「ナンだか知らないけど、そうすることになっているから、そうしよう」
というような、「そうすることになっている」は、
自分にとってのプロセスを経た「結果」じゃなくって、
誰かの、プロセスを経た結果なんだろうけど、
そのプロセスを実感してない状態かもしれない。
その瞬間は自分の人生の主人公が自分ではない感じ・・
勿論、その瞬間のことについてよ。
ひとの話を聞いて、「あー、そうなんだぁ」と
深く納得することがある。
自分ではないその人のその話のプロセスを、
自分も又通っているように感じて、納得するのかと思う。
「そうすることになっているから、そうする」というのは、
ひとの結果(答え)を考えることなく、
書き写すカンニングみたいなものなのかもしれない。
もし、それがかたち的にはうまいこと行っても、
嬉しさはあまりないかもしれない。
カンニングで100点取っても、
自分で一所懸命考えて取った100点みたいに嬉しくない。
自分がプロセスを経て納得したことだったら、
悲しみも喜びも深いものになる。
人生を深いものにするのも浅いものにするのも、
どれだけ主体的に生きてるかな、っていうことなのかな。
というような、「そうすることになっている」は、
自分にとってのプロセスを経た「結果」じゃなくって、
誰かの、プロセスを経た結果なんだろうけど、
そのプロセスを実感してない状態かもしれない。
その瞬間は自分の人生の主人公が自分ではない感じ・・
勿論、その瞬間のことについてよ。
ひとの話を聞いて、「あー、そうなんだぁ」と
深く納得することがある。
自分ではないその人のその話のプロセスを、
自分も又通っているように感じて、納得するのかと思う。
「そうすることになっているから、そうする」というのは、
ひとの結果(答え)を考えることなく、
書き写すカンニングみたいなものなのかもしれない。
もし、それがかたち的にはうまいこと行っても、
嬉しさはあまりないかもしれない。
カンニングで100点取っても、
自分で一所懸命考えて取った100点みたいに嬉しくない。
自分がプロセスを経て納得したことだったら、
悲しみも喜びも深いものになる。
人生を深いものにするのも浅いものにするのも、
どれだけ主体的に生きてるかな、っていうことなのかな。