おさしづ
|
|
|
|
現在の所感 [2003.10.20up]
|
おさしづ
|
|
|
|
現在の所感 [2003.10.20up]
|
婦人会創設に関するおさしづ 7
(7)
明治31年10月26日 (4巻3124頁)
『桝井安松身上歯の痛み願』
(411)さあ/\尋ねる事情/\、いかな事情も尋ねにゃ分からん。前々一つ、ようこそ尋ねたなあと諭したる。(412)治まれば身上治まる。(413)古い処の理、(414)一日なりと楽します/\。(415)これ一つ、後は一つ。堪えられんと言うであろう。(416)一時一つ事情、後一つ小人という、だん/\事情、(417)内々の事情であろか、道の事情であろか分からん。尋ねる。(418)分かるように諭す。皆双方の理も分かる。よう聞き分け。(419)長い話に伝え置く。(420)年限の間、それ/\皆んな日々順序の道考え思やんしてみよ。(421)婦人会の理、婦人会を始め掛けた。(422)これはめん/\一つ思えば、一時どうなる。(423)事情の道と言えば楽しみ。(424)身上は楽々と言うて、長らえての道、長らえての苦しみ。(425)未だや/\年限余程身を苦しんで、(426)年限長い間、どうなる知らんと思うた日もある。(427)さしづに基づいて日を送り、(428)楽々と使わして貰うた。(429)日々取次出る中である。(430)又一時掛かる/\、(431)身上に掛かる。(432)さしづに順序、(433)中に何名取次何名中何人(434)この理を取り調べて、(435)心に関心の理を治めにゃならん。(436)この道どういう事から成った。(437)男女隔て無い。(438)一つの台にして始め掛けた。(439)この理がとんと分かり難ない。(440)この道の始めた教祖一代の処は女、後席は男。(441)男女の隔て有るか無いか。(442)この順序の理、(443)日々取り次ぎ、男女の隔て無い。(444)今日入り明日入るような者には、どうせいこうせい言えようまい。(445)道無き理はあろうまい。(446)無理に入ろうと思うても、入れるものでなし、(447)入れようと思うても、入れられるものやない。(448)隔てる理は無きもの。(449)取りよう聞きようの理、(450)又一時の理、又分かり難ない。(451)めん/\さえこうと言えばこう、(452)誰がこうと言う者は無い。(453)よっく聞き分け。(454)心又一つの理が治まらねば、尋ね返やすがよい。(455)ほんにこうとめん/\からこうすれば、皆んな心を寄せてくれる。(456)入って長らくの道と言えば、(457)日々取次の中、(458)こゝらから相談せにゃならん。(459)相談すれば、こう/\言わねばならん。(460)めん/\からこうすれば、(461)それはいかんと言う者はあろまい。(462)上から下を育てにゃならん。(463)一日でも早く入りた者は、(464)育てる理が無くば聞き流し、(465)思い違いなら、(466)育てにゃならん。(467)思い違い/\、(468)これから綺麗な順序聞き取ってくれにゃならん。(469)上の理寄って聞き取ってくれにゃならん。
『押して願、おことの事でありますや』
さあ/\尋ねる処/\、まあ年取れた者/\。そりゃ今一時の処、ならんと言うやない。今替わり/\゛替わり番/\。それはならんとは言わん。休息所々々々、結構々々、当分の一つの当番、当分日々の順序、もう程無う日が移る。どういう役はどういう役。程無う教祖存命順序、楽しみ移って、一つの理、又程無う替わって、一つ楽しんでくれにゃならん。
さあ/\未だ/\順序諭す。書取々々の理、筆に記したる。書取の理清書、こういう理の諭しであった、どういう事やら答が無くばならん。どうも、道理の道が鮮やかならん/\。日々寄り来る中に、取次何人あるか。人数改めてみよ。何人あっても、出て働いて居る者もあろ。順序替わりて働いて居る。そんならすっきり揃うは、年分に何ぼうも無い。大祭と言えば皆揃う。間は用がある中に、よう聞き取ってくれにゃ分からん。日々別席皆んな諭する中に、どういう事諭する者もあれば、こういう事諭する者もある。未だ一時は定めが有って定め無い。日々取次、別席言わにゃならん理言わず、言うわいでもよい事言う。早く取り揃えて一つ順序という。
『教長へ別席の順序願』
さあ/\別席というもの、これ始めた時から理を以て始めた。最初一席三名、だんだん始め掛け。取次三人、書取一人、筆は三人にまで許してある。取次どうもならん。思い/\勝手を言う理がありては、欠けて了う。近い所何程の事がある。遠い所より席と言うて、教一つ楽しんで来る。先々信徒心を揃えて来る。大抵やない。皆んな揃うて来る中に、数えられん。それ/\゛心運んで、連れ戻る理を治めて来る。日々席さして、遠く所を戻りて来る。栄える元という、栄える順序の理、取次から始める。取次、人を改め/\。何人の中に何人ある。席一日遅れる二日遅れる中に一つ思いやらにゃならん。特別何席、十分運ばしてある中に一つの心の理を思いやらにゃならん。区別掛け隔てあってはそも/\という。遠く中を連れ帰りてそもそもでは映し難くい/\。一日に何席するという。成程々々という理が治まる。今日は何する、道の理を諭す。道具に譬えて話す。要るものによって違う。道具を持って居てどうもならしょまい。さしづは台。取りようという、聞きようという。清書して、この理があったと言えば、一々届けにゃならん。めん/\ばかり道理治めるのは、仕難くうてならん。心の理を積み立てゝはどうもならん。年中に席の休む日は、何日あるか。何時でも勤めさしてある。席が無くては満足与えられようまい。余儀無く席が休まにゃならんようになる。
さあ/\こうして話し掛けたら胸に嵌まるで。めん/\合点行くまで尋ね返やし、一時でも、二時でも、神は退かんで/\。
『押して』
さあ/\尋ねる処の理が治まれば諭しよう。取次何人ある。日々楽しんでこそ取次取次。皆そも/\、一日休み、三日になり、鮮やかならん。苦しいからや。何人別席、やしき何人ある。役員の中、やしきの中で今日明日に上ぼって運ばりゃしょうまい。皆々の理ではありゃしょまい。昨日や今日、一つ運ばしょまい。同じ一つの理を以て通れば、同じようにせにゃならん。むさくろしい/\。
一寸話し分かり掛ける/\。取次一条の話、一寸話し分かり掛けた。取次同時同格同様、同格外れて同じ理とは言わさん/\/\。
『押して』
さあ/\分かったか/\。女と言うてならん。女は入れてない。今日から入りて勤まらん者は、同格とは言わん。同格同様の使いである/\。
『押して(女)』
さあ/\道理を以て話し掛けるから道理を諭す。満足という理を知らんか。日々嬉しい満足の理を知らんから、この理分からん。この理が分からねば、何名何人のうち、外れのようなもの。今日は余儀無くどうもならん。余儀無く勤まるか勤まらんか。満足という理分かりたか。分かりたら分かりたと言え。
さあもう一声々々、どういう理を話する。身上から事情尋ねる。こういうさしづあったとて、皆んなそれ/\の中から、何処にどういう理あるまいかも知れん。世界身上から寄せる。楽しみなか/\の理、たゞ一つの何でもなき者なら、尋ねただけの理を諭す。又一つ深き/\の諭する。楽しみ一つの理である、と、順序一つの理をさしづして置く。
「おさしづと婦人会」p43~46(本文1のみ)
明治31年10月26日 (4巻3124頁)
『桝井安松身上歯の痛み願』
(411)さあさあ、尋ねている事がどんなものであれ、尋ねなければ神の理はわからないであろう。前にも、「ようこそ尋ねたなあ」と諭したことがあった。(412)事情が治まれば、身上の方も治まってくる。(413)むかしの事情について理を諭し、(414)たとえ一日でも楽しませよう。(415)これ一つはいいとしても、あと、もう一つの事情がある。それについての悩みは容易ではなく、耐えられないと言うかもしれない。(416)ここでいう一つの事情、つまり、あと一つの事情というのは、子供の事情であって、それが次第に難しくなってきている。
(417)そして、それが内々の事に対する問題なのか、それとも、広く道の上の問題であるのかわからなくなってしまっている。だから、尋ねているのであろう。(418)ここで、それを理解り易いように諭そう。そうすれば、みな、内々のものと、道の上の事と両方にわたる神の理もわかってくるであろう。よく聞きわけるがよい。(419)ちょっと長い話をして伝えておく。(420)これまでの長い年限の間、それぞれがみな、神の理を聞きわけ、手を引かれるようにして、一歩々々と歩いて今日に至った道すがらを考えてみるがよい。
(421)婦人会に対する神の思いを明かし、婦人会をはじめかけたのも、その順序の道の一つである。(422)銘々が、これまでの道すがら一つをとって思案してみれば、一時はどうなるかと思ったこともあったであろう。(423)難渋な事情の中を神の理を見つめて、いさんで通ることは、さきざきの楽しみであり、(424)「身上苦しい中を、道を求めてこそ、楽々のご守護を頂ける」と言って、長い間、苦しみの中を通ってきた。(425)そうして、ずいぶん長い間、「まだよくならない。まだご守護頂けない」などと言って、身上苦しんで通り、(426)「もう、どうなるのか、わからない」と思案に余った日もある。(427)しかし、そうした中も、指図したところに基づいて、日々通ることにより、(428)「あとから思えば、楽々と身上つかわせてもらった」ということになるであろう。
(429)日々取り次ぎに出る中にも、(430)いろいろな事情が出てくる。(431)身上にかかることもある。(432)これまで指図したところに従い、(433)何名か定められている取り次ぎの者がいる中に、(434)こうした身上や事情をもっている者が何人いるかを、(435)きちんと取り調べて、そうすることによって、神の理の取り次ぎという理について、心に銘記することがなくてはならない。
(436)いったい、この道は、どういうことから成ったと思っているのか。(437)そもそも、男女の隔てはないのである。(438)この道は世界一れつ救けたいという神の思いを根本にして始めかけた道なのである。(439)それなのに、お前たちには、そのことが全くわかっていない。(440)この道を始めた教祖一代の間は、当然ながら、女である教祖が連れて通った道であるが、そのあとは、男である本席を通して教え導いた道が続いている。(441)そこに、男とか女とかの隔てがあるかないか、よく考えてみるがよい。(442)このような次第で、道が続いてきているところから思案すれば、(443)日々、取り次ぎをする者についても、決して、男女の隔てなどはない、ということがわかるであろう。
(444)しかし、今日明日に入るような者に対して、直ちに「どうしろ、こうしろ」と言って、させることはできないであろう。(445)自ずから、そのように成ってくるものでなければならないであろう。(446)無理に入ろうと思っても入ることができるものではないし、(447)また、入れようと思っても、入れることができるものではない。(448)しかし、そのことは、決して、隔てるという意味のものではない。(449)ものごとは、受けとり方、聞き方一つで、どのようにもなってしまうもので、(450)今の問題にしても、また、取りよう、聞きようで、わかりにくくなってしまうのである。
(451)こうして、神の指図を尋ねているお前たちが、「こうだ」と言いさえすれば、これで事が決まってしまう。(452)それに対して、他から誰も「こうだ」と言って反対する者はない。(453)だから、神が諭しているところを、しっかり聞きわけてもらいたい。(454)こうして諭している神の理に、まだ得心できないところがあるならば、くり返して尋ねるがよい。(455)「本当にそうだ」と得心し、お前たちが、自ら進んで神の理につくというのならば、みなの者が心を寄せてくれるようになるであろう。(456)入ってから長い年限の道を通ったというのならば、(457)日々、取り次ぎを進める中で、(458)こうしたところから相談していかなければならない。(459)相談すれば、時には、「こうするべきだ」などと言わなければならない。(460)しかし、銘々が進んで事を運ぶようにするならば、(461)それを「いかん」と言う者はないであろう。(462)いずれにしても、上に立つ者から下の立場にある者を育てるのでなければならない。(463)たとえ一日でも早く道に入ったならば、(464)その者は、育てるという心をもつようにならなければならない。そうでなければ、自らも神の理を聞き流し、思いちがいをしてしまうものである。(465)思いちがいをするようなことがあるならば、それを反省して、(466)何よりもまず、他を育てるようにしなければならない。(467)お前たちは、神の思いをまちがって受けとっていることが多い。それではならないのであって、(468)これからは、神が諭すところを、まちがいなく聞きとってくれなければならない。(469)上に立つ者が、寄り合って、しっかり聞きとってくれなければならない。
(以上)
婦人会創設に関するおさしづ 6
(6)
明治31年3月30日 (4巻2934頁)
『前日おさしづの婦人会内の事情に付一同話しの上願』
(364)さあ/\何を聞いて居るのぞ。さしづ裏返して了うたる。(365)さあ/\、詳しい聞かねば分からんで。(366)前々さしづの理にも、男女の隔て無いという理は、重々の理に諭したる。(367)それ/\も聞いて居るやろ。男より未だも治まりて居る人体を、どう取って居るぞ。(368)女でも席をさすとまで言うたる。(369)筆に落ちたのか。心に思い違いしてるのか。(370)さあ今日の日の道具、今日から今日に道具になるか。(371)悪るなったら取り換える道具でも、使え慣れるまで一寸には行こまい。(372)皆同じ道に尽して、(373)一人は遅れ居たか、(374)よう/\席を運ぶようになったやろ。(375)女でも理さえ治まりてあれば、どんな事でも出けるで/\。(376)この道、男だけで、女は世界へ出さんのか。(377)婦人会という、一日の日を以て研究さしてみよ。出けるか出けんかさしてみよ。
『増井りんの事で御座りますや』
(378)口出したら言うて聞かそ。(379)めん/\皆それ/\同じ道の者であって、すっきり言わにゃ分からん。(380)赤衣の中に皆籠りある。(381)赤衣は俺も貰うて居ると言うやろ。(382)前々危なき処、始め掛けた中の赤衣という中に籠りある。(383)違うや違うと言え。
