ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

食べる量について

2014-07-14 10:43:04 | 日々の暮らし・思い出
最近ぐっと少食になった義父。

五木寛之さんのエッセイに、

腹八分目というけど、70代になったら腹七分目、

80代になったら腹六分目、90代になったら腹五分目・・

・・そういうのが望ましいんじゃないか・・・だっけかな?

そんなふうなことが書かれてあるのを読んだことがある。

もっと少ない数字だったかもしれない。

それが自然に枯れていく道筋・・

そういうニュアンスだったかと思う。

自分もそんなふうになって行きたいと思っている。

五分目どこじゃない義父の今の姿もそういうものなんだろうとは思う。

私から見るとほんのちょっとでも、

「満腹満腹」と言う。

今の彼にとってはそれが腹十分目なんだろうと思う。

なのに、もっと食べてほしい・・みたいな気持ちが湧くことがある。

食べることって原始的で生命力を表わす現象のようにも思うから、

義父にそういう姿でいてほしいっていうのが自分にあるんだなぁと思う。

食欲があると嬉しくなる。

そういう自我(自分の気持ち優先)がある今の自分なんだと思う。




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決 という字

2014-07-14 08:28:24 | 言葉
今朝の新聞に「決河」は何と読むか。というのが出ていた。

週に一度掲載される漢字の読み方欄だ。

元々「決」という字の意味は堤防を切って水を流すことだという。

なるほどと思った。

迷っていたことや、とても出来ないと思うことなんかを

よし!やる!と覚悟する気持ちで決心すると、

それまで停滞していた物事が思ってもいなかった方向に生き生きと動き出す、

という感触を持っていたけど、

「決」という字の元々の意味を知って、

そういう現象になるに相応しい言葉なのだと思った。

「決」を広辞苑で見てみたら覚悟するという意味もあった。

言葉は不思議だ。不思議に思ってしまう私なんだけれど、

不思議でもないようにも思ってしまう私もある。


目に見えない世界を表わすものとして最初に言葉があった・・・

最初に言葉があった 言葉は神であった

この言葉が抵抗なく入ってくる。

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数独

2014-07-11 13:21:17 | 日々の暮らし・思い出
新聞が畳んでテーブルにある。

横目でちらっと見るそこに『数独』が出てる。

昨日やり掛け途中で間違っていることを発見し、

また最初からやり直そうと思っている奴だ。

間違いを発見したのはいいが、それ一つを消せばオーケーじゃないのが数独の面白いところだ。

それが間違いだとわかるのは、以前置いた数字のどこかが間違えているからだ。

縦列も横列も囲みの中も全部に関わりがある。

一つ間違えるとそれはボタンのかけ違いみたいに全体が狂ってくる。

間違いに早く気付けばいいんだけど、

間違えていても縦横囲みマスみなオーケーだと数字が置けてしまう。

いい調子じゃないんだけど、いい調子と進む。

ところが一つの間違えた数字を置いたそれを前提に次に進めるもんだから、

何処が間違いの始まりなのかかなりやってからではわからない。

で、最初からやり直すことになる。

よくよく確認してその数字を置かないと面倒なことになる。

一つ間違うとそれをきっかけにどんどん間違い数字が並ぶ。

面白い。動的平衡ゲームだ。

最近やり出した。夫はもう何年も前からやっている。

彼は麻雀も上手だ。少なくても私よりずっと。

あれは運をどう活かすかというのが凄くあるような気が私はしてるけど、

数独はそういうのはない。

数独は彼がやり始めたときにちょっと教わったけど、

その時の私は関心が持てなかった。

ついこの前、毎日新聞に数独の特集ページがあって、

それを読んだら、やってみようかなと思って今日に続いている。

だんだん難しくなってくるから、

どうやってこの難関を突破したらいいのかわからないと、

昨夜は先輩の前でぼやいてしまった。

本当は全部自分で考えたくて教わりたくないんだけど、

私の声を聞いた彼もやりたくなったようで、一緒に少しやった。

やっぱり先輩だ。あ~なるほどこう解くのかと思ったのがあった。

それがあるもんだから、もう一度やりたくてうずうずしている。

そんなことを思ったとき、考えたくて文章を書くときと一緒だなと思った。


何かについて、このことはこういうことなんじゃないか・・?

