ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

忘れてしまっていることを・・・

2014-02-07 14:33:24 | 日々の暮らし・思い出
昨日の晩何を食べたかとか、これは誰に頂いたのかとか、

あれは何処へしまったのかとか、忘れてしまう。

こういう話を友達にしたら、

それを忘れちゃったでお終いにしないで、

とにかく思い出すという作業をすることが大事だ、と言ってくれた。

すると、脳のその部分が仕方ないなぁとなってか・・?

せっせと電気信号を出してそのうち思い出すようになるとかなんとか。

そうか、と思い、最近昨日の夕食は何だったかと、

食べてから30時間くらいしてから思い出すというのをしてる。

すぐには思い出せないけど、

真面目に思い出そうとしてるとだいたい思い出せるようになった。

確かに努力の成果が現れている感じがする。

これで認知症にならずに済むだろうか???

綾小路きみまろの漫談に「4人に1人が認知症になるんだから、

予防法は3人で行動することです」っていうのがあった。

その方法よりは効果がある気がするよ。

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エントロピーとアンチエイジング

2014-02-07 10:01:36 | ひとの幸福
何という病名か忘れたけど、ある精神病患者は見た目が30歳くらいで、

皺もシミもなく身体もたるんでいないのだけど、

実際は60歳過ぎている、というような事実があるよう。

その病気で同じ症状の人は皆そうらしい。

何かの本で読んだ。

今日何故か、その話を思い出して、

それの答え(私の考えに過ぎないよ)がぱっと浮かんだ。

「初めよくわかっていたのを、そのまま外部と全く切り離して放っておいても、

エントロピーはふえない」ということなのかと思ったのだ。

その病人は周囲の人から何の影響も受けない。

その病気ゆえに、周りが何をしようが何を言おうが、

その人の心には何にも届かないらしい。

まるで目には見えないぶ厚い壁があるかのようだ。

その人の心は外部と全く切り離されて放って置かれている状態なんじゃないか。

意志してるわけじゃないけど。

一人の世界(心)に生きているのかもしれない。

ぶつかったりはしないみたいだし、

目が見えないわけじゃないから、

周りに人がいるのはわかるのだろうけど、

それについて何の認識も浮かんでこないんだろうなぁ。

孤独感のようなものも壊れてしまっているんだろうか・・

わからないけど・・・。

鉄が水や空気に触れるとぼろぼろになるのは

エントロピーが増えているということらしいけど、

その人が鉄だとしたら水や空気がない状態に居るということか。

だからぼろぼろにならない。老いない。

アンチエイジングにトライしたいと思ってる人でも、

この方法をしてまでそうはなりたくないないだろうな。



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メロスは走っていなかった・・・

2014-02-06 22:26:04 | 日々の暮らし・思い出
 ネットで読んだ。面白い!引用するね。

一般財団法人 理数教育研究所が開催した「算数・数学の自由研究」

作品コンクールに入賞した「メロスの全力を検証」(PDF)

という研究結果がとても興味深いです。

中学2年生の村田一真くんによるこの検証では、

太宰治の小説「走れメロス」の記述を頼りにメロスの平均移動速度を算出。

その結果、「メロスはまったく全力で走っていない」

という考察に行き着きます。

端的にいうとメロスは往路は歩いていて、

死力を振りしぼって走ったとされる復路後半の奮闘も

「ただの早歩きだった」というのです!なんてこった!

 メロスは作中、自分の身代わりとなった友人を救うため、

王から言い渡された3日間の猶予のうち

初日と最終日を使って10里(約39キロ)の道を往復します。

今回の研究ではこの道のりにかかった時間を文章から推測。

例えば往路の出発は「初夏、満天の星」とあるので0時と仮定、

到着は「日は既に高く昇って」「村人たちは野に出て仕事を始めていた」

とあるので午前10時と仮定して……

距離を時間で割った平均速度はずばり時速3.9キロ! うん、歩いてるね!