(384)さあ/\外には沢山ある。枝先にも多分あるわい。(385)この中に何も分からん先から楽しんだ。(386)山坂を越えて、遥々運んだ存命の間に、言い交わしあろ。よう聞き分け。(387)何でも未だ分からん/\のやない。(388)心に分かりありても、人間の義理を思うから違うのや。(389)そこで、一寸刻限以て始め掛けた。(390)三名は稽古さし、三名の中その日といえば、控えとした一人があろ。(391)よう思やんしてみよ。(392)飯炊きや、掃除番と同じ理に、日々諭す理と言えるか。(393)さあ何ぼ年限経って長いといえど、(394)前々よりさしづに及んだる。(395)物によって、三尺の道具要るのに、一寸の道具では間に合うまい。(396)道具と言えば同じ一つの名なれど、(397)三尺の道具と一寸の道具と、同じ一つの用に使われるか。(398)一寸は一寸の用、三尺は三尺の用に使わにゃなろまい。(399)このやしき皆それ/\の理によりて伝わりたる。(400)このやしき、あれは何をして居るのやなあと言うても、理は潰されようまい。(401)伝える理によってだん/\日を送る。(402)一戸の内に諭しても分かるやろ。(403)水も同じ事。汲めば飲める。(404)親があって子という。子は何人あれど皆可愛もの。(405)なれど、どんならにゃならんように片付ける。(406)中に出直す者もある。(407)我が子であってまゝにならん。(408)出すにも出せん、切るにも切られん。あんな者は何処へなっとと思えど、(409)真の理は切れるか。(410)この理から取ってみよ。
「おさしづと婦人会」p38~42
明治31年3月30日 (4巻2934頁)
『前日おさしづの婦人会内の事情に付一同話しの上願』
(364)さあさあ、お前たちは何を聞いているのか。まるで神の思いを逆に受け取ってしまっているではないか。(365)神の説くことを、(366)詳しく聞かないことには、正しく理解することはできない。前に諭した指図でも、男女の隔てはないということは、くり返し説いたところである。(367)みなもそれぞれ聞いているであろう。男よりはるかに心の治まっている者がいるが、それをお前たちはどう考えているのか。
(368)神は女でも別席の取り次ぎをさせるとまで言ってある。(369)それを書き落としたのか。それとも思い違いをしているのか。どうなのか。
(370)たとえ、今日使う道具であっても、今日から直ぐに使いよい道具になるかというと、そうはいかない。(371)悪くなれば、すぐに取りかえるような道具であっても、使いなれるまでには日がかかり、簡単にはいかない。
(372)女でも、みなと同じように、道の上に真実を尽くしていながら、(373)一人だけが遅れていたが、(374)ようよう別席の取り次ぎに出るようになったであろう。(375)たとえ、女であっても、神の理が心に治まっていたならば、どのような大切な事でもできるのである。
(376)お前たちは、この道は男だけの道で、女は世界だすけという用事には出さないというのか。(377)このたび婦人会ということを打ち出したが、この機会に、道の理を、よく研究させてみるがよい。できるか、できないか、とにかくやらせてみるがよかろう。
ーーー増井りんの事で御座りますやーーー
(378)お前たちが当人の名を口に出して言うのならば、なおも神の思いを聞かせよう。(379)各人それぞれ、みな同じように、この道を信じて通っている者ではあるが、神の思いをすべて言わないことには、真意がなかなかわからない。(380)その神の思いは、すべて赤衣の中に籠められているのである。(381)赤衣なら私も貰っているという者もあるであろう。(382)しかし、そうした赤衣ではなく、かなり前のこと、迫害や干渉のきびしい中、教祖がはじめて着たその赤衣の中にこそ、籠められているものである。(383)もし、それを違うという者があるならば、はっきりと言うがよい。
(384)さあさあ、赤衣は、ほかにも貰っている者が沢山あるであろう。国々先々の者にも多くいるであろう。(385)こうして、赤衣を貰った者の中に、赤衣に籠められている教祖の思いを聞きわけ、このさき、どうなるか何も分からない前から、この道の行く末を楽しみに通っている者もある。(386)教祖在世の時、山坂を越えて、はるばる「やしき」に運んだ者があったことは、互いに話し合ってもいるであろう。そのことをよく聞きわけなければならない。
(387)それより長い年月が経った今、教祖の教えがいまだに判明らないということはないであろう。(388)心の中では十分に判明っていても、とかく人間の義理を思うために、神の思いと喰い違ってくるのである。(389)そこで今のこの旬に婦人会を始めたのである。
(390)かつて、(明治十年には)三名の者に鳴物の稽古をさせ、三名の中でその日に都合のつかない者も出るであろうからというので、控えとして定めた一人の者があろう。(391)そのことをよく思案をしてもらいたい。(392)ところが、その者たちを飯炊きや、掃除番と同じように扱っていたのでは、日々神が諭している理に添っていると言えるのかどうか。(393)いくら信仰してきた年限が長いといっても、神が諭したことを守らなかったならば何にもならない。(394)そのことは前々から指図してきたところである。
(395)ものによっては三尺の道具が必要であるのに、そこへ一寸の道具をもってきたのでは、まったく役に立つまい。(396)道具と言えば、同じ道具という名であっても、(397)三尺の道具と一寸の道具とでは、同じ一つの仕事に使うことはできない。(398)一寸は一寸の用、三尺のものには三尺の用というように、用向きに応じて道具も使いわけなければならないであろう。
(399)このやしきにいる者は、みなそれぞれ神の思惑があって、今日まで勤めきているのである。(400)このやしきの中にも、あの人はいったい何をしているのであろうか、というような目立たぬ用事をしている者もいるが、それも神の思いからのものであって、その理をないがしろにしてしまうことはできない。
(401)この点を伝えることによって、今日まで通ってきているのである。(402)それは一軒の家の中にたとえて諭してもわかることである。(403)水も同じ事で、汲んでこそ飲むことができる。つまり、神が諭すところも、進んで求めてこそ治まってくるものであるから、よく聞きとるがよい。今話した一軒の家にたとえていうと、(404)親があるからこそ子供がある。子供というものは幾人いようが、親にとってはみな可愛いものである。(405)しかし、たとえ可愛い子供であっても、どうしようもないような子であったならば、そのような扱いをしがちである。(406)中には、親の思いに反して、出直す者もいる。(407)
このように、たとえ我が子であっても、親の思い通りにはならないものである。(408)出すにも出せない、切るにも切ることができないのが親子というものである。あんな者はどこへなりと行ってしまってくれればと思っても、(409)親子の真実の理は決して切れるものではない。(410)この理合いをもとにして、(やしき内にいる者は、たとえ、どんな者であろうと、神の思いがあって勤めているのであることを)よく思案をしてもらいたい。
婦人会創設に関するおさしづ 5
(5)
明治31年3月30日 (4巻2932頁)
『刻限』
(322)さあ/\悠っくり書き取れ。一字も落さんよう、悠っくり諭そう。筆々を揃え/\。(323)さあ/\刻限々々という、どうもこれまで刻限といえど、話出た処が、あちらちょい/\、こちらちょい/\、ほんの角目々々、(324)角目でもよい。(325)角目はそのまゝ。(326)善い事悪い事、(327)理を改めにゃならん。これまで伝えたる。よう聞き分け。(328)人間の心で曲げて了うて、(329)一二年の間はそも/\の道であったやろ。(330)さあよう聞き分け/\。(331)まあ/\一寸、一年二年の間というものは、間に合う者も間に合わぬ者も、さっぱりどうもならん。(332)道の上の理は一寸も無い。(333)よう/\席を運ぶ、話を聞かす。(334)さづけ/\一つの理。(335)これは十分の働き、先々肥とも言う。(336)これは十分の理に受け取って置こう。(337)その外さっぱり聞かすに聞かされん道を通りて来た。(338)今更後向いても橋は無い。橋が無けりゃ渡られようまい。(339)今までというは、どんな者も、惣やつしで連れて通りた。(340)ならん道を通るから、心胆の理を聞かす事出けなんだ。(341)さあこれより残る処は、真実より残らんと諭したる。(342)このやしきの中婦人多分入り込んで居る。皆働かしたる。皆間に合う/\。(343)よう聞き分け。(344)出ける事と出けん事と見分けるは今日の日、(345)そらと言うたらたすけという。(346)たすけ一条から出た道なら道の理は知らにゃならん。
(347)一寸さづけは出してある。(348)なれど、貰た処が、さづけの元が分からん。(349)何をして居るやら分からん。(350)日々取り扱うて居る者は分かりてあろ。(351)さづけという話の理を十分治めたら、一時一つの理はあろ。(352)さづけさえ貰たらそれでよい、というようではならん。(353)先々では、まあ一人でもたすけさして貰たらという。(354)やしきという元という。(355)世界から見て、あゝあんなんかいなあと言うてはどうであろう。(356)そこで婦人会の事情を始めさした。(357)埋もれて居る者、これも心に運ばにゃならん。(358)心の路銀多分集めにゃならん。(359)それ婦人会の台が出けて来た。(360)世界から出て来る。(361)今日は女の人に席を受けた。ほんに分かりよい。あんな人ぢばにありたかと、一つ理を付ける。(362)今日の刻限、度々出る刻限やない。(363)皆だれ切ってあるから、一寸集めに出た。
「おさしづと婦人会」p35~38
明治31年3月30日 (4巻2932頁)
『刻限』
(322)さあさあ、ゆっくりと書き取ってもらいたい。一字も書き落とさないように、ゆっくりと諭そう。だから、書き手を揃えて、書き取ってもらいたい。(323)これまで、刻限の指図をもって、大切な旬々には神の思いを諭してきたが、いくら話しても、その本筋ではなく、あちらを一寸、こちらを一寸というような聞き取り方をしてきたきらいがある。(324)神が諭すことを、たとえ、ほんの角目だけでも心に治めてくれるならばまだよいが、(325)その角目すら聞き流してしまうことがある。そんなことでは、いくら諭してもなんにもならない。(326)大切な角目をそのままにしておいて、自分たちにとって都合のよい事悪い事だけに心をつかっている。(327)それを改めるようにしてくれなければならない。このことは、これまでに度々伝えてきているはずである。だから、この際、よく聞きわけてくれなければならない。(328)神の指図を人間心で勝手に曲げてしまい、(329)そのために、ここ一、二年の間は、皆の心が一つに治まらずに、ばらばらの道であった。(330)そこで、これから諭すことを、よく聞きわけてもらいたい。
(331)秘密訓令が出されてから、ここ一、二年というものは、役に立つ者もそうでない者も、一様に心が動揺して、まったく、どうにもならない有様である。(332)この道を通る者として、当然しなければならない事が、まったく、なされていない。(333)しかし、そうした中でも、やっとの思いで別席をはこぶ者には、神の話を聞かせている。(334)その上でさづけの理も渡している。(335)このようなお前たちの丹精は十分な働きとも言えるし、このさき、豊かな実りを見ることができる肥とも言える。(336)神はそれを十分尽くした理として受けとっておくであろう。
(337)しかし、その外のことについては、まったく人に聞かすに聞かせることのできないような道を通ってきている。(338)けれども、今さら過ぎ去ったことを悔んでみても仕方がない。それはちょうど、後をふりかえっても橋がないのと同じである。橋がなければ引き返すことはできない。(339)今までは、どのような者も、みな抱えて連れて通ってきた。(340)どうにもならないような難渋な道を連れて通るのであるから、心の奥に治めなければならないような、大切な理合いを説き聞かすことができなかった。
(341)しかし、これからの道に残された大切な歩み方としては、真実しかない、ということは前にも諭したところである。
(342)このやしきには多くの婦人が入りこんでいる。みな一生懸命に働いている。みな、よく間に合う者ばかりである。(343)しかし、これから諭すことをよく聞きわけてもらいたい。(344)この道の者であってこそ、はじめてできることと、そのほかの者ではできないことを、しっかり見きわめることが、こんにち最も大切なことであって、(345)それは、何か事があれば直ちに、たすけに掛かることである。(346)もともと、この道は「世界一列たすけたい」という神の思惑から始めた教えである。その道を通る者ならば、当然、そこに籠められている理合いを知っていなければならない。
(347)さづけの理は、その為にこそ授けているのである。(348)ところが、折角さづけを貰いながら、根本の理合いが理解っていない。(349)そのため、さづけを取り次ぐことなく、何をしているのやら、わからない有様である。(350)もちろん、日々取り次いでいる者には、そのことは理解っているであろう。(351)さづけについての話の理を十分心に治めて、たすけの道に進むのならば、直ぐにでも神の理が現れることになる。(352)ただ、さづけだけ貰うたらそれでよいというようなことでは、どうにもならない。
(353)国々先々では「まあせめて一人でも救けさせて頂いたら」と言って、日々を通っている者がいる。(354)世界の元であるやしきにいる者は、なおさら、そうでなければならない。(355)世間から見て、「ああ、あんなんか」と言われるような通り方しかできなかったならば、どうなると思うか。
(356)そこで、婦人会というものを始めさせた。(357)下働きばかりで埋もれている者に対し、心配りをしなければならないのである。(358)心の路銀であるさづけの理がわかっている者をたくさん集めなければならない。(359)そうしてこそ、婦人会の土台ができてきたということになる。
(360)これから、世界中よりこの道を求めて多くの人びとが出てくるであろう。(361)そうした者が、「今日は女の人から別席の話を聞いた。本当にわかりやすい話であった。あんな立派な人がおぢばにおられたのか」と言って、神の理を治めることであろう。
(362)今日、刻限の指図で諭しているようなことは、度々することではない。(363)みなが余りにも弛み切っているから、心を引き締め一つにするために、とくに神が出て話をしたのである。
婦人会創設に関するおさしづ 4-2
【(4)大意 】
「おさしづと婦人会」p24~34
明治31年3月28日 (4巻2925頁)
『前日おさしづにより教長へ御伺い申し上げ、その趣きは婦人会の処何か区域を立てゝ何とか名前付けますものやという願』
(197)さあさあ、これまで尋ね出てきた事について(婦人会のことについて)は、これまで、いろいろと神の思いを諭してあるので、ここで、ちょっと話しかけたならば、あれこれの事について、およその理解はつくであろう。(198)そうして、あれこれ、判明ったところを合わせて思案したならば、どんなことも理解できるであろう。
(199)神は、お前たちが、諭した通りにはこんでくれるのを、今か今かと心待ちにしているが、なかなか、その時がこないで、日はだんだんと遅れてしまっている。だから、お前たちは、「今のままで十分だ」などと思っていてはいけない。