というような疑問というか、確認したいものというか、

考えるヒントみたいなものというか、

そういうものが自分の中から出てくると、

文字を綴ることで解きたいという気持ちがむくむくと出てくる。

それを早くやりたいという気持ちでうずうずして来る。

数独も書くことで考えることも、そのプロセスがわくわくする。

数独は出来上がると嬉しいという気持ちも湧くけど、終わっちゃった・・

みたいな気持ちも湧く。終わるということがどうってことない。

考えたくて書くことは書き終えると、あ~そうかそうなのか、みたいな勝手な納得が得られる。

そしてそれは次に続く感じがする。

あ、でも数独も同じかな。

その問題を解いたそのことは必ず次に繋がる。

最初から超難しい問題はできない。

いつまで経っても私は超難しい問題はクリアできない可能性が高い気はするけど。

ま、やってみなきゃわからない

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死の瞬間と幸福

2014-07-10 09:09:30 | ひとの幸福

昨日だか、老化現象でも別にかまわないというようなことを書いたけど、

老化の先にある死も別にかまわない。

変な表現だけど、まぁ、前から思っていることだけど、

いつ死んでもいい。

今この瞬間死んでもいい。

いつもはこんなふうに書いた後、実際その時にどう思うかはわからない、

と付け加えていたけど、今日は付け加えない。


本当にそれはわからないことではあるけれど、

それを付け加えるのは、

そう言ってたのに実際はあがいていたね~なんて言われないように・・

みたいな気持ちがあったからだ。


昔、初めての子供を産んだ後、身体の一部分がひどく痛いことがあって、

そんな場所のそんな痛みは初めてだったし、

不安に思ったその時、生まれて初めて「死ねない」と思った。

この子を置いて死ねない、そう思ったのだった。

その頃はいつ死んでもいいとよく思ってたから、

死ねないと思ったことが凄く新鮮だった。

あ~、母親になるとこういうふうに思うんだなぁと思った。

若いのにいつ死んでもいいと思ってたなんて、

鬱的な日々を送っていたかのように受け取る人もあるかもしれないけど、

元気に暮らしていた。

今は子供も成長したし、心残りもない。

そりゃ私が死んだらそれなりに悲しんだりしてくれると思うけど、

時間が癒してくれるもんだ。


この子を置いて死ねないというのは母の愛でもあるけれど、

執着でもある。

世界は戦争やいざこざや紛争がたくさん起こっていて、

私のこい願う地球世界はまだ訪れてないけど、

そのこともあ~今はそうなんだなと思えるし。

世界の幸福を願うのは愛だけれど、

それを持って放さないのは執着でもあるから。

祖母、父、義母、母の4人の死に目に遭った。

死の瞬間は一切の執着が消える時なんだろうなぁ。

やりたかったこと、気になっていること、守りたかったもの、

全てを、どうなってもいいと思えるんじゃないか。

そんなこと当たり前か・・・

そのことを思った時、青い本のこれ、

「死んでからの極楽よりも、死の瞬間を、一生を通じての最大の極楽境にします」が浮かんだ。

その極楽状態というのは無我執、無執着という心の状態だろうと思う。

全ての不幸の基は執着だから。

極楽境にします、その、する主体は誰だ?何だ?・・と考えると、

それは、そうなっているもの・自然・生命・宇宙の法則・・

そういったものなんじゃないのかと思った。



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風邪ひきは老化か・・・

2014-07-09 13:25:54 | 日々の暮らし・思い出
母の一周忌から戻ってから痰が絡むという状態になって早や2週間は過ぎてる。

ほとんど毎晩痰に悩まされた。

痰が絡む以外ほかに何の症状もなかったから畑に行ったり、

