
自ら被害者になる。
自分がそのときそのとき、
何を感じ、
何を思い、
何をしようとしているのか、
自分のことなのだが、知らないでいる。
そして知らないでいることを知らないでいる。
自分しかそこを観る人がいないのだけど・・・。
こういうのって、
目をつぶって生きていると言ってもいいかもしれない。