(200)この世人間の元始まりの所がぢばである。(201)そのぢばから世界中に道が延びひろがり、今では国々所々に名称の理がおろされるまでになった。(202)しかし、今日のような道の姿は、決して一度になったのではない。(203)教祖一人から、一つ一つふみ固めて始まった道なのである。(204)これだけ言えば、その先のことは、ことさら言わなくともわかるはずである。
(205)こんにち、国々所々へ道がひろく延びてきているが、その道の最初の頃のことをよく思案してみるがよい。(206)くり返して言うが、この道は決して、一日や二日、また三日といった短い日数で、一度にできた道ではなかろう。(207)それこそ長い年限かけてできたもので、このことを心に治めて、取り組んでくれたならば、(208)一つ実行すれば、一つの与え、(209)二つ通れば二つの恵みがあるという理合いをしっかりと聞きわけるがよい。
(210)今では、国々所々に道が延びていっている。(211)しかし、それも、最初のうちは、まったく、掴み所がないような状態であった。(212)人びとからは、「あれは何を言ってくるのか」「何をしてくるのか」「あんな事をー」と言われてきた。その上また、長い年限かけてできた道なのである。
(213)このように、この道のかかり(註、道をつけ始めたころ、の意)にあっては、あちらから干渉され、取り消されするなど、(214)勝手な振舞いをされてきたのであるが、実はそれも神がさせてきたので、(215)そうした中、年限が経つうちに、この道もだんだん固まり、(216)それに伴って、国々所々でも朧[おぼろ]げにも(註、ぼんやりとでも、の意)、理解されるようになってきたのである。
(217)元という理があればこそ、先にも話したように、あちらから一人、こちらから一人というように、たすけを求めてぢばへ帰ってくるようになったので、今日の道の弘がりは、みなたすけという神の働きによってできたものである。
(218)今日では、あちらにもこちらにも名称の理がおろされ、教会があるというようになっているのである。しかし、それも決して一時にできたものではない。
(219)お前たちも、この道のかかり(註、前出)にみる暗がりの道を通る心でいさえすれば、苦労をしたのも同じこととして受けとろう。(220)その心があるならば、神としても放っておくことはできない。本当に放っておくわけにはいかないのであるが、お前たちは、いつも「この道は、はたして、どうなるであろうか」などと心に思っている。(221)そんな疑念があったのでは、神がいくら諭しても、どうにもならないではないか。(222)人間心は、まったくいらないのである。(223)人間心ですることは、一時は、強くこわれないもののようではあるが、いつまでも、そうした通り方をしていようと言っても、できるものではない。(224)また、神がそうしておいてやろうと思っても置けるものではない。(225)そんなことではどうにもならないことになってしまう。
(226)そうした人間思案では、前々から諭してきている事がらは、まったく解決がつかなくなってしまう。(227)人間心をつかって、だんだんと事を進めようとしている。(228)世界には、道の理を知っている者がいない。(229)だから、それに合わせ、人間は強いものと考えて、人間心で事を運ぼうとしがちであるが、よく考えてみるがよい。(230)しかし、人間というものが、最初どこから始まったのか。それをよく思案しなければならない。(231)それは、紋型もないところから、神によって創められたものである。(232)お前たちは、このことを重い理と思っているのか、あるいは、軽いことと思っているのか。(233)決して軽いことと思ってはならない。元の理は強いものである。(234)そうした上から話しているのであるから、しっかり聞きとってもらいたい。
(235)さあさあ、これから創めようとしている婦人会のことであるが、それはたとえ小さなところからでも、神の守護によって創めるべきものであることを、まず心に置いておかねばならない。(236)神が創めよ、と言い出したのであるが、半年や一年は心ならずもおくれてしまうかもしれない。(237)形が整わないために、世間から認められない時であっても、また、「あれは何であろうか」というような状態であっても、まず、たすけの上で、働いてくれなければならない。
(238)これまで尽くしてきた真実の理が、すっかり埋もれてしまっている。(239)こうして、日々、「ぢば・やしき」と言って、入り込んで勤めていることを、(240)何でもない、ごく当然のことと言っていたのでは、尽くした理を埋めて、何でもないことにしてしまう。(241)そのように、何でもないこととする見方は、ただ人間思案だけで事を運ぶのと同じことではないか。
(242)そこで、何事によらず、皆が、これまで尽くしてきた理があるならば、それ相応の見方をするようにしなければならない。
(243)そのようにして、婦人会を創めよ、と指図した日を期して、(244)取り次ぎの者を見出すようにせよ、と言っておこう。(245)そのように、尽くした真実の理を大切にみるようにするならば、やしきの理に相応しく、本当にきれいな形姿になるであろう。
(246)今、神から取次人として、許されている者は何人あると思っているのか。多くはいないであろう。(247)それぞれ心の容姿を見わけて、それに相応しい扱いをしてもらいたいのである。(248)女だと思っていても、小さな子供の時から苦労の中を通らせきた者がいる。そうした者がこのやしきの中に、多くいるかどうか。それは、指折り数えてみたならば、判明るであろう。(249)また、さづけの理を渡した者も沢山いるであろう。(250)そのさづけの理で、人を救けたことがある者に誰がいるか。
(251)たとえ女であろうと、神の理を「ほんになるほど」と心に治めた者を引き出して同格に扱うならば、もとより、りっぱな働きをすることができる。(252)そうしたならば、人が足りない、というようなことは言わなくともよい。(253)わずかな心づかいで事が足りてくるはずである。
ーーーおつとめに出る鳴物の御方の順序の願ーーー
(254)さあさあ、その点について、これから諭すことをよく聞きわけてもらいたい。(255)はたして、今そのような取り扱いができる状態であるのかどうか。(256)それだけ多くの者がこのやしきで働いているかどうか。(257)そうではあるまい。今日勤めるつとめに、今日からすぐに出ることのできる人数をかぞえてみるがよい。よく調べてみるがよい。(258)鳴物を勤めるについては、(259)はじめ、教祖より、ある者を決めて手ほどきをし、(260)今日までその者たちが、替わりかわりして勤めてきたのである。このことをよく聞きわけるように。
(261)やしきにいるからと言って、誰彼なしに出るというようなことでは、人間心からすることになってしまう。(262)神に尋ね出たならば、やしきの実際に合わせて、神の思いを聞かそう。(263)神のさしづがないのに、鳴物の人数が出ようと言っても、出られるものではない。(264)たとえば、誰彼を出そうと言って、人間心で談じ合ってした場合、どのようなことになったか、よく考えてみるがよい。(265)このやしきにいる者はみな、聞いているであろう。(266)それを、しっかりと胸に治めるがよい。(267)決して、同格の働きをする者を人間心から、表に出さないというようなことがあってはならない。(268)女であろうが、これまで道に尽くしてきた理というものは、神が受けとり、今日まで引き上げてきたが、そうしたすがた(註、有様・様子の意)を通して、「ほんになあ、何事にあっても研究がだいじだ」と感じとってくれなければならない。
(269)このようにして、神の理を究めるならば、それこそが強いものであり、(270)強いものができるのである。(271)そのようにしようと思えばできる者を、そのままにしておいて、(272)「手が足りない、手が足りない」などと言っているのは、神として納得することができない。(273)だから、神はお前たちが「研究を始めたい」と言い出す時を待っていたが、(274)だれ一人として言う者がいない。(275)あらましはわかっている。(276)婦人だから、あらあらでいい。女だから、そのくらいでいい、と言うむきもあるが、そうではない。(277)神は決して男であるから、女であるからといって分けてはいない。(278)その神の心が、お前たちには少しもわかっていない、これではどうにもならないではないか。
(279)できない者にいくら、するように言ってみても、直ぐにはできないであろう。(280)しかし、たとえ、今できなくとも、年限かければ、できるようになるであろう。(281)たとえば、農作物にしても、今日、種を蒔いて今日に実り、収穫することはできない。旬々により芽生え、そして実のである。その理を、よく聞きわけておいてもらいたい。
ーーー押して、鳴物元の御方に習う事ーーー
(282)さあさあ、それは理を尊ぶことが大切である。(283)神の深い思いがあって、決めた者に鳴物を教えたのである。だから、十分にその神意を重んじ、教祖より直接教えを受けた者から習うようにするならば、それに相応しい実をみることができるであろう。
(284)はじめ、教祖が直接教えたことには深い理合いがある。だから、それは、誰でも今日言うて今日できるものではない。(285)この点を心に治めておこなうのならば、神の鮮やかな守護をみることができるであろう。
ーーー押して、この御方と見分ける事ーーー
(286)さあさあ、尋ね出ていることについて、神の思いが少しでも理解できたならば、さらに深くわかるよう努めなければならない。
(287)近ごろ、おぢば帰りする者が増えはじめ、(288)別席を運ぶ者も多くなってきている。(289)そうした者が、「女のお方に別席のお取り次ぎをしていただいた。これまで女の人でも別席の取り次ぎができるとは、まったく知らなかった。心さえ真実定めて道の上に尽くしてきたならば、結構やなあ、という
理を見ることができる。(290)あれは、長年、真実を積み重ねてきたこうのうの理が現れたものであろう。やっと、この道の歩み方がわかってきた」というように得心してもらいたいのである。
(291)また、尋ね出ていることからもう少し諭しておこう。(292)女ではあるが、尽くした真実を見わけて、はっきり表に出すという神の思いは、決して気休めのような安易なものではないのである。(293)教会本部役員という理は、それほど簡単なものではなかろう。(294)しかし、同じように心の治まった者はやしきの内々の者の中にもいるであろう。それは、銘々の胸に思い当たるふしがあるであろう。
ーーー手打ってから又さしづーーー
(295)これからも、このようにして神に尋ね、神が指図をする。(296)神が刻限の話で知らせたならば、それを、しっかり心に治めてくれるがよい。(297)銘々がその指図をしっかり心にとめて通るならば、神の話を疑うことのできないすがたを見せるであろう。(298)この道始まった頃には、神の諭すことがなかなかわからず、そのために、艱難苦労の道を通ってきた。(299)このことは、日々話さないことには容易にわかることではないであろう。(300)このことを、将来のために、よく聞きとってくれなければならない。
(301)あちらからもこちらからも、珍しい不思議な神の守護だと言って寄ってくるであろう。(302)しかし、お前たちの説き方一つによって、その珍しい守護の理を得心させることができるであろう。(303)そのためには、日々、曲がらない、濁りない澄んだ心であることが大切であり、しかも、年限かけてこうのうを積む必要があると指図しておこう。
ーーー又一寸してからーーー
(304)さあさあ、これから諭すことをしっかり書き取っておくがよい。(305)これまで、いろいろと諭してきたので、神の思いが少しは判明ってきたであろう。(306)そこで、「今は誰が留守である。彼がいない」というように、このやしきを留守にすることについて、ちょっと話をしておきたい。
(307)神が指図をする場合、三名、五名の者がその諭した理のあらましを聞きわけ、心一つに合った書き取りがなされたならば、何も小言をはさむ余地はない。(308)また、問題はないはずである。そうして書き取ったものがあるのだから、「私は聞いていないー」というようなことは、言えないであろう。(309)また、神の指図を書き取ったものについて、「おれはこう思う」「いやこのように考える」というような、心が合わないというようなことがあってはならない。(310)得心がいかない者に対しては、よく理を説き聞かせてやるがよい。そのまま放っておくようなことがあってはならない。
(311)多くの者がいる中、みな寄り合っている中に、わからないところがあれば、よく諭してやらなければならない。(312)諭し合いこそ、兄弟姉妹としての心配りである。(313)それをしないで、みな心に、神の指図が治まっていないというようなことがあるならば、「綺麗なやしき」「鏡やしき」などとは言えなくなってしまう。(314)そんなことでは、「濁りやしき」としか言えない。(315)もし、そんなことにでもなれば、何もかもが成り立たなくなってしまう。(316)頭の回りが鈍く、わかりの鈍い者があるならば、なお一層可愛がり、心を配ってやってもらいたい。
(317)これだけ諭したならば、神の思いは十分得心がいくことであろう。(318)下積みになっている者ほど大切にしていかなければならない。(319)ちょうど、道具でも、使う時まで紙に包んで仕舞いこんであるものもあるし、(320)また、だいじにしまっておくことなく放っておいても、ある日、直ぐに出して使うものもある。(321)このことを特に、話しておく。
婦人会創設に関するおさしづ 4-1
(4)
明治31年3月28日 (4巻2925頁)
『前日おさしづにより教長へ御伺い申し上げ、その趣きは婦人会の処何か区域を立てゝ何とか名前付けますものやという願』
(197)さあ/\尋ねる処、尋ねるまでの事情/\、さあ/\まあ一寸話し掛けたら、あちらも一寸分かる、こちらも一寸分かる。(198)分かり/\の理寄せたら、どんな事も分かる。(199)これまで何ぼ待った処が、もうであろか/\、待てどもどうでも、もうその日その日と思えども遅れ、これで十分と思て居たらならん。(200)この元ぢばという、(201)世界世界所々始め、(202)何も一度で始めたんでない。(203)一人から一つ/\始め。(204)先は言わいでも理が分かりある。(205)所々と言うてこの道掛かり、よう思うてみよ。(206)一日二日、又三日という。一度で出けたものであろまい。(207)年限で出けたもの、これから(208)一つ組んだら一つあたゑ、(209)二つ組んだら二つあたゑ、この理聞き分け。(210)国々所々と言う。(211)掛かりはふわ/\としたもの。(212)あら何言うて来る、何をして来ると言う、あんな事と言う。なれど、又年限で出けたもの。(213)最初あちらから取り払われ、(214)思わく通りさして置き、(215)それより年限の固まりから、(216)所々成程一寸あら/\分かりたな。(217)皆神がする。元という、前一つ、あちらから一人事情、こちらから一人事情、たすけ/\という、皆たすけ一つの理から出たものである。(218)あちらでもこちらでも、所々名称という、教会という/\。一時に出けたものやない。(219)元暗がり/\から通りて居れば、苦労したのも同じ事。(220)これから見れば放って置けん、ほんに放っておけん、どうであるかと心にある。(221)幾度諭した処がどうもならん。(222)人間の心要らん/\。(223)人間心でする事は、一時は強いものなれども、居ようと言うても居られるものやない。(224)置こうと思ても置かりゃせん。(225)どうもならん。(226)前々事情というはどうもならん。(227)人間心を以てだん/\運ぶ。(228)世界には知らん。(229)人間強いもの、(230)最初初め何処から始まったか。(231)元紋型無き時から付けた理、(232)重い理と言うか軽い理と言うか。(233)軽いと思てはならん。理は強いもの。(234)これから話し掛ける。しっかり聞き取れ/\。