 メロスは復路の日、「薄明のころ」目覚めて

「悠々と身支度」をして出発し、日没ギリギリにゴールである刑場に突入します。

村田くんは北緯38度付近にあるイタリア南端の夏至の日の出がだいたい午前4時、

日の入がだいたい午後7時と目星をつけ、

考察を開始。復路では途中、

激流の川渡りや山賊との戦いといったアクシデントがあり、

これらのタイムロスも勘案してメロスの移動速度を算出します。

 その結果、野や森を進んだ往路前半は時速2.7キロ、

山賊との戦い後、死力を振りしぼって走ったとされるラストスパートも時速5.3キロと、

思った以上に「ゆっくりしていってね!」な移動速度が算出されてしまいました。

メロス……走ってないやん!!!! 

ちなみに、フルマラソンの一般男性の平均時速は9キロだそうです。

 もちろん、現代のように道が道らしく整備されている保証はありませんし、

いろんな足止め要素を想像すれば、

算出された平均速度以上にメロスは頑張っていたと想像することも可能です。

ちなみに発表者の村田くんは、

「往路の事でメロスは、結婚式のために色々買ったので、

それをすべて持って村に行かなければいけないので、

少し遅くなったと思います。

しかし、遅すぎると思いました」「『走れメロス』というタイトルは、

『走れよメロス』のほうが合っているなと思いました」と、

ざっくばらんに感想を寄せています。村田くん、ナイス研究!!!

・・・以上ネットより引用。

村上春樹の小説の中の台詞について如何なものかと怒っている大人に比べると、

なんて痛快なんだろう!!!

子供は面白い。

私もね、美空ひばりの乱れ髪だっけ?歌謡曲の歌詞の

「春は二重に巻いた帯、三重に巻いても余る秋」という

のを計算してみたことがあって、ちょっと可笑しかった。

帯はウエストに巻いてからその残りで太鼓結びとかするので、

その結ぶ部分はウエストが太くても細くてもそれほど変わらないから、

ウエスト部分を考えると、

春はウエスト63センチ9号タイプだったとすると、

63×2(二重)で126センチ。これがウエスト部分の帯の長さ。

秋になったら126センチで三重に巻けて、その上余るとなると、

ウエストは126÷3で42だけど、それでも余るというんだから、

ウエストは42センチ以下になってしまったということになる。

痩せたということを云ってると思うけど、

これは痩せすぎだと思った。
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人格的行為と直接結びついたもの、という言葉

2014-02-06 16:57:42 | 量子力学と心
これも湯川秀樹の言葉です・・・

「精神と物質は表裏一体をなしているかもしれない。

それはある絶対的な直観的な知識を意味するであろう。

それこそ真の知識であるかもしれない。

否、それは“単なる知識以上のもの、

人格的行為と直接結び付いたもの”であるかもしれない。

私はそれを何と呼んでよいか知らない。

・・・・いずれにしても物質の問題が錯雑した迷路に入り込んで、

途方に暮れようとする行き詰まりから、

自ら精神の世界が開けて来るのである。

それはもはや狭い意味における物理学の世界ではない。

主として心理学によって研究されるべき領域である。」

・・これは昭和18年3月に発表されたらしい『物質と精神』からの引用です。


この中の“単なる知識以上のもの、人格的行為と直接結び付いたもの”

これが云っているのって、ある境地のことじゃないか・・・

人格的行為であっても非人格的行為であっても、

行為は境地から発生するものだから。

ここで彼が言っている、“単なる知識以上のもの、

人格的行為と直接結び付いたもの”とは、

キリスト的境地、釈迦的境地、無我の境地と云ってもいいし、

究極の境地、自他一体の境地、ある存在の状態、

潜在意識のあるプログラムが作用する状態というか、

心境の状態がある段階に達したもの・・・とか。

この境地がエントロピーが増えも減りもしないという状態なんじゃないか・・・


この本の『エントロピー原理とは』という章の最後に、

湯川秀樹が言ってる言葉がある。

「・・・法則が何らかの形で現実世界で具現されていると考えるか・・・」。



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湯川秀樹の言葉を思い出した・・・

2014-02-06 15:54:57 | 量子力学と心
「・・・常に自己の相対性を反省しつつ、

一歩一歩絶対的な真理に近づこうとする努力の中にこそ、

科学の本質が見出される。

(湯川秀樹の「常識と非常識」より)