普段通りの暮らしをしてた。

そんな中、2、3日前にちょっと熱が出てびっくりした。

そうしたら?昨日くらいから痰の量が減ってきた。

熱が出た後の方が調子いい。

その熱と痰が減ったのと何か関係あるのかなぁ。

考えても私にはわからない。

熱が出て横になっているとき、夢かうつつかみたいな時間にいろんなことが浮かんだ。

去年の夏も同じパターンで風邪を引いた。

去年は石垣島から戻ったすぐに母の不調で東京に行き、そのまま葬式やらなにやら。

今年は岩手に行き、帰宅してから数日で母の一周忌で東京に行った。

どちらも帰ってすぐに風邪ひき状態。

夏風邪なんて多分去年が初めてで、それも長引いた。

で、風邪をひくことは老化現象か・・・

それまでは同じような状況でも風邪をひくなんてことはなかった。

風邪の菌がある所に居ても風邪なんかひかなかった。

体力が以前より衰えた・・・のかもしれぬ。

うん、体力は確かに衰えた。

まぁ、20代の頃より体力が増している場合の方が少ないだろうけど。


かような按配で・・

このような場合に風邪をひくのは老化現象・・・そのようにとらえたら、

そのようにとらえた自分にとって風邪ひきは老化ということになる。

・・なので、そのようにとらえるのではなく・・・

・・なんてことを思ったことがあったけど、

そのようにとらえた、というそのことを、

あ~そうなんだ、と思える自分に最近なったなぁと思った。

面倒くさい文章だね~

まぁ、それでも、来年は夏風邪をひかないかもしれないし、

まぁ、レッグマジックを手に入れたことでもあるし、

まぁ、なんでも、わからないことではあるし。

そうそう、レッグマジックサークルというものを東京の娘から頂いてきた。

娘は同じマンションの友人に頂いたのだそう。

娘がその人から要らない?と聞かれたと、娘から聞き、

即、もらっといてと頼んだ私なのであった。

その結果、居間の隣の神棚の部屋にそれは平然と居る。

すでにこの部屋に馴染んでいる。

頂いてから熱が出た日以外は毎日それに乗っている。

1日1分なんて新聞広告に載っていたから、その程度を2回くらいしてるけど、

やろうと思えばもっとやれるくらい、努力の要らない健康器具だ。

でも考えると、1日1分の為にこんな大層な道具が要るもんなんだろうか・・

という疑問がどうしても浮かぶ。







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『残酷人生論』

2014-07-05 10:38:53 | 本を読んで
池田晶子さんの「残酷人生論」をまたまた読みなおした。

えらく威勢がいい文章だなぁとまた思ったけど、それが彼女。

いろんなことがストンストンと入ってくる。

彼女の短気さについての彼女の見解について

なんやらあれこれ思った私だったけど、そういう自分を経て、

あれこれ思わない今の自分がある。

それがいい事でも悪い事でもないのはもちろんだけど。

最後の方の「宇宙を絶対受容する」が特に今回入ってきた。以下。

・・・このように感じているこの状態こそ、

おそらく「最終的な」幸福と呼ばれる状態であろうと、私には予想される。

苦しみも喜びもまた努力も、

そのように認められているというそのことにおいて、

じつはいまだに不自由なのである。

「なんでもアリ」ということは、なんでもあり、

なにがどうであろうと構いやしない絶対自由なのだから、

苦しみは別に喜びではなく、喜びがとくに喜びというわけでもない。

善くなるための努力とて、とりたてて努力というほどのことでもないであろう。

幸福とは、要するに、なんでもいのである。

あれ、振出しに戻ってしまった。

けれども、振出しに戻っても、これだけは違うのは、

「なんでもいい」と思っているというまさにこのことであって、

絶対自由とは、別名、絶対受容ということになる。