(235)さあ/\始め掛けたる処、婦人会という。一寸これも、一寸から初め守護から出したもの。(236)言い掛けた処が、半年一年はつい遅れるや分からん。(237)そこで知らん間、世界何やらという処からたすけ始め。(238)これまで尽した処の理すっきり埋もれてある。(239)こうしてぢばと言うて入り込んで来る処、(240)日送り事情、何ともないと言うは何でもない。(241)何でもないというは、人間心で来たも同じ事。(242)皆これまで尽した理は、それだけ見てやらにゃならん。(243)その日、(244)神の取次々々それから見出せ。(245)ほんに/\これというは綺麗なもの。(246)神よりさしづした者何人ある。(247)心という理調べ。(248)女という子供幼少の時から、苦労通したは中に数々有るか無いか。指を繰りて数えてみたら分かる。(249)さづけ渡した者も沢山ある。(250)なれど、誰が救けた理あるか。これから聞き分け。(251)女でありたけれど、ほんにと治めたら、同格すれば出ける。(252)人が足らん人が足らんと言う事要らせん。(253)僅かの処から事が足って来る。
『おつとめに出る鳴物の御方の順序の願』
(254)さあ/\これよう聞き分けにゃならん。(255)一時以てそれ/\取り扱い出来るか。(256)それだけ働いてる。(257)今日のつとめ今日より頭数えてみよ。調べてみよ。(258)こうして始め掛けたは、(259)初め手を付けて、(260)間替わり/\、よう聞き分け。(261)皆中に誰彼無しに出るというは、人間心からする事。(262)神に尋ねたら実際してかす。(263)それより人数出ようと言うて出られん。(264)誰彼と言うて、人間心談じてした事、どういう事に成りたるか。(265)このやしき中に聞いて居る、(266)胸に畳み込み、(267)同格々々の者、人間心で埋んで居てはならん。(268)女であれど、尽した理は、これは神の守りから、これから上れたが、ほんになあ万事研究という。(269)これからすれば強いもの。(270)強いもの出来る。(271)出来る者放って置いて、(272)手が足らん/\と言うは分からん。(273)そこで旬を見て居るなれど、(274)何とも言う者無い/\。(275)あら/\分かり、(276)あら/\婦人や、女や、よう聞き分け。(277)男女分けてない。(278)一寸々々心知らん/\。どうもならん。(279)出けん者言うた処が出けん。(280)なれど、年限で出けるようになる。(281)今日種を蒔いて今日に出けん。旬を見て生える。又実が出ける。これ聞き分け。
『押して、鳴物元の御方に習う事』
(282)さあ/\理を尊べ。(283)十分々々何ぼでも尊べばこうのうがある/\。(284)その理は今日に言うて出けようまい。(285)この心持ってあれば、こうのう理現われる。
『押して、この御方と見分ける事』
(286)さあ/\尋ねる処/\、分かり掛けたら分からにゃならん。(287)この所おぢば始め、(288)席の処多分ある。(289)女のお方に、一寸席して貰た/\。これまでこういう事とは、よう知らなんだ。心さえ定めて尽したら、結構やなあと、(290)あら積み重ねたこうのうという。この道よう/\見え掛けたという/\。
(291)又尋ね掛けた。(292)女であれど、公然思うての気休みの理と言えん。(293)教会本部役員という理は、これは一寸なろうまい/\。(294)なれど、同様の心は内々の心にある。めんめんの胸にあろう。
『手打ってから又さしづ』
(295)これから/\、こうして尋ね掛けて、尋ね掛ける言い掛ける。(296)刻限知らしたら、めん/\心に持てば、(297)神の話疑われん/\。(298)初め一寸にゃ分からん処から艱難、艱難苦労の道通り、(299)日々申さんと分からん。(300)これ将来に聞き取ってくれにゃならん。(301)あちらからこちらから、珍しや/\と言う。(302)なれど、説きようの理で分かる。(303)日々の心の曲がらん濁らん澄んだ心という処、年限のこうのうという理をさしづして置こう。
『又一寸してから』
(304)さあ/\筆を取れ/\。(305)さあ/\まあ/\、一寸話し掛けたら一寸分かり掛けた。(306)さあ誰は留守や彼は留守や。これ一寸話したい。(307)これ三名五名あら/\理、心合わせさしづ取る限りは小言無い。(308)又小言無いもの。おら聞かずという理は無い。(309)さしづ取りておらどうやこうや、そんな事ではならん。(310)いかん者には聞かしてやれ。黙って居てはならん。(311)皆んな居る中に、寄り合うてる中に、分からん処諭してやらにゃならん。(312)諭し合いは兄弟という。(313)綺麗なやしき、鏡やしきとは言わん。(314)濁りやしきはっちゃ言わん。(315)そんな理から成らんようになる。(316)鈍な者は尚、可愛がりてやれ/\。(317)これだけ諭したら分かるやろ。(318)下程大切にせにゃならん。(319)道具というは、使うて歩く日まで紙に包んで納して置いて、又使うものもあれば、(320)放って置いても翌る日出して使う道具もある。(321)これだけ一寸神が話して置く。
婦人会創設に関するおさしづ 3
(3)
明治31年3月27日 (4巻2923頁)
『永尾よしゑ身上願』
(124)さあ/\尋ね掛ける処、身上尋ね掛ける。身上こういう事どういう事、身上障り彼処に障り出掛けたる。皆出る尋ねる。まあ一時どういう事が出る、こういう事が出る。どうでもこうでも、身上から事情尋ねば、事情身上案じあろまい。又案じてはならん。身上尋ねる。事情身上に尋ねるに、よう聞き分けにゃなあらん。(125)何でもなき処、辺所遠く所、これ尋ねば尋ねる。(126)一つさしづ、(127)又一つ年限から一つ諭し掛ける。(128)万事の処、さしづ/\を突き合わせ、(129)さしづを以て丸めて了うて、反故同様にしてはどうもならん。(130)さしづありて、さしづ丸めて了うような事なら、さしづは要らんもの。(131)好きさしづだけこうと言うと用い、ならんさしづはそのまゝという。それではさしづ取って理と言うか。よう聞き分け。(132)どんな用あろうがあろまいが、手が抜かれんと言おうが、運ばにゃならん。(133)身上から諭したる。万事掛かるやろ。(134)身上切なみの処からさしづ出たもの。身上が変わらず、さしづ運ばにゃならん。(135)いついつにも聞かんではあろまい。いつ/\皆さしづあるのや。(136)なれど、取りようでどうもならん。(137)どうしょうこうしょう日々遅れ来たる。(138)時々理以て諭す。(139)なれど、一時諭しありたと、(140)さしづ取り掛けた。(141)取り掛けたら、これから朝あるとも夜あるとも分からん。(142)又刻限知らさんならん。(143)これまで諭そと思えども、一つも取れん。(144)日日運び方、いつまで放って置いてもそのまゝという。(145)いつまでも放って置いては、衰えるという。(146)これ一つ聞き分けにゃならん。(147)そこで、めん/\年限数えて、(148)世界見れば、(149)今一時の理でない。(150)前々運びから成りたる。(151)これから一時さしづ/\、(152)皆突き合わせ、(153)分からねばこういう処、(154)こういう悟り付いたが、(155)こういう処分からん。これはどうであろと、(156)尋ね返やして、(157)内々の処事情にて、どうでさしづありた。(158)身上の障りから、どういう処から掛かる、(159)皆運ばにゃならん。(160)事情はだん/\諭したい。(161)又夜々に諭したい。(162)なれど、筆取、取れる者あれば取れん者もある。(163)そこで伝える事出けん。(164)中にはおら聞いて居る、(165)おら聞かんというような事では、(166)三才の童児に相手になりてるも同じ事、(167)これから朝に一つ諭すやら、夜分に諭すやら分からん。(168)刻限さしづ、(169)その日から一日に持って、(170)これでこそほんにそうでありたかと、(171)改めて運ばにゃならん。(172)好き事だけ集め、(173)外の事はそのまゝ。(174)これでは勝手の理とはっちゃ言う理は無い。(175)勝手の理なら、(176)めん/\好いたようにするがよい。
『身上押して』
(177)尋ねる事情、身上は案じる事要らん。よう聞き分け。(178)何なりと/\、一つ事情無くば尋ねやせん。(179)尋ねるから諭す。(180)どうもならん。(181)刻限出る。(182)仕様が無い。(183)今日のさしづ、(184)古きさしづはどうしたやら分からんやろ。(185)そこで新しさしづ突き合わせ、(186)何したんやというような事埋もれてある。(187)前日諭したる。婦人会と言うて諭したる。(188)一時心という理分けて、(189)ほんにこうせにゃならんと、(190)男女言わん。男女区別無い。(191)気に合う者も合わさにゃならん。(192)間に合わん者は、辺所たる処で理が発しん。(193)不作なようなもの。(194)種がある。(195)めん/\それ/\、(196)日々取り次いで居れば同体の種である。
「おさしづと婦人会」p18~23
明治31年3月27日 (4巻2923頁)
『永尾よしゑ身上願』【大意】
(124)さあさあ、お前たちが尋ね出ているのは、身上障りについての神の思惑についてであろう。あちらこちらに身上障りがあらわれると、誰しもその神意を尋ね出るようになる。今の身上障りに際して、この上、更にどういう事が起こるか、こんな事があらわれてくるのではないか、などと案じる。こんな状態の中で、「何としてでも」と身上をきっかけに、そこに籠められた神意を尋ねることになる。それに対して、これから諭すことをしっかり心に治めてくれれば、身上障りは何も心配することはいらない。また、いたずらに人間思案であれこれ心配するようなことがあってはならない。身上障りについて尋ねているが、こうして尋ねている限り、それに対して神が諭すところを、よく聞きわけなければならない。
(125)たとえ特別な事がなくても、遠く離れた辺ぴなところから帰ってくる。そんな場合にも、尋ねることがあれば、尋ねるがよい。そうしたならば、指図をしよう。(126)その指図は、(127)その者が通ってきた年限に相応しく諭すことにならう。(128)だから、すべての事について神の指図を照らし合わせ、誤りなく心に治めてくれなければならない。(129)そうすることなく、その指図を書き取ったものを丸めてしまい、反故同様に扱うようなことがあってはならない。(130)せっかく指図しても、それを丸めて捨ててしまうようなことをしていたのでは、指図を願うというようなことはいらないではないか。(131)自分たちにとって都合のよい指図だけは、「神がこう言われた」と言って用い、都合の悪い指図はそのまま聞き流してしまう。そんなことで、指図を聞いた者のあり方と言えるか。この点をよく聞きわけなければならない。
(132)たとえ、どのような用事があろうが、なかろうが、あるいは、どんなに手が放せないほど忙しかろうが、指図を受けたならば、どうでも、その神の思いに添うように通ってくれなければならない。(133)このことを、このたびの身上から諭しているのであるが、それは、何事にも当てはまることであろう。(134)今は、身上苦しいところから尋ね出て指図があったのであるから、なおさらのことである。そうでなければ、身上障りは決してよくはならないであろう。どうでも指図した通り、はこんでくれなければならない。
(135)こうした神の思いは、今までにも聞かなかったということはないであろう。たびたび聞いている筈である。いつの指図においても諭してある筈である。(136)ところが、いくら指図をしても、その受け取り方で何にもならないということにもなる。(137)いたずらに人間思案で、どうしようかこうしようかと思い迷って、神の理に添うことが日に日に遅れてきているのである。(138)それではならないから、折にふれ事に当たり、神の思いを諭しているのである。 (139)けれども、お前たちが、今こういう諭しがあったと言って、(140)指図を心に治めるのならば、これから、神はいろいろに指図をするであろう。(141)それは朝指図があるか夜にするかわからない。(142)また、だいじな時旬も知らさなければならないと思う。(143)ところが、これまで神の思いを諭そうと思っているのであるが、お前たちは一向にそれを受け取っていないではないか。(144)日々の尽くし方、はこび方に対するせっかくの神の指図を放っておいても、少しも気にかかるところがない。(145)いつまでも、神の諭しを顧みず放っておいたのでは、それがだんだん意味がなくなっていくではないか。(146)このことをよく聞きわけてくれなければならない。
(147)それぞれ、よく、この道創まってからの年限を数えてみるがよい。(148)この道も、今や世界にかなり広がっている。(149)そうなったのも、今一時になったものではない。(150)前々から神の指図通りにはこんできたからこそ、今日の形姿になったのである。(151)これからも、その時その時に指図をするが、(152)それを互いに照らし合わせ、(153)判明らないところは談じ合い、(154)「ここは、こう悟ればよいと思うが」(155)「ここは、どう考えてもわからない」というように話し合ってもらいたいのである。(156)そして、どうしても悟りがつかないというところは、再び神に尋ね返して、(157)「内々のこういう事情に対して、こういう指図があった」(158)また、「身上さわりに対してはこういう指図があった、だから(事を解決するためには)どういうところから掛からなければならないか」(159)という神意を明らかにして、事をはこんでくれなければならない。
(160)今この際、どのように通るべきかについて、神はだんだんと諭してやりたいと思う。(161)毎夜でも諭してやりたいと思うのである。(162)しかし、筆取の中には、十分に書き取れる者もあれば、書き取れない者もある。(163)そのために、神の思いを伝えることができない場合も出てくる。(164)その結果、「私は聞いている」(165)「私は聞いていない」というようなことになったのでは、(166)三歳の子供を相手に話をしているようなものである。