・・・この文章を読むと、

湯川秀樹自身の心がそういうものだったのかと思う。

さっきのブログを書いた(一部書き直した)とき、彼のこの文章を思い出した。


人間は相対的存在だからこそ、

生命の究極的意志(愛・真・善・美)を形に表わす(行為)ことも出来るし、

そうしないことも出来る。

そういう選択の自由の中、意識的か無意識的かはあるけれど、どちらかを選ぶ。

どっちを選ぶことも出来るという自由の存在だ。

望むこと何でも出来るという自由な存在だ。(結果はどうであれ)

人間が愛・・美しか選ぶことが出来ない状態だったら、

不自由な状態といえる。


相対的存在である人間も生命・自然の一部だ。

その意志は常に今ここに“在る”

存在は法則から逃れられない。

(量子力学の根本の法則は向きのない時間ひとつだけ。

それはエントロピーは増えないもの。絶対的なもの。それが在る)


究極である愛が在る・・ということと、

それを行為で表わす、ということは次元が違うことだ。

愛が在ると知っているというのは形のない知識に過ぎない。

それを体験すること(形ある)で喜びが生まれる。感情が生まれる。

愛ではない行為があるから、愛ある行為が喜べる。


神というか、それは、

経験が出来るという相対的世界に在るものじゃない。

神というか、それは相対ではない絶対なものだから。

それはある意味自由じゃない。

それしかない。選べない。

人間が意識的、精神的に成長するということは、

相対的世界の中で常に愛・・美という選択肢しか選ばない状態

になることを言うのかと思う。

キリストとか釈迦とかはそういうひとだったのかと想像する。




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ある絶対的なものに非常に近いもの・・ 

2014-02-06 12:22:55 | 量子力学と心
湯川秀樹の言葉の中にとても興味深いものがある。

以下のこれ・・・

「エントロピーの法則と量子力学の根本法則の方の時間の向きのないものとは、

どうせそれは人間的なものがどこかにあるにしても、

一つオーダー(数式でいう次数。ここでは位置とか時間などの

不確実な要因の数)の違うものであるのは確かに言える。

というのは、今のエントロピーが増えるというようなことは、

つまり人間的なスケール(位置・時間など)ということと

非常に密接に結びついているのです。

ところが“根本法則は人間的な位置、時間などを離れてしまった問題”・・・

これは神さまじゃないかもしれんが、

ある絶対的なものに非常に近いもの、

例えば因果律的なものですね。

それは統計と解釈しようが、どう解釈しようが、

そういうもの自身はずっと絶対的なものに近いですね。」

・・・湯川博士の言葉である。

これは何を云っているのか???