何がどうであろうと宇宙がそのようであるということを受容しているその状態の幸福は、

宗教的には、「至福」と呼ばれているようである。

禅仏教のクソ坊主は、「大悟」などとヌカして舌を出している。

したがって、大悟して振出しに戻ったそのような人は、

とくに何をも為さないだろう。才能の人は才能を発揮し、

凡庸の人は凡庸を為し、

各々自分の職分と持分において為すべきことを為し、

とくに何を為すということではないだろう。

・・以上。

その通りなのかと思う。

釈迦も山岸さんもこういう状態、こういうスタンス、

こういう境地、こういう立ち位置に在ったからこそ、

自分から何かをしようとはしなかった。

だけど、何かをしようという顕在意識を働かせることのない状態、いわゆる、

常に在るがままで在れたんだろうか・・・

何かをしようとしない、まさにそのことが全人が幸福になるキッカケになる。

そのことが論理的にわかることとそれを実践できるかは別の事。

山岸さんの「自分では行えてありませんが・・」という文章からもそれがわかる。

幅る辱しさを知る。補佐の役。それが身に付くようになるには体験に基づいた実践が要る。

体験しやすい環境ってあるんだろうか・・・

それは一人一人全く違うだろうと思う。

唯一であるその人その人の人生なんだろうと思う。

それぞれの人にとって一番相応しい環境が今ここで営まれているそれぞれの人生なのかと思う。

人生には上に書いたような状態になるために必要なことがちゃんと起こる。

コレコレこういう人生でなきゃ出来ないなんてことはない。


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『永訣の朝』

2014-07-04 16:15:52 | 本を読んで
宮沢賢治の詩集を借りてきてよんだ。

「永訣の朝」という詩…彼の妹さんのトシさんとの別れの日に作ったものらしい。


きょうのうちに

とおくへいってしまうわたくしのいもうとよ

みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ

(あめゆじゅとてちてけんじゃ)

うすあかく・・・


・・・最初の5行です。

なんだろう・・詩集を最初から声に出して読んでいたんだけど、

この詩を読みだしたら急に嗚咽みたいに泣いてしまった。

思ってもみないこういうことに自分でびっくりする。

声を出して読んでいる私に宮沢賢治の魂みたいなのが来ちゃったんだろうか・・と後になって思った。

そして、こんなことを思う私なんだとそれにもびっくりした。


嗚咽しながらずっとよんでるとき、

自分の弟を何故か思う自分になってしまった。

(こうなるともう宮沢賢治の魂は居なくなってるね。)

弟は生きている。

ついこの前、母の一周忌で会った。

それなのにそんなことを思う私なんだと思った。


声を出して読むというのは黙読と違って何かあるのかもしれない。

いつの頃の昔か、忘れたけど、

日本では 本を読む=音読 だったということが書かれた本を読んだことがある。




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最近の義父の様子

2014-07-02 13:55:26 | 日々の暮らし・思い出
何か月か前からか、石垣島に行こうと言っている義父。

その後で必ず「元気だったらな・・」と言う。

一人でご飯を食べられるし、風呂も一人で入る。

毎晩の晩酌も欠かさない。

ゴミ出しも集積場がある浜まで歩いて持って行く。

新聞も読む。本も読む。

・・・けれどそう言う。

確かに最近は急に弱った気はする。

以前と変わったこと・・・食べる量がぐんと減った。

好きな甘いものもそれほど食べなくなった。

長い距離を歩けなくなった。

息が荒いときが増えた。

大の方の失禁をたまにするようになった。

畑に行くのが減った。(暑いからね・・でも・・)