(167)今後は、朝に出て諭すやら、夜に出て諭すやらわからない。(168)神がどうでも指図をしなければならないと思えば、なんどき刻限の指図をするかしれない。(169)その刻限の指図のあったその日から、神意を心におさめて、(170)「このように通ってこそ、神の理に添うことになるのか」(171)と心にしっかりとおさめて、通ってくれなければならない。(172)自分にとって都合のよい事だけを取り上げ、(173)そうでない事は、そのまま聞き流してしまうようなことがこれまでにもあったが、それではいけない。(174)そんなことでは勝手の理というよりほかはない。(175)あくまでも勝手気ままに通ればよい、(176)と思うのであったら、それぞれ好きなようにするがよい。
ーーー身上押してーーー
(177)尋ね出ている身上障りについては、何も心配することはいらない。それには、今諭していることを、よく聞きわけてもらいたい。(178)とかく、何か問題がないと、なかなか神の思いを尋ねようとはしない。(179)何かあると尋ね出る。尋ねるから諭すことができる。
(180)しかし、いつまでも、何かがないと尋ねない、というようなことではどうにもならない。(181)だから、これからは、刻限話によって諭そう。(182)とにかく、今のような状態ではどうにもならないのである。
(183)今日諭している指図にしても、何も事新しいことではない。前々から諭してもある。(184)しかし、以前に諭したことは、どうしたのやらわからない状態になっているであろう。(185)そこで、事改めて身上を台として指図をしたのである。この新しい指図を、以前の指図とよく照らし合わせて思案してもらいたい。(186)そうすれば、神の指図に基づいて何をしたかということが、埋もれて判明らなくなっていることに気がつくであろう。
(187)前日(26日)にも諭した。婦人会を創めよと言って諭したではないか。(188)この際、心を改めて、(189)「本当にこうしなければならない」と、しっかり心におさめて通ってもらいたい。(190)もちろん、このことには、男女の区別については何も言わない。男女の区別は全くないのである。(191)お前たちの間で、気が合う者であろうと、なかろうと、ともかく合わせていかなければならない。そのようにして、勤めてもらいたいのである。(192)ところが、それができず、間に合わない者は、辺ぴな所で、まさかの時に理が効かないことになってしまう。(193)それはちょうど十分の実りを見ることのできない、不作と同じこと。(194)何事にも、実りを得るためには、それなりの種子がある。(195)だから、銘々がそれぞれに、神の理を心に治め、(196)日々しっかり取り次いでいるならば、同じ理のはたらきを見る種子となるのである。
婦人会創設に関するおさしづ 2
(2)
明治31年3月26日 (4巻2916頁)
『前日増野いとのおさしづより、婦人会の事に付おさしづありしにより、以後の道筋心得事情申し立て願』
(25)さあ/\尋ね掛ける処/\、これまでというものはどうもならん。(26)教は一つ理でありて、諭し一つ事情、これまで決まり有りて決まり無い。幾度も事情に差し詰まる理出ける。これまで何度諭したる。(27)又刻限にも諭したる。取りよう聞きようで分かり難ない。応法と言うて居て、心胆諭す理に無い。(28)元は元だけのこう無くばなろうまい。長らくそら尽して居る。尽して居りゃこそ、世界台となりて居る。(29)中に間違いどうもならん。何ぼう言うても心に間違えばどうもなろうまい。成りてからどうもならん。(30)そこで刻限というこの理諭したる。取り締まったる今日の日、これ聞き分けて万事先々いつ/\までも諭さにゃならん。(31)この道前生から今の世、又生まれ更わりまで諭す理である。すれば、元々始めたぢばという。皆んな治めにゃならん。めん/\だけ治めて居ればよいというような事ではならん。これは皆んな心に無いという。心が感じにゃなろうまい。(32)男女の隔て無く、一時に心澄み切りて通れば、男女の区別は無い。何名何人、こらどうもならん。(33)道具に譬えて話する。粗い事するものもあれば、細かい事するものもある。又中程するものもある。この道理分からねばどうもならん。よう聞き分け。(34)道急ぐ。早く事情、遠い所から寄り集まる処、ほこりという。めん/\さえ無くばよいではどうもならん。(35)これから話、男女の隔て無い。よう始めた道聞き分け。この道始めたは男か女か。これから悟ればどんな事も分かる。皆一つという。そらそうはいかん。(36)道具に譬えての話、細かいという、又中程という、又粗いという。彼はどうせいこうせい、一時伝えてないから分からん。(37)諭す事情これまでの事、もう/\始めるか始まらんか、もう出すか出さんか、思い/\日が経つ。(38)ほんのあらまし誰と彼とこうや、彼と誰とこうや。人間心の理である。これを聞き分け。(39)人間心は何程どうやこうや、今日までどうするとこうすると見許したる。見許したる処から話し掛ける。(40)最初掛かり、今日の日最初、(41)中程この理ちょい/\すれど、取り集めた事はない。これ聞き分け。(42)入り込み大切々々教の台とする。(43)不当の扱いは台と出けん。(44)そんなら不当せんと言う。(45)純粋通りてという中に、これも/\放ったる。どれも放ったる。めん/\肝心の理から分かりあろう。(46)年限の内には粗い細かい中程と言うて諭したる。(47)細かいはどういうもの、中程どういうもの、又粗いというはどういうもの、銘々事情に理持って、世界諭して居る。(48)中程というは、あちらもこちらも繰り上げ、皆伝えて理運び掛けたる。なれど、運び落ちある。(49)そこで、婦人会の台から、(50)又話々、(51)いつ/\待って居た処がならん。(52)心に浮かまん。(53)これ初め望む処、(54)この中三つ事情、(55)男の中にどんな理もある。女の中にどんな理もある。これ聞き分け。忘れ落ちありてはならん。(56)婦人会たすけ一条の道、(57)通りた道、万事見分けたら、感じは皆んなの心に湧くであろ。
『暫くして』
(58)さあ/\分かりありたらそら宜し。(59)分からんというは尋ね返やし、(60)分かる分からんの理から尋ねば、早く分かる。(61)又、見遁し/\、(62)又今度の回りと言うは、(63)何度でも同じ事、(64)くどう/\の話、何ぼうしたとて何もならせん。
『押して、元々艱難した者婦人会の中に古い者洩れ落ち有るか無いかという処話する処へ』
(65)さあ/\誰が洩れ落ち、彼が洩れ落ちは言うまで。(66)又他には言うまで。(67)このやしきの中暮らす中、出入りという。(68)道具は言うまで。(69)あちら働きこちら働き、理は一つなれど、(70)研究寄りたる中に、(71)どうか鮮やか明らか、(72)ほんに成程と、皆心に感じるであろう。
『又暫くして』
(73)何人幾人、男何人、幾人女、皆ある中聞き分け。(74)男の中にも下に居る、又中程にいるなれど、(75)女というは、下に埋れ/\てある(76)中に、(77)成程という処分かるやろ。
『又続いて』
(78)さあ話して置く。(79)とんと分からん。皆とんと忘れて了てる。忘れて居るから分からん。(80)皆下々と言うて下に働く。(81)今日は煮炊き事情、掃除場、(82)上も下も一つに成りたら、(83)中に同等の者もある。
『又続いて』
(84)それ研究と言うたるで/\。(85)どうもならん。(86)飯炊き掃除場から、(87)世上に繋ぎ、(88)飯炊き掃除場から、(89)互い/\まで尽して通りて、(90)これ一つ聞き難い、見難い。
『又暫くして』
(91)さあ/\まあ悠っくり話する。(92)とっくり見分け/\、とっくり聞き分け。(93)つとめ事情、鳴物事情/\掛かりという。鳴物掛かりという。何年数えて年を見よ。(94)先の学びから始め。(95)三人々々又控え、一人掛け替い、(96)赤衣一つ着せて始め掛け。(97)そういう処から聞き分けてみよ。(98)これもそうかえ、あれもそうかえ。話してない。(99)それから聞き分け。聞き分けたら成程分かるやろ。
『又暫くして』
(100)さあどうもならん。理が分からねばどうもならん。(101)よう聞き分け/\。(102)最初学び始めの日あろ。(103)赤衣着せて出た事ある。(104)ほんにそうか/\と分かる。
『上田ナライトの事でありますや』
(105)さあ/\これ/\/\分からん分からん。(106)もうどうでもこれから、(107)これで措いたら何も分からん。(108)元赤衣着せて学び三人、控え一人四人出したる。(109)この台日々の処、(110)結構中、(111)道の中にどうもならん。(112)同じ一つの飯炊き掃除には、(113)隔て無きと言うたる。(114)どうせいこうせい、幾度のさしづに諭したる事はないならこそ、(115)今に分からんのである。
『押して、おこと、おいゑの事でありますや』
(116)違う/\ころりと違う。(117)赤衣頂いた者やない。(118)赤衣着せた者、(119)人衆々々学びしたる/\。
『永尾よしゑなどの事でありますやろと話するうちに』
(120)分かりた/\、(121)道の理/\、分かりた/\。
『一寸してから』
(122)もうそれ分かりたら後々分かる。(123)さあ/\引き取ろ/\。
「おさしづと婦人会」p7~18
明治31年3月26日 (4巻2916頁)
『前日増野いとのおさしづより、婦人会の事に付おさしづありしにより、以後の道筋心得事情申し立て願』【大意】
(25)さあさあ、尋ね出ている事柄について諭そう。これまでというものは、この道の通り方について、神の思いを諭してきたが、それにもかかわらず、なかなか神の思うようには通ってくれなかった。
(26)この道の教えというものは、もとより神の理一つから成り立っているものであって、それに基づいて、いろいろの事柄に対する諭しもされているのである。ところが、今までは、そのようにすべての基となる、はっきりした決まりがありながら、それに基づいて事をはこぶことが、ややもすると、疎かにされていたのである。だから、これまで、いろんな事情が起こり、何度も行き詰まらなければならないようなことがあった。
(27)そのような事情が起こるたびに、幾度となく神の思いを諭してきた。またその上、旬々には刻限のさしづでも諭してきたのである。しかし、いくら諭しても、その受け取り方に人間思案を混ぜるから、肝心なところを悟ることができない。ややもすると、「世間に合わせなければー」と言っていて、心の底から神が諭すことを治めることができないでいる。
(28)この世の元であるぢばに勤めている者としては、それに相応しい心の治め方がなければならない。お前たちは、もちろん今日まで長らく道の上で勤めている。勤めておればこそ、世界たすけの台となることもできるのである。
(29)ところが、いくら長く勤めていても、神の思いに添わないような通り方があったのでは、どうにもならない。いくら神がたすけ一条の上から、いろいろと説き諭しても、お前たちが悟り違いをするというようなことがあれば、まったく意味のないことになってしまう。そんなことになってしまってから、いくらあわてても、どうにもならない。
(30)だからこそ、今まで旬々には、神の思惑を諭してきたのである。そして、特に今日という日を決めて諭しているのも、このためなのである。だから、こうして諭しているところをよく心に治めて、これからは、常にこのことを台として諭してくれなければならない。
(31)この道の教えは、前生のことから今世のことにまで及び、更にまた、生まれ更わりという将来のことまで諭す教えなのである。だから、ここが、この世の元であるぢばなのであり、そのやしきにいる者としては、皆しっかりと心に治めておかなければならない。そして、自分たちだけが心に治めていればよいというようなことではない。世間の多くの人びとにこれを諭していかなければならない。それなのに、人びとに諭し、人びとを救けるという心が皆の者にないというのが問題である。これではいけないので、この「ぢば・やしき」にいる者として、銘々に与えられた勤めを自覚しなければならない。
(32)もともと、こうした勤めの実行には、男、女の別というものはなく、すぐにでも神の理を聞きわけて、澄みきった心をもって通ったならば、男、女の隔てなくその勤めを全うすることができる。しかし、それを何人いても、皆同じことをすると考えるべきではないのであって、この点を、道具のたとえをもって話しておこう。
(33)たとえて言えば、一口に道具といっても、粗いことに使う道具もあれば、細かいことをする道具、また中ほどのことをする道具もある。それと同じように、その人の持場立場により違いがあるという道理を納得してくれなければならない。このことをよく聞きわけてもらいたい。
(34)神はこの道を早く世界につけるのを急いでいる。早く、そうしなければならないと、神が引き寄せて、どんな遠方からも皆このぢばに集まってきているのであるから、ほこりを立てるようなことがあってはならない。とかく、銘々自分の心にさえほこりがなかったならば、それでよいと思いがちであるが、そのようなことではどうにもならないので、世界のすべての人びとにもこのことを諭してやってくれなければならないのである。
(35)これからする話は男、女にかかわらず、よく聞きわけてもらいたい。この道を創められた経緯をしっかりと聞きわけてもらいたい。この道を創めた教祖が、男であったか女であったか考えてみるがよい。これから悟れば、当然わかることである。もちろん、隔てはないと言っても、それは全く同じということではない。区別がないということではない。
(36)前に道具にたとえて話をした通り、細かいことをする道具、中ほどのことをする道具、粗いことに使う道具というように、それぞれ道具という点では区別はないが、その使われる道によって異なるのである。つまり、その持場立場の違いというものがあるのである。その道具の理をよくわきまえて、彼はどうしろ、こうしろと言うべきであるのに、今のところ、それを皆に伝えていないから、自分の使命を自覚することができないのである。
(37)お前たちが神の思いを皆に諭してくれることを、神は「もう始めるであろうか」と、今か今かと待っていたが、そう思いながら今日まで日が経ってしまった。(38)お前たちは、だいたいの見当で、誰と彼とは「こうしてもらおう、ああしてもらおう」と役目の割ふりをしている。しかし、それは人間心でしていることである。このことを、よく聞きわけることが大切である。(39)人間心で、いくら「どうやこうや」と言ってみたところで、所詮は、神の思惑に添いきることはできないであろう。
今日までは、とかく人間心で、「どうするこうする」といって事を進めてきたきらいがあった、神はそれを見許してきた。こうして今までは見許してきたけれども、もう今日は、そのことについて神の思惑をはっきり諭そうと思う。(40)この道はじまった最初に思いをかえし、「今日の日が最初」というように、心を新たにして聞きわけてくれなければならない。