量子力学の根本法則の方の時間の向きのないもの、

人間的な位置・時間などを離れてしまった、もの、

それって、愛とか真・善・美というような形のない意志のようなもの、

なんじゃないか・・・

それは相互作用で起こったものではなく、

観測作用で起こったり起こらなかったりするものでなく、

絶対にある、目に見えない、形のないもの。

何と言われようと何をされようと、ある状態の人間から消えないもの。

相手がどうしようと、それに左右されずにどうしても在るもの。

母の愛に似てるもの。

そのような状態ではエントロピーが増えもせず減りもしない。

根本法則の方の時間の向きのないものとは

生命・宇宙の究極の意志、なんじゃないか・・

それは常に“今ここ”という向きのない時間に在る。

在るけれども、人間界で考えると、

人間というものは相対的世界に生きているから、

愛や真を選択したり、選択しなかったり出来る。

けれど、常に愛を選択することしか出来ない場合には

エントロピーが増えない・・・

そういうことかと考えた。






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村上春樹 と 襟裳岬

2014-02-06 09:03:47 | 新聞を読んで
作家の村上春樹さんが書いた短編小説の中で、

主人公の感想としてこういう言葉を言ったという部分があるそうで、

それがコレ。

「たぶん中頓別町ではみんなが普通にやっていること(タバコのポイ捨て)なのだろう」。

ここのところで当の北海道中頓別(なかとんべつ)町では

たばこのポイ捨てが「普通のこと」と表現したのは事実に反するとして、

同町議らが文芸春秋に真意を尋ねる質問状を近く送ることを決めた。

町議は「町にとって屈辱的な内容。見過ごせない」と話しているらしい。


なんだか・・・恥ずかしい感じ。

作家も大変だ。村上春樹さんはこれについてなんも言わないと思うけど。

前、歌手の森進一が歌ってヒットした襟裳岬という歌の歌詞に

「襟裳の春は何もない春です」というのがあって、

それを襟裳町ではこれと同じように怒ったらしい。

何もないとはなんぞや!って。

その後襟裳町ではその歌の影響で観光客が増えて、

お金がたくさん入ってその態度をひっくり返したらしい。

面白い。今度のこの事はどういう展開になるんだろう。


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エントロピー原理は・・・②

2014-02-05 13:33:52 | 量子力学と心
初めて湯川秀樹と小林秀雄の対話を読んだときは

ただ文字列をさっと追ったくらいで、

面白くもなんともなかった。

要は読んでなかった。文字を見ただけだった。

それが読みたくて読んでいくうちに、

これはどういうことか?が浮かんで来た。

わからないってことがわかって来た。

そうなると面白くなってくる。

特にこの文章・・・

「・・・ところが、知らぬ間に観測をやって、結果をわれわれが知らずにいると、

あいてはだんだんわからなくなってくる。

ということはエントロピーが増えることです。

初めよくわかっていたのを、そのまま外部と全く切り離して放っておいても、

エントロピーはふえない。・・・(中略)・・・

分子がどうなっているか、われわれが実際知らずにいると

エントロピーが増える。

ところが全部知ったらどうなるか。エントロピーはふえない。」

・・この言葉は本当に意味深だし、面白い。

さっきも少し書いたけど、考えるためにもう少し・・

「初めよくわかっていたのを、そのまま外部と全く切り離して放っておいても、

エントロピーはふえない」・・このことはどういうことか??

「初めよくわかっていたのを」・・これどういうこと???

何がどうよくわかっていたのか?

分子の状態が観測者によくわかっていた、ということだろうか・・

分子が秩序を保っていた状態だったということだろうか・・・

(それがどういうことかわからないけど)

その状態のまま、外部と切り離して放っておくというのは、

何の干渉(観測)もせずにいたということだろうか。

それは人間の意識で考えると、

相手の在るがままを受容し、見守るだけで、

余計な口出し手出しをしないでいるということだろうか。

すると、対象は混沌とはならない。秩序状態を保っている。

そういうことだろうか???


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「人間の進歩について」というタイトルだった

2014-02-04 10:41:50 | 量子力学と心
小林秀雄の対話集で湯川秀樹との対話のタイトルは

「人間の進歩について」だった。

その中の「エントロピー原理とは」という章に、

量子力学で“根本の方程式”としては、

“向きのない時間一つしかない”という文章があった。

物理的な難しいことは全然わからないんだけど、

向きのない一つの時間しかないのが量子力学の根本原則だとすれば、

やっぱりやっぱり、量子は意識だ。

量子力学は意識力学だ。

生命を、世界を、人間を、意識を、心を、

他の何もかもを研究し、地球を調和あるものするために

量子力学があるんじゃないか。

全くの無学のあほのミーハーの私がこんなこと言っても

誰も見向きもしないだろうけど、

思っちゃうものはしょうがない。

でも、湯川秀樹も山岸さんも応援してくれてる感じが勝手にしてる。


意識・境地は今ここに在る。

いや、昨日も意識はあった、なんて言わないでね。

そう思ってる意識は今ここに。

過去も未来も今ここという瞬間の意識にある。

けれど、実際私たちが生きて暮らしているということは

時間の向きがあると感じる。

こういう湯川秀樹の言葉もあった。

『根本の方程式としては向きのない時間一つしかない。

しかし、同時に

エントロピーが増加するという場合のある向きの時間も確かにある。

根本の方程式から出発して、

“ある人間的な条件では”このエントロピーが増加する場合“だけ”出てくる。

その逆というのはめったにない。』

(“ ”印は私がつけた。)