午前も午後もベッドで昼寝して、

いくら寝ても眠れる、と言っている。

寝られなくて辛いよりいいかなと思うけど。

さっき、私が義父の部屋の掃除に行ったら、

自分の机の引き出しから写真をたくさん出して、

「放ったらいいんや」と言う。

別に捨て鉢な様子ではもちろんない。淡々と言う。

30年くらい前から10年くらい前までの写真だった。

亡くなった義母が写っているものや孫が小さな頃のや、赤ちゃん時代のひ孫やらの写真。

なんだかそういうものへの関心がなくなって来ているように感じる。

人はあの世が近くなるとこの世のことがどうでもよくなるんだろうか・・

いや、すぐに義父がどうこうってことじゃないと思う。

去年より、先月より、昨日より、あの世に近づいているのは誰にとってもそうなんだけど、

高齢になると世事に淡泊になるのかなと思う。

高齢なのに頭に世事ばかりというのより、彼みたいなのがいいなぁと思うけど。


何か月か前に、また石垣島に行きたいと

言ってきた義父の気持ちの中身はどんなものなんだろうと聞いたことがあった。

そういうことを聞いても「はぁ・・」と言って笑うのがいつものこと。

石垣が彼にとって竜宮城だったと聞いていたけど、

私が観るところでは6月の石垣は義父にとって暑すぎて、

どういうことが竜宮城だったのか、私にはよくわからないままなんだ。

ほとんどの時間を冷房の効いたホテルの部屋に居て、でもまぁ、

ホテルの大きなお風呂に毎日入ったことをすごくよかったと言っていたことくらいで。

この前、石垣にまた行きたいわけを食い下がって聴いてしまった。

やっぱり、最初は、「はぁ・・」と言いながら笑ってたけど、

食い下がる私を前にしてやっとこう言ったのだった。

「あんたの娘もおるしなぁ・・・」と。

予想もつかない返答にびっくりした。

石垣には夫の娘も孫も居るけど、確かに私の娘や孫も居るには居る。

もしかしてもしかしてもしかして・・・

義父が何処かへ出かけるときは必ず私も一緒だから、

私が娘や孫に会えるようにとの思いもある!?

石垣行きを私にもプレゼントしたいと思っている!???

そう思ってしまった私はなんか、じ~んと来たよ。

実際はわからないことではあるけれど、

お義父さんはそんなふうに思ってくれたのか、と思った。

娘や孫に会いたいとか義父に言ったこともなかったし、

実際、殊更に会いたいという気持ちが意識に上がってくることもない。

会う機会が出来れば、その前には楽しみになるし、

会えば孫を可愛いなぁと思うし、

別れた直後は寂しいなと思うけれど、その時だけのことなんだけど。

でもね、嬉しかった。その気持ちが。

その発言の何日か前に全く別の話でよその親子のことを、

彼が「なんといっても親子やからなぁ」と言うのを聞いた。

彼はいろんなことについての自分の気持ち、見解なんてものをほとんど話さないので、

それを聞いたときは(あ~、そんなふうに思っているのかぁ)

と思ったので鮮明に覚えている。

それがあって、余計そう思った私だった。


写真を出した後、彼は額に入れてある自作の句の用紙を入れ替えると言って、

真っ白なカレンダーの裏に筆ペンで自分の句を書いていた。

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奇跡のりんごスープ物語

2014-07-01 10:25:15 | 本を読んで
う~ん、久しぶりのカテゴリー『本を読んで』だなぁ。

これは「奇跡のりんご」という本で有名な木村秋則さんがらみのお話だった。

とてもよかった。

なんとも素朴な感想だけど、その通り。

「奇跡のりんご」は読みたいなぁ・・と何年も前から思ったことがあるのに、

本屋に行ったり、図書館に行ったりしたその瞬間は

それを思い出さないという有り様で、

今日に至ってしまったもの。

何故だかそういう巡り合わせだった。

この本には奇跡のりんごの木村さんが宇宙人に出会ったり、

この本の著者の山崎隆さんと前世で縁があったとか、

とても素直にそういうことも書かれてあった。

木村さんという人がとても素直なんだ。

勿論情熱的!でもあるけれど。

何もしない農法、農薬なし肥料なしでやろうとして始めたりんご栽培が

やり始めて8年もの間・・・

以下、本文から・・・

「りんごは実らず、収入はゼロ。

サラ金から借金をし、夜はパチンコ、キャバレーで働く。

6年目、自殺を決意。向かった岩木山中で気づく。

その栽培方法とは、


『育てず、手助けするだけ』


畑を自然の状態に近づけ、りんご本来の生命力を引き出す。

そこには人と自然の対話がある。

・・引用以上。


『育てず、手助けするだけ』・・・この言葉の深さ。

りんごも生命。人も生命。地球も生命。


最後の章に「メールにお答えして」というのがあり、そこに、

・・そして、宇宙人の意図するところは、地球をリセットすることだと結論しました。

現代の科学は、めまぐるしく発展を続けています。

しかし、宇宙人の目には、人間がしてはいけないことを

自ら解明している過程と映るのではないでしょうか・・・

という文章がある。

“人間がしてはいけないことを自ら解明してる過程”・・

一番してはいけないこと、それが育てようとして、手助けすることなのではないかと思った。

山岸さんの云う、『幅る辱しさに気付いて、他に譲りたくなる、

独占に耐えられない人間になり合うことだと決定しています。』

これを思い出す。


それとこれだ・・・

「具現方式は何にでも」だ。









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