(41)これまでにも、この事をちょいちょい諭してきたが、まとめて諭したことはなかった。だから、よく聞きわけてもらいたい。
(42)このやしきに入り込んでいる者を大切に育ててこそ、教えの土台とすることになるのである。(43)不当な扱いをしていたのでは、教えの台とすることはできない。(44)それなれば、不当な扱いはしない、(45)神の理に添い切って通ると言う。しかし、そう言いながらも、人を育てることを、疎かにしていることもある。それではいけないのであって、今諭したようなことは、銘々が神の話の根本を思案するならば、自ずからわかることであろう。
(46)人により信仰年限は異なるが、その中にもまた、人それぞれにより、粗いこと、細かいことというように、持場立場の区別があるということは前にも諭したところである。
(47)細かいということはどういうこと、中ほどということはどういうこと、粗いということはどういうことと、銘々がそれぞれの持場立場についての自覚をもって通ってくれるようにと、世界に諭している。
(48)たとえば、中ほどということは、あちらもこちらも、上手く纏めて事をはこぶべきものであるなどと、それぞれの持場立場により、みな異なるということをよく納得させて事を進めていくようにしなければならない。そうは言っても、時には事を進めるに当たって、仕損ずることもあるであろう。
(49)そこで婦人会を話し合いの場とし、互いに練り合って、神の思惑に添うように事をはこんでもらいたいのである。(50)銘々が勝手に事を進めていたのでは、(51)いつまでたっても、神の思惑に添うこともできないし、(52)また理に添った考え方も心に浮かばないものである。(53)これが婦人会を開くに当たって、まず神が望んでいる事柄であるが、(54)それは、今まで、だんだんと諭してきた三つのことである。(55)男の中にも、どんな事をする者もある。女にあっても同じことが言える。だから、今諭してきたことをよく聞きわけて、忘れることなく通ってもらいたい。
(56)婦人会というものは、どこまでもたすけ一条の道という上から創めるものなのである。(57)銘々、これまで通ってきた道をよく見わけて互いに諭しあって通るならば、「ああ結構や有り難い」という心も、自ずから皆の心にうまれてくるであろう。
ーーー暫くしてーーー
(58)さあさあ、先ほど諭したことが理解(わか)ってくれたならばそれでよろしい。(59)もし納得がいかないところがあれば、尋ねかえしてくれるがよい。(60)理解ったのか、理解らないのかよく思案して、理解らないというところがあれば、再び神に尋ね出るようにすれば、早く納得のいくものである。(61)理解らない事があるのに、尋ねる旬を見のがし、(62)また今度聞かせて頂く時があるだろうと思ったりして、そのままにしておくようなことがあると、(63)神が幾度同じことを諭し、(64)くどく話をしても何にもならないことになる。
ーーー押して、元々艱難した者婦人会の中に古い者洩れ落ち有るか無いかという処話する処へーーー
(65)さあさあ、古くから艱難の道を通ってきた者で、諭し合いの場に誰彼が欠けているということも当然あるであろう。(66)年限の古い者でもそうであるから、年限の浅い者で、もれ落ちている者はずいぶんあるであろう。(67)このやしきに暮らしている者は、出たり入ったりして、人は替わるのが常である。(68)世界たすけの神の道具ということであれば、それは言うまでもない。(69)だから、あちらに出て働き、こちらで働く者があっても、理は一つなのであって、(70)しかし、それも研究会で皆が寄り集い、(71)談じ合うことによって(72)はじめて納得することができることであろう。
ーーー又暫くしてーーー
(73)このやしきに男が何人、女が幾人と多くの者が寄って勤めているわけであるが、そうして寄っている者みんなが、この点をよく思案してくれなければならない。(74)男の中にも、下積みの仕事をしている者もあれば、中程のことをしている者もいる。(75)しかし、女は殆どが、いわば下積みの目立たない仕事ばかりをしていることが多い。(76)そうした事実を考えてみても、それぞれが勤める仕事はちがっても、(77)みな大事な立場を守っているわけで、「なるほど」と得心ができるであろう。
ーーー又続いてーーー
(78)さあ、もう一言話をしておく。(79)これまで神の思いをいろいろと諭しているが、お前たちには、それがさっぱり理解(わか)っていない。話を聞いても、みなすっかりと忘れてしまっている。忘れているから、いつまでたっても理解らないのである。
(80)とかく、女は「女だから、陰の仕事をさせてもらう」などと言って、みな下積みの働きをしている。(81)たとえば、今日は煮炊き場、あるいは掃除場の仕事というように、いわば下働きをしている。(82)しかし、そうと決めてしまうのではなく、上の仕事とか下の仕事とかとわけることなく、勤めてくれるなら、(83)女の中に当然男と同等の働きをする者がある。
ーーー又続いてーーー
(84)以前に、互いに寄り合い研究をするようにと指図した。(85)それというのも、今のままではどうにもならないからである。(86)たとえ、飯炊きをし、掃除をしていても、(87)心は世間につなぎ、世界だすけの心で勤めなければならない。これが道の者のあり方である。
(88)そのためには、たとえ飯炊き、掃除場の働きをしていても、(89)その働きの中から互いに扶け合い、真実をつくすことが肝心なのであるが、(90)ややもすると、そのことを弁えずに、聞きにくい(註、聞き苦しいの意)、見にくい(註、見苦しいの意)通り方に陥ち込んでしまうものである。
研究し合うことを促した神の思いも、こんなことから出ているのである。
ーーー又暫くしてーーー
(91)さあさあ、それほど神の思いが理解り難いのならば、ゆっくりと話をしよう。(92)だから、しっかりと心に治めて、十分に見わけ、聞きわけてもらいたい。
(93)ここでつとめの事、特に鳴物の事について話をするが、鳴物を教えはじめてから、今年で幾年になるか。年限を考えてみるがよい。(94)今からすれば、かなり以前のことになるが、三曲鳴物の稽古をはじめた。(95)その時には、三名の者と控えの者一名が学んだのであるが、(96)赤衣を着せて始めたのである。(97)そうした事を通して、よく聞きわけてもらいたい。
(98)この話について、お前たちは「これもそうか、あれもそうなのか」というように、納得のいくまで談じ合っていないではないか。(99)だから、この点をしっかりと聞きわけられたらならば、成程と理解がつくであろう。
ーーー又暫くしてーーー
(100)これほど話をしているのに、まだ理解(わか)らないようでは、どうにもならないではないか。神が幾度も念を押して説いているのに、その神の思いが理解らないというようなことではどうにもならない。(101)神の言う事をよく聞きわけてもらいたい。(102)そのむかし、鳴物の稽古を始めた日のことを覚えているであろう。(103)その時には、赤衣を着せて始めているのである。(104)この事をよく思案したならば、「ああ、そうであったか」とわかるはずである。
ーーー上田ナライトの事でありますやーーー
(105)さあさあ、まだ理解らないのか。理解ろうとしないから、理解らないのである。(106)どうしても理解らないのならば、諭すのを止めようとも思うが、(107)これで諭すのを控えてしまったならば、それこそ何にも理解らないということになってしまう。だから、あえてくり返して諭そうと思う。
(108)最初、赤衣を着せて稽古をさせた者は、三人と控えの者一人の四名であった。(109)この事を台として日々のところを勤めるならば、(110)結構と思える道をあゆむことができるのであるが、(111)今の道を見ると、赤衣まで着せて稽古をはじめた事の理合いが理解されていない。それでは、どうにもならない。
(112)同じように、女の勤めとされている炊事や掃除にしても、(113)勤めという上から言えば、決して隔てなどありはしない。そのように話してある筈である。(114)これまで幾度も指図をしてきたが、それを、「どうせよこうせよ」というように、諭してなかった。(115)だから、いまだに形にとらわれていて、神の神意が理解っていないのである。
ーーー押して、おこと、おいゑの事でありますやーーー
(116)そうではない。それとは全く違っている。(117)赤衣を頂戴(いただ)いた者のことではない。(118)赤衣を着せた者、(119)以前につとめ人衆として、鳴物の学びをさせた者のことである。
ーーー永尾よしゑなどの事でありますやろと話するうちにーーー
(120)その通りである。(121)やっと理解することができた。ようやく道の理が判明ったようである。
ーーー一寸してからーーー
(122)それさえ判明れば、もはや後々の事も十分にわかるであろう。(123)さあさあ、この話もこのくらいで止めておこう。
婦人会創設に関するおさしづ
目次 |
(1)明治31年3月25日 (4巻2913頁) 『増野いと身上願』 『押して』 『押して、皆相談しましてと願』 (1)《大意》 |
(2)明治31年3月26日 (4巻2916頁) 【2003.10.27UP】 『前日増野いとのおさしづより、婦人会の事に付おさしづありしにより、以後の道筋心得事情申し立て願』 『暫くして』 『押して、元々艱難した者婦人会の中に古い者洩れ落ち有るか無いかという処話する処へ』 『又暫くして』 『又続いて』 『又続いて』 『又暫くして』 『又暫くして』 『上田ナライトの事でありますや』 『押して、おこと、おいゑの事でありますや』 『一寸してから』 (2)《大意》 [2003.10.27訂正] |
(3)明治31年3月27日 (4巻2923頁)【2003.11.12UP】 『永尾よしゑ身上願』 『身上押して』 (3)《大意》 |
(4)明治31年3月28日 (4巻2925頁) 『前日おさしづにより教長へ御伺い申し上げ、その趣きは婦人会の処何か区域を立てゝ何とか名前付けますものやという願』 『おつとめに出る鳴物の御方の順序の願』 『押して、鳴物元の御方に習う事』 『押して、この御方と見分ける事』 『手打ってから又さしづ』 『又一寸してから』 (4)《大意》 |
(5)明治31年3月30日 (4巻2932頁) 『刻限』 (5)《大意》 |
(6)明治31年3月30日 (4巻2934頁) 『前日おさしづの婦人会内の事情に付一同話しの上願』 『増井りんの事で御座りますや』 (6)《大意》 |
(7)明治31年10月26日 (4巻3124頁) 『桝井安松身上歯の痛み願』「おさしづと婦人会」には以下のおさしづは掲載されず 『押して願、おことの事でありますや』 『教長へ別席の順序願』 『押して』 『押して』 『押して(女)』 (6)《大意》(1番目のおさしづのみ) |
(1)
明治31年3月25日 (4巻2913頁) ()は大意での数字
『増野いと身上願』
(1)さあ/\尋ねる事情/\、尋ねる事情は身上、さあまあこの中良きかと思えば又身上に心得ん事情掛かり、善き事なら思う事無い。(2)身上もう一時ならん迫る事情尋ねるから、事情にはこれまでいろ/\諭したる。(3)どんな事にも諭し掛けたる。いかなる事情にも諭したる。(4)そんならめん/\身上、心にどうと又あろ。諭に、幾重諭したる。何処へ掛かるとも分からん。(5)事情はさあ女の道がある。皆惣計女の道あるなれど、女の道に男女とは言わん。(6)この道どうも分からん。そこでよう聞き分け。惣計の中談示の台に出す。よう聞き分け。(7)数々中ある。数々中ありて日々働いて居る。(8)この中一つ理という。道によって古い新しの理がある。新しい中にも古い中にも、どういう理もある。又古いだん/\の理もある。(9)一時女、婦人会として初め掛け。これ人間が始め掛けたのやない。神が始めさしたのや。これは古い道にこういう理がある、こういう事があると、互い/\研究始めたら、いかな理ある、どんな理もある。(10)元々一人から艱難苦労の道通り、又中に道始まる理に繋ぎ、事情から始め通りたる者ある。(11)たゞ年限ありて心にこう無くば古いとは言えようまい。こうのう無くば、まあそうかいなあというようなもの。よう聞き分けて内々迫れば、相談の芯という。芯から始めたら心分かる。(12)女研究、何ぼでもぢばという中に、これまでにも治まる理無くばどうもならん。刻限でも諭し、諭にもよう/\という。(13)婦人会始め掛け。始め掛けたらよう思やんせにゃならん。(14)道に艱難の道という、通りたる事情、(15)婦人会というは何のためにするのや。義理でするやない。又人間の体裁でするやない。又世上に対してするやなし。婦人会というは、道始めて互い/\の諭し合いの道治めてやれ。(16)今日入ったも女、古い理も女、艱難苦労通りたか通らんか分かる。入りた道ある。遠い所から来てる者もある。又近い所から来てる者もある。どうやろなあというような道から、へばり付いたような者もあれば、又運んだ道もあれば、道に染まりて入りた者あれば、今日入った者もある。婦人会という道聞き分けて、今日は一つ、埋もれ/\切ってあるという。
『押して』
(17)さあ/\会議というて話し掛けた処、(18)そんなら神の話、思う一条の話、十人なら十人出ける話とは言わん。数々中に突き合わせ、(19)世上男女言わん。(20)何程女でも道のため運んだこの事情聞き分けにゃならん。これ聞き分けにゃならんで。(21)そこで尋ねても、道だけ筋立てば同等のもの。よう聞き分けて通さにゃならん。互い/\道はどういう処から取りて居る。
『押して、皆相談しましてと願』
さあ/\よう思やんして、(22)皆それ/\身上迫れば心治まらん/\。(23)世界明るく、道にほこりありては、元ぢばと言えん。(24)女であれど、元々尽したこうのうという。元元女でもあれだけのこうのうあるか、と、知らさにゃならん。
(「おさしづと婦人会」p2~7より)
明治31年3月25日 (4巻2913頁)
『増野いと身上願』【大意】
(1)さあさあ、尋ね出ているは、とかく身上が思わしくないからであろうが、そうした中にも調子がよい時も、また思わしくない時もあった。身上健やかであれば、何も思い患うことはない。(2)ところが、身体の具合が俄にさし迫った状態にでもなれば、当然、神の指図を尋ねることであろう。これまでもそうした場合、いろいろに諭してきた。(3)折にふれ、事に当たって、諭すべきことは、あらまし諭してきたはずである。だから、銘々が、身上勝れないという時にも、今までのところをよく思案すれば悟りがつく筈である。
(4)ところが、自らの事になった場合には、とかく、どのように思案したらよいのか思い迷ってしまうものである。(5)今の事情は女性としての道があることを教えたいから見せているのである。もとより、諭すところは女の道についてであるが、だからと言って、それは決して、男だから、女だからといった区別を諭すのではない。
(6)この道の通り方について、まだ十分にわかっていない。だから、これから諭すところをしっかりと聞きわけてもらいたい。これから諭すことは、あらゆる問題を解いていく場合の話し合いの台となるものである。だから、しっかり心に治めてくれなければならない。(7)これまで多くの者がこの道についてきている。この「やしき」の内にも、日々多くの者が働いているではないか。