こういうのを読むとぞくぞくしてくるよ。

なんでかって、考えたい考えたいってなるからさぁ。

“ある人間的な条件”ではエントロピーが増加する場合だけ出て来る・・・

けれど、鉄が酸化してぼろぼろになるのを

エントロピーが増加してる状態だと聞いたことがあるんだけど、

鉄が酸化するのに人間的条件が関係あるんだろうか???
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関心

2014-02-01 13:46:24 | 本を読んで
「直観を磨くもの」という小林秀雄の対話集を読んでる?けど、

古典をめぐりてとか、美術を語る、芝居問答、音楽談義、等々、

ちょっと文字を追っただけで読むのを諦める。

読む力がない。

わからない。

こういうことに興味や関心がないんだなとつくづく思う。

湯川秀樹との対話もあって、

それだけは興味があるから読んでるんだけど、

私には理解できないこともたくさんある。

それでもそこに書かれてあることを知りたいという意欲だけある。

文字を追うだけの一回目。

文字列を行ったり戻ったり行ったり戻ったりしての二回目。

今、同じように三回目。

このあほな頭では何回も読まなきゃ一部分でも読み取れないし、

何度読んでも読み取れないかもしれないけど、

小林秀雄との相互作用で引き出される湯川秀樹の思いを

聴きたい、確かめたい、というのがある。

私が受け取っているところの、湯川秀樹の確信のようなものを

そこでも得られるか・・そんな感じの読み方をしてる感じ。

それがすごく面白い。

でも、意欲に頭が追いつかないなぁと思ってる。

どうなるやら。









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アラスカのコガラ(鳥)とカンザス州のコガラ

2014-02-01 10:33:49 | テレビを見て
この前BSの地球伝説という番組で面白い事を云っていた。

アラスカのコガラ(鳥)とアメリカ、カンザス州のコガラを比較して研究してみて、

厳しい環境で生きるほど賢い子孫が生まれる、

ということがわかったという。

餌を取るのにはちょっと面倒くさい場所に餌を置いておくという実験で、

アラスカのコガラは工夫してそれを啄ばむことが出来たのに比べ、

カンザスのコガラは餌を取り出すことが出来ずにいた映像を見た。

カンザスという所がどんな所か知らないけれど、

コガラにとっては容易く餌を得られる所なんだろう。

難しい、面倒くさい、というのはストレスになるのかと思うけど、

ストレスというもの無しには人間も成長しないのかと思う。

ストレスが原因の一つになって病気になるということをよく聞くけど、

ストレスがほとんど無い暮らしをしていると、

カンザスのコガラみたいに、腑抜け人間になってしまうんだろう。

昔の人間に比べると現代の人間はひ弱な感じがする。

現代でも未開の土地の人は昔と比べてもそれほど差はないのかもしれない。

ストレスはあるより無い方が一時的にはいいのかもしれないけど、

長い目で見たらある方が上に書いたような意味でずっといいのかと思う。

良かれと思って手厚くしてたらカンザスのコガラだ。

万能細胞はストレスを受けることで生まれる。

万能細胞とは何にでも生り得る能力を持つもの。

厳しい環境で生きる経験をすることで、

厳しくない環境で生きることなど屁の河童になるはずだし、

可能性が広がる。

人生を楽しめる。

ゆるゆるの環境でしか暮らしてなかったら、

元々在る能力も出て来るキッカケがないことになる。

こう考えてくると、厳しい環境、現在の自分が受け容れられないこと、

癪に障ること、嫌なこと、そういうものが在ることは、

そりゃあ、よかったねぇ!ということなんだよねぇ。

そういう成長(意識の初期化)の機会にするか、

くさくさしてストレスだと呪うか、

ストレスの対症療法をするか、

どれを選んだっていいんだな、私たちは。

どれを選んだって最終的には行けるんだと思う。


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