概念は手でつかめるものではないし、一般に概念を問題にするとき、眼や耳は用をなさないからである。にもかかわらず概念は、前にも述べたように、同時に絶対に具体的なものである。というのは、概念は有および本質を、したがってこれらの二つの領域の富全体を、観念的な統一において自己のうちに
含んでいるからである。・・・概念を単に形式的なものと考えて、内容と形式との対立を主張する態度について言えば、吾々はすでにこのような対立を、反省が固定するその他のあらゆる対立と同じく、弁証法的なものとして、すなわちそれ自身によって克服されたものとして、後にしてしまっているのである。
概念は形式と考えられないこともないが、しかし、その場合はそれはあらゆる豊かな内容を自己のうちに含み、また自己のうちから解放する、無限の、創造的な形式と考えなければならない。――――前に述べたように、論理的理念の諸段階は絶対者の定義と見ることができるのであるが、
そうすると今ここで吾々が見出す絶対者の定義は、絶対者は概念であるという定義である。・・・形式論理学でいう概念と思弁的論理学でいう概念との隔たりがどんなに大きかろうと、もっとよく吟味してみれば、概念という言葉のより深い意味は、一見そう見えるほど一般の用語に縁のないものではない。
吾々はある内容を概念から導き出すという。たとえば、財産にかんする諸法律を財産という概念から導き出すと言い、また逆にそうした内容を概念に還元するという。・・概念の運動はこれに反して発展である。他者への移行は有の領域における弁証法的過程であり、他者への反照は本質の領域における
弁証法的過程である。概念の運動はこれに反して、発展である。発展はすでに潜在していたものを顕在させるにすぎない。自然においては、概念の段階に相当するものは、有機的生命である。かくして例えば、植物は胚から発展する。胚はそのうちにすでに植物全体を含んでいる。