(8)しかし、この道を通るかぎり、みな心に治めなければならない筋道がある。それぞれが通ってきた道すがらには、年限の上から古い者、新しい者がある。そうした年限の新しい古いということに関わりなく、通り方よって、どんな理も現われてくる。けれども、また、古い者には、その年限に相応しく、神が深い思いをかけているのである。この際、女としての通り方を明らかにするため、まず婦人会を創めかけるがよい。
(9)ところで、婦人会を創めると言っても、決して人間の思いによって創めるのではなく、神が創めさせたのであるということを心しておくがよい。婦人会は、それをたとえば、この道のかかりには、こんな神の守護があった、こんな事があったというように、互いに研究を始める場にして進めるならば、どのような実りも見ることができるであろう。
(10)もともと、この道は、教祖一人より始まり、教祖が幾重の艱難苦労の道を通って、今の道に出たのである。
また、そうした道中にあって、この道の初め、草生えの難渋な時に心をつなぎ、道の理を聞きわけて通ってきた者がある。
(11)ところで、ただ年限を重ねただけで、その年限に相応しい成人の姿を見ていなければ、古いとは言えないであろう。この道を通るかぎり、年限相応の「しるし」がなければ、ただ、古いということだけに終わってしまうものである。この点をよく聞きわけて、心を治めてくれるならば、内々の者の誰かが事情とか身上でせっぱ詰まった時、それをどのように悟り、どのように通りぬけるべきかの相談の芯となることができるのである。心の治まった者が芯となって研究を進めていけば、みんなの心も治まってくるのである。
(12)このように神の理を求めて、女同士研究をし合い、心を治めるということは、この人間創めた「ぢば・やしき」だからこそ、当然しなければならなかったのに、それができていなかった。そのために、心治まることがないというのでは、「ぢば・やしき」の理が立たなくなってしまうではないか。
(13)そこで、旬々の指図でも諭してきたが、その諭したところに、やっと目醒めるようになった。ここで婦人会を創めるがよい。婦人会を創めることになれば、さらにそこに寄せる神の思いを、よく思案しなければならない。
(14)これまでの道には難渋苦労のみちすがらがあった。そこを通り越してきたことを思えば、(15)婦人会を何のために創めるのかは、自ずからわかる筈である。それは人間の義理でするのでもなければ、体裁でするものでもない。また、決して、世上への見栄で創めるものではない。
婦人会の使命というものは、この道始まってから今日までの事を互いに諭し合い、心治めていくことにある。そのことを心に置いて事を進めるがよい。
(16)近々、この「やしき」に入ったのも女であるし、また、古くから「やしき」に詰めてきたのも女であった。長の年限、道を通った芯となるべき者からすれば、艱難苦労の道を通った者か、そうでない者かは自ずとわかる筈である。
人それぞれに、この道に入った次第というものがある。遠い所からきている者もあれば、ほんの近い所から出てきている者もある。また、「この道は信頼できるだろうか」などと半信半疑のまま道につき、ついには離れられなくなったような者もあるし、真実をはこんできた者もある。さらには、この道に染まって信仰するようになった者もあれば、今日はじめて道についたという者もあって、人それぞれに異なっている。そうした者たちに、まず芯となるべき者が、進んで婦人会にかける神の思いを聞きわけ、神の理を諭してやってもらいたい。
今日は、特に埋もれきって下積みになってしまっている婦人のことについて諭しておこう。
ーー押してーー
(17)さあさあ、婦人が寄り合い、会議をするように、と言ったのであるが、(18)「それなら神様のことを話し合おう」といっても、また、銘々の思いをのべるにしても、十人が十人とも、みんな十分に話ができるとは限らない。話し合えば、当然いろいろな話が出るであろうが、その数々の話を照らし合わせ、補い合っていくようにすれば、談じ合いの実りを得ることができよう。(19)世間ではとかく男と女を分けて考えがちであるが、この道の理には、決して男、女の区別はない。
(20)たとえ女であっても、道のために運んだ真実の事情については、しっかりと聞きわけていかなければならない。婦人会を創めるについては、ここをよく聞きわけることが大切である。
(21)そこで何の問題であろうと、道の筋道の立った話であれば、決して、男、女の隔てはない同等のものなのである。
だから、この点をよく聞きわけて、道の筋道を通してくれなければならない。そして互いに、道はどういう理に基づいているのかをよく諭し合ってもらいたい。
ーー押して、皆相談しましてと願ーー
さあさあ、よく思案してみるがよい。(22)人間誰しもみな、身上が迫ってくれば、なかなか、穏やかな心ではいられないものである。
(23)世界を明るく陽気にするのが、この道であるのに、この道を通る者の心にほこりがあるようでは、元なるぢばの理を示すことができないではないか。(24)女であろうと、表に出て光るのは当然である。もとはと言えば、それは道の上に心を尽くしたこうのうの理が現われたものである。だから、「女でも、あんなに素晴らしいご守護があるのか」と言われるような、当然の真実をみなに知らせなければならない。
公刊本おさしづより 1
青年会創設に関するおさしづ
青年会について調べ始めた経緯
他のサイトにて「女の道」といわれる「教祖のお言葉」から男・女(天の理・地の理)についてねりあう中で、婦人会に「母親講座」があるのに男には「父親講座」というものは現在ない。との言葉から婦人会・青年会の存在が気にかかり、その設立のおさしづから何か男女についての事が分かるのではないかと、青年会の創立のおさしづを調べ始めた。 【目次へ】 |
|||||
この当時に関する資料
・「あらきとうりょう」(209) p39~48 現在の青年会創立に関する資料 ・「あらきとうりょう」(210) p26~30 |
|||||
おさしづ目次
|
明治31年6月3日 『先般梅谷たね、永尾おさしづより本部員会議の上農行衆なり日々本部で勤める青年に、月々一度宛御話する事、本部長の御許しに相成りしに付、神様の御許し頂き度く願』 『押して、農行の方宮森与三郎、山澤為蔵両人取り締まる事願』 |
関連するおさしづ |
(1) 明治31年6月2日 『永尾楢治郎腹痛に付願』 |
(2) 明治31年5月17日朝 『梅谷たね身上願(足痛に付願、本部事情あり)』 『押して、只今御聞かせ下されますは重に本部の事情こもり居りますがなれど、梅谷の事に付、梅次郎を役員一同より副会長にだん/\願われしも、未だ/\と申し居られ、又縁談も一寸話御座りますが、この処は如何に御座りますや願』 『押して、梅谷は私儀この二三年前おさしづに付御本部へ常詰さして下さるようなさしづから内々もだん/\取り決まり御本部へ詰めさして貰い居りますが未だ十分の事に参り兼ねます故この処願』 |
(3) 明治31年5月11日 (4巻2972頁) 『辻とめぎく身上願』 『押して、夜深に尋ねる事情願』 |
(3-1) 明治31年5月12日 (4巻2973頁) 『昨日辻とめぎく身上願いより夜深というおさしづに付願』 『前夜のおさしづより昨夜談示の上取り決めし事情願、第一は講社扱いの事情はその扱いの者不在中にても外の者扱いの出来るよう一同へ話して置く事、又鳴物の事申し上げし時御諭』 『押して、控えは増井りんかとみゑか』 『おかぐらに替わり合うて勤める願』 『押して、かぐら願』 『日々のあたゑ配与方の願』 『一寸暫くして』 『押して、ねたみ合いそねみ合いはどういう処を仰しやって下されますや』 『暫してあたゑ分け日々する事やろうかと言う処へ』 |
(4)[2003.10.20UP] 明治20年10月26日 (1巻88頁) 『真之介よりの思召を以て、八九人懇親会研究に付御願』 |
(4-1)[2003.10.20UP] 明治20年10月22日 (1巻87頁) 『清水与之介おたすけに行き御利益もあり、帰り道にて、左の足に何となく出物でけ、喉ひっ付くように成りしに付願』 |
関連するおさしづの掲載について一言
|
|||||
(1)(2)について 青年会の創設について調べたいと「改訂 天理教事典」を見たところ、 『教会本部においては、天理教青年会創立に先だち、一致幼年会(明治26年6月)、青年団結義会(同年9月)などが発会し、次いで、「おさしづ」を仰いで本部青年会が創立された(さ31.6.3)。』(p620) と書かれ、そこで、『梅谷たね、永尾おさしづより・・・』(m31.6.3)言葉より、さかのぼって、(m31.6.2)・(m31.5.17)のおさしづを掲載した。 (3)(3-1)について (4)(4-1)について 初めて解釈をしてみました。
|
|||||
明治31年6月3日
『先般梅谷たね、永尾おさしづより本部員会議の上農行衆なり日々本部で勤める青年に、月々一度宛御話する事、本部長の御許しに相成りしに付、神様の御許し頂き度く願』
さあ/\尋ねる事情/\、さあ/\いかな事情、いかな事情も尋ねにゃ分からん。さあ/\皆んなこれ多分の者、連れ戻りたる処、何か無しの日々の処では、とんとどうもならん。幼少の時から万事事情、日々治めすれば、日々治め来る。あら/\飛びさがした理は集め来た道理、世界又順序、一寸固まり掛け。実際固まりが一人万人の同じ心という。これ鏡やしきという。これまでとんとどうもならん。人に粗相あってもそのまゝ置いて置く。聞かん者はどうもならん。万事人間心ばかりで、たゞ天理王命と言う事ばかり、結構分かり、どういう理から集まりたる。世界の理、物が多分有る者も無き者も同じような事ではならん。よう聞き分け。これから先年限は、長いと言えば長い、数えて見れば短い。よう聞き分け。何かの事、人が知らんと思たて、知らん者は無い。夜も昼も皆映りてある。これ第一の理。これからどうでもだんないというような事ではならん。それでは育てようと思たて育てられん。そこでほんの義理や体裁を以て治めては何にもならぬ。十分治めようと思えばめんめん心次第。何でも彼でも心尽さにゃならん。心尽せば固まりて来る。少々では固める事出けん。元々台という、台無しに働いてはならん。よう聞き分け。蕾の花を生けたら一先ず見られる。なれど、日柄経てばほかして了う。これ皆んなの中、これ話の台という。よう聞き分け。月々一度の心の改め合い、話のし合い。心は随分下から行て、人の事してやるというはこれが台。放って置いても人がするというては、年限経っても同じ事。これ話して置く。尋ねる事情は、十分聞き取って十分受け取る。
『押して、農行の方宮森与三郎、山澤為蔵両人取り締まる事願』
さあ/\まあ大抵々々、年限通り来たる。その時時分、日々組み上げたようなもの何時でもその場へ持って来たら道具が揃たる。皆んなの下から積み重ねたる。そこで何処へ出たて粗相は無い。これ台として伝えにゃならん。又、一寸一つ話、どうでもこうでも、これまで二三度諭したけれど、あら/\は分かりある。なれど、人人替わりて、日々席順序一つ、何度諭したる。一寸こうして席のもの、十人なら十人、所の名言うて尋ねるまで、場所決め一々尋ねるまで身の備えこれ第一。中程でどうせいこうせい言うては、続いた席の理千切れ/\の理渡すようなもの。これする者ある。忘れて千切れ/\の理渡してはならん。遠い所からさづけ受け取りに来るのに、千切れ/\の理渡してはならん。言葉僅かよう聞き分け。中程はあと思たら、一つ理聞き取るのは、言葉分からん。先はどうやったやら、中はどうやったやら分からんようではならん。そら筆を取りて渡してある。なれど、息継ぐようなもの。これ日々や。所尋ねるまで。身に一つの備え。横向いてはならん。尋ね掛けたらどうする事要らんよう、十のものなら十ながら、外へ散らんよう。三名取次、三名ながら並んで居ては取次やない。三名許したるは不都合無きよう、千切れ/\渡すは一人でよいもの。そこで三名許したる。三名の心は一人の心を働かしてくれにゃならん。
青年会創設に関するおさしづに関連するおさしづ
(1)
明治31年6月2日
『永尾楢治郎腹痛に付願』
さあ/\尋ねる事情/\、身上という。身上に掛かれば皆んな事情、身上に掛かるというはよう聞き分け。一度やない、二度やない、三度五度までさしづという。何でも彼でもせにゃならん。遠い所から、一度さしづ貰たら、と言うて出て来る。それからめん/\心治め。この道というはなか/\難しい道である。難しい、どうも難しい。何も難しい事やない。このくらい楽な事は無いなれど、皆心が難しいのや。西へ行こうと東へ行こうと、南へ行こうと北へ行こうと、自由自在。さあ/\諭し掛ける。ほんの掛かりの話治めば、通りよい事情から治めてよう聞き分け。あちらから見てもこちらから見ても成程、という理より治まる理は無い。成程の理聞き分け。これまで度々の理諭したる。実という/\、澄んだ心/\は曇り無い、曇り無いのが実と言う。何かの処年限は余程の年限限りの処、長らえての年限と思う。年限は二代目の年限となりたる。何十年という。これから諭するによって、皆諭さにゃならん。身に事情、はっきりと諭す。身上々々大抵分かる。よう聞き分け。遠い所からそれ/\゛集まりて来る中に、万事多い事情、あちら治まりこちら治まりすれば、心という理、あら/\治まるようなれど、一寸身上堪えられん。めん/\心折り/\心ほっと事情、いつ/\かと言うは、そうやない。時々事情、あちら向いてるともこちら向いてるとも、分からんような心ではならん。これ、嗜んでくれ。これよう聞き分けて、成程というは、身上直ぐと治まる。暫くめん/\こういう事と、めん/\心でこれだけ聞かして貰た、成程、と、内々親々の中、あちらこちら安心聞かしてくれ。これで一つ又一寸話し掛ける。前々一寸話したる。難しい/\。仮名な処から事情、この事情から話し、何時どういう事情あるとも、諭すとも分からん。重い軽い分からいではならん。前々諭したる、一時諭したる。重い軽い砕いて話すればなか/\長い。重い軽いは第一理である。一寸話。今一時という。そんならめん/\どうしようと事出けん。又刻限諭した処が、出越したる処、こういう事というは、心に掛かる。どうでもこうでも均らして了う。人間心これまで神の自由知らず、まあ忘れて了たような理の世界道理で通りた年限、このほこり何ぼとも分からん。そこでほこり払う。よう聞き分け。あちらこちら十分掃き掃除、ほこり去って了たら、後々さしづ一つで治めるという。これ一寸さしづして置こう。
(2)
明治31年5月17日朝
『梅谷たね身上願(足痛に付願、本部事情あり)』
さあ/\尋ねる事情/\、さあ/\どちらへ掛かるとも分からん。どういう理から運び出すとも分からん。尋ねる/\、尋ねにゃ分かろうまい。だん/\諭したる、身上から事情、何でも彼でも治めにゃなろうまい。よう聞き分け。これまで/\皆んなそれ/\゛、常詰とは言われようまい。又それは出けやせん。なれど、心は常詰。早くに聞き取りて早くに定め/\。何ぼでも/\暇が要る。前々からの続き、前日よりのさしづ、幾度のさしづ。一日の日を以て、順序引き均らすという理も諭したる。これからという万事取り決め。何かの処さしづの理を以て取り決めと言うたる。未だいかん。どうでも暇が要ってならん。よう聞き分けにゃならんで。これまで紋型も無い処、ほのかに聞いた理は、ぼつ/\一つ/\見えてあろう。どうでもこうでも、見難くい処は取り消して了わにゃならん。何ぼ諭しても聞かしても、一寸あちらの理を取る、こちらの理を取る。思わず/\暇が要る。取り決めた理は無い。日々の諭しにもするやろ。一軒一人の事情は家内の理とも諭すやろ。早く救けにゃならん、救からにゃならんというが互の理、よう聞き分け。めん/\も救かろともせず、それ/\゛も救けようとも思わず、そんな事で、日々常々取り次ぐ話扶け合いの理に当たるか。さしづ通りの理を守れば、早く/\談じ取り決まり、この点はこうしました、どうしましたと、一つの理決まり無くてはなろまい。この理よう聞き取らにゃならん。理というは、一つに治め掛けたら皆治まる。あちらも一寸こちらも一寸、話し掛け、半ば/\のようではどうしてものゝ決まり付くか。こら理や、そら理やと、人間勝手の理、神の道に無き理を引き出すから治まらん。決まらん。そんな事では教の理は説けやせんで。日々どういう理を以て取り次いで居るか。一手一つの心、教一つの理を以て、嬉しい心を、日々聞かしてくれにゃならん。
『押して、只今御聞かせ下されますは重に本部の事情こもり居りますがなれど、梅谷の事に付、梅次郎を役員一同より副会長にだん/\願われしも、未だ/\と申し居られ、又縁談も一寸話御座りますが、この処は如何に御座りますや願』
さあ/\尋ねる処、中途からおっと出た分にゃ諭し難くい。一落理を治めて決まらにゃならん。ぢばに一つさしづ通り理が治まれば、こうさして貰いたいと言えば、よし/\と言う。今一時尋ねる事情は、幾重何段の理に集まってから一つの理、前前よりのさしづ取り決め一条の諭し、何も難しい事は言うてない。めん/\難しい事拵えるから難しなる。言う通りにしたら言う通りになる。よう聞き分け。この道、言う通りの理より出けたのやろうが。
『押して、梅谷は私儀この二三年前おさしづに付御本部へ常詰さして下さるようなさしづから内々もだん/\取り決まり御本部へ詰めさして貰い居りますが未だ十分の事に参り兼ねます故この処願』
さあ/\その日来たるが、容易ならん理を寄せてある。今の事情放って置けるか置けんか。内々身上障りより、よう思やんしてみよ。身上は案じる事は要らん。身上救けるため、一時心を定め。さあ/\皆んな早く/\、さあ/\これからというは、いと言うたらい、ろと言うたらろ。前々にも一二三という、きちっとしたさしづしてある。なれど、こうやろうか、どうやろうか、勝手々々の理ばかりで、一寸も治まりは無い。月に一度、一日の日を以て月次祭とも言う。帰る/\、積もった理ばかり、鮮やかなる話は一つもあらせん。明日は月次祭と言えば、宵の日より皆勇んで働かにゃならん。時々さしづ、人々事情諭しても、一つも諭し合う事も無く、喜ばす事も無く、どうして居るのや。身の障り/\という。早く救からにゃならん、救けにゃならん。これは教の理。よう聞き分け。身上の事情より一つさしづという。この理より、互い/\治め方取り決め方運んでこそ救ける理、又救かる理とも言う。これを一つ、よう聞き取ってくれにゃならんで。
(3)
(4巻2972頁)
明治31年5月11日
『辻とめぎく身上願』
さあ/\尋ねる事情/\、身上という身上一つ事情/\、第一事情々々、第一事情さあ話し掛ける/\。よく聞き分けにゃ分かり難ない。何とも思わにゃ何ともない。思えば思うだけ無けにゃならん。諭し置こう。よう聞き分け。身上一つ事情、一時事情々々、どういう事を諭す。尋ねにゃなろうまい。めん/\からめん/\に聞き分けにゃならん。これまでというは皆んなの中一つ聞いて居て、何と理が分からん分からん。長い間年限々々長い間どういう事、用無くば知らん。年限経てば先長くどういう事、よう聞き分け。道の事改めて用いにゃならん。又親子という、親の理から子何と思うか。これ諭し置こう。どういう事、人の事見習え。人の事聞き習え。神の教え一つ理、成程という事ばり/\人間心で諭す事出来ん。神の話神の理聞き分け。続いて/\年限道の理以て長い話、一つ前々事情刻限、事情引き出す。日々取次に諭して一つ集めてる処、万事取次掛かりて事情、又小人事情困る事情、何処へ事情掛かりて始め掛けるとも分からん。又一つ夜深々々、万事諭さにゃならん。あちらへ掛かりこちらへ掛かり、諭す刻限、事情諭すという。さあ/\急ぐ/\。身上は案じる事要らん。実際々々一時治めるは自由、事情夜深々々に筆取らして一時諭して、一時定めにゃならん。
『押して、夜深に尋ねる事情願』
さあ/\夜深々々、さあ/\急ぐで/\。尋ねる処尋ね返やす処、夜深々々、筆は三人、筆は三人々々。
(3-1)
(4巻2973頁)
明治31年5月12日
『昨日辻とめぎく身上願いより夜深というおさしづに付願』
さあ/\夜深という事情諭し掛けたる処、夜深という尋ね事情から事情始め掛けた。あちらこちらどういう事言い掛ける。大抵々々諭したる。皆んな心得て尋ね出たか。どうよこうよ一つの心を治めて尋ね出たか。それから話し、前々事情を以て、早く万事一つの理始めたる。事情夜深々々の理を以て尋ねる。もう万事の処あら/\二三日経ってある。どういう理を定めて尋ねるか。前々事情どういう事であったか。
『前夜のおさしづより昨夜談示の上取り決めし事情願、第一は講社扱いの事情はその扱いの者不在中にても外の者扱いの出来るよう一同へ話して置く事、又鳴物の事申し上げし時御諭』
さあ/\一時取り決めした事情をこうと言う。あら/\こうであろうか、皆々どうがよかろう、こうがよかろうか、協議して尋ねる処、信徒万事の処、皆満足を与え、内々は一つの心、それは言うまで/\。第一の処、皆悟り損うて居るか、取り損うて居るか。よう聞き分け。くれ/\゛の理に諭したる/\。一つも添うてない/\。これではならん/\。こういう事ではならん/\。その後もう一つ鳴物三人、一人は控え。どうしたらよかろうか、師匠というか、まあそこえ/\稽古さして始め掛けた。元々容易やない。紋型無い処、何っから師匠出来て、手を付けたと言うやない。一を抑え、二三を抑え、手を付けさした。この者皆存命で居るやろ。親やろうか、子やろうか。分からんから尋ねる。親やら子やら分からんようではどんならん。仮名な事に話する。人間と/\話するように言うて聞かそ。今はなあ、どうなりこうなり、代わりと言えば出けるようになりたる。その時の理が分からんようでは治められるか治められんか。よう聞き分け。そうしたらすっきり分かる。出た者が存命で居るがな。控えが無くばならん。一人出られなんだら、そこで一人控えを拵える。
『押して、控えは増井りんかとみゑか』
さあ/\尋ねる/\。そうして尋ねたら鮮やか分かる。赤衣を着せて子供出したる。そら一寸には分からん。分からんから分からんようになる。人間が心でどうしょうこうしょうと言うたて出けやせん。元という、元があって先々事情、世界という、これ聞き分け。親やら子やら分からんようではならん。分からんから大方そうであったやろかと言う。よう聞き分け。小人は皆子供、成らん中から勤めた理は些かやない。何っからそうしょうと言う者も無く、銘々心だけ尽した理やで。
『おかぐらに替わり合うて勤める願』
かぐらの方はそれはどうともこれがこうとも一つも分かりてない。それまで人衆分かりてありゃせん。肝心言い掛けた処が及ばす事出けん。一時の処急いて/\。一代は残念苦労して暮した。一時言い掛けた処がとても/\及ばん。ほんの世界道理から始め、踏ん張って一人席と言うて理を改め、代理として勤めさしてある。同じ人間やと思てはならん。口に吹き出すねという神のさしづやで。違うや違うと言え。おら不服やと言うなら、不服と言い並べ/\。
『押して、かぐら願』
さあ/\決まってないものは、今一時決まりの理は取り難くい。どれとこれと人々役割、又々一時応法の理を以て、今日は誰、今度は誰、日々の処一日の日を以て、これまで通り来た処を以て勤め、又一つ鳴物、親やったやろうか、子やったやろうか。真から誰もこうと言う者は無い。知って居たとて言わんのや。
『日々のあたゑ配与方の願』
さあ/\尋ねる処/\、そらもうこれ、どんな者でもこんな者でも同じ事情なら誰が聞いたて成程と言う。違うてありては成程とは言えん。違うた事はどうもならん。違うから何ぼ違うやら知れん。どんな理になるとも分からん。そこでさしづしてある。日々中にどうやこうや、言いようで違うによって一つの理に集め/\。日々別席する。諭しよで間違う。取りよう/\で間違う。もう何ぼ切り長い話しても、第一の理を聞き取る事出けん。こゝと/\折り目切り目の理を聞かし、十人なら十人、一二三と言うたら、それに違わんように諭して貰いたい。そこで前々にも諭したる。俺はこういう諭し誰はこういう諭し、それ/\゛書き取ってしんばしらに出して、それより席に尋ね、そうしたらどんな者が聞いても、成程あれならなあ、あれでこそなあと言う。それより結構は無い。何にもならん話した処がどうもならん。紋型も無い処からのこの道の結構という、元の理を諭さにゃならん。これは言うまでや。諭しても居るやろう。
『一寸暫くして』
長く話した処が、中に飽いて来る者が出ける。そんな席何ぼしたとてどうもならん。そこで九遍という。九遍さえ追うたらよいというだけではならん。同んなじ事九遍聞かしたら、どんな者でも覚えて了う。まち/\の理を諭しては何にもならん。もう、一つと言うたら一、二と言うたら二、三と言うたら三、きっちりしたものやろ。違わんと言うやろ。難しい事言うのやない。もうこれから人数が多くなる。そこでどんな日あるとも分からん。何人あるとも今日は今日、朝は朝、人々の理を以て替わり/\。これが一つの理。又なか/\一つの事情、あちらの者が用があれば、こちらから代わる、又出越して居る者日柄掛かれば、又その者に代わりという。すればこれより結構はあらせん。そうさえすれば、どちらからも何とも言う者は無い。そうして又一つ事情、前々一度諭したるというは、第一妬む妬まれる、嫉む嫉まれる。この理程恐ろしい理は無い/\。
さあ/\よう聞き取りて運んでくれたら、どんな働きするや知れん。そも/\の理ではどうもならん。また今日が明日になり、今年が来年になる。こうして取り次ぎ、一日の日からろっくすっきり/\。これだけは何でも彼でもと、通ってくれにゃならん。これまでの処無にしてはならん、無にさしてはならん。ようこれ聞き取ってくれ/\。
『押して、ねたみ合いそねみ合いはどういう処を仰しやって下されますや』
さあ/\まあ/\、尋ねる事よりも、一つ急いで諭さんやならん。言葉続き言葉並びとも後や先になりてはならん。どうでもこの理に運ばにゃならん。日々国々所々心得事情、さあ/\何人有りだけの人と言うて話したる、又戻りて居る者もある。又、常詰と言うて、常詰にならん者もある。本部常詰という、銘々一つ理を治めて、両手にものは出けやせん。そこで、戻りた者でも遊んで居られん。本部という、ぢばという、そこで日々詰める者が詰合という。どういう事もこういう事も、第一の理というは日々の処、それ/\あたゑという。働きの事情にあたゑともいう。これさえ治まれば、何も言う事は無い。妬み合い/\嫉み合い/\、これが見苦して見苦してならん。そこで何人あるとも詰合一同、本部員とも言う。事務所、詰所、詰所、事務所一つの事情、何人の中あちらこちら出越して居る者はどうもならん。その者は今度の回り、その日に出合うた者が話して、今日はこう/\、あゝ結構やなあと言う。これが第一の理、それさえ治まりたら、濁りはすっきり無いのや。これまで何度の話、ちょい/\にをい話では分からん。又しても分からん。この理に違わんよう、違わんよう、今日の日は楽しんで働け。楽しんでくれ。これが世界からあたゑやでと言うて育てるが、上の勤め。これが第一神の望や。些かあたゑ、時々の理を以て与えてくれるよう。
『暫してあたゑ分け日々する事やろうかと言う処へ』
さあ/\日々にそんな事して居らるものやない。月が重なる、又暇が重なる。それぞれあたゑ開き、その日と言えば詰め合い役員、その時居る者だけは、何でも彼でも集め/\、居る者だけ心合わしてくれ。そうしたらやしきの濁りはすっきり退くで。ぢばに居る者、下々些か/\あたゑ/\、あたゑやからどんな者でも喜ばにゃならん。これだけ諭したらどんな者でも分かる。分からねば得心するまで尋ね返やせ/\。心に嵌まれば心に治めてくれ。又々一つ事情、この話聞き容れあったら、日々取次席や。さづけという。人々替わり/\が神の望み、これもあたゑ、後も先も無いで。皆んな同じ理。軽ければ軽いだけ、重ければ重いだけ。この理分かりたら、あちらを引き、こちらを引きずるようでは神の理とは言えんで。しっかり聞き取れ/\。
青年会創設に関するおさしづに関連するおさしづ(4)
(1巻88頁)
明治20年10月26日
『真之介よりの思召を以て、八九人懇親会研究に付御願』
さあ/\いかなる処、どうせこうせは言わん。時談々々、時談はすうきり要らん/\/\/\で。心次第の道を知らんか。どんな者でも、道に譬えて一つ事を聞き分け。さあ/\一分一厘の理を、よう聞き分け。最初拵えた道具は、どういう道具で、拵えた道具や。神がちゃんと見分けて、一つのあたゑを渡してある。今の楽しみ、先の細道。今の細道、先の楽しみ。先の道を見て居るがよい。どういう道や、よう聞き分け。五人七人十人はどういう心、いかなる定め、十分定め。成程という理であろう。よう聞き分け。難学やで。人間心要らん/\。神一条でさい取り決まられん今の道や。自由自在だん/\説き聞く/\。内にもある、外にもある。いかなる理と思うか。どんな思やん幾重々々、一つの実を定め。一人でも何人でも同じ事。こうしたらよかろうか、何にも要らん/\で、一人は一人の心定め、百人千人万人でも同じ事やで。
【解釈;(私解釈)】 明治20年10月26日
『真之介よりの思召を以て、八九人懇親会研究に付御願』
さあどういう処どうしろ、こうしろとは言わない。時談は全く要らないで、[時談とはどういう意味で使われているのか?時談は索引になく、使われ方が分からない。示談として解釈してよいのか?示談として解釈をすると、問題を話し合いで解決をするための会合と思える。]心次第と言って聞かせているこの道を知らないのか。全ての者に道に譬えて話をしている事を聞き分けろ。さあ一分一厘の理をよく聞き分けろ。[一分一厘の理とはどういう事か?]最初に作った道具はどういう道具で作った道具か分かるか。親神がちゃんと見分けをして、一つの与えを渡してある。今の楽しみは先の細道となり、今の細道は先の楽しみとなるのである。これから先どうなるか見ていたらよい。この道はどういう道かしっかりと聞き分けよ。5人7人10人と今集まっている者の心はどういう心であるか。[割書の八九人という言葉と関連して、今集まろうとしている人数を言っているように思う。]どんな定めた心を持っているのか。十分に定めよ。成程という理であろう。[成程の理とは?」よく聞き分けよ。この教えを研究すると言う事はとても難しい事だぞ。[難学とはどういう事か?学ぶ事は難しいと解釈してみる。]研究するには人間思案は要らない。[お道を通るのには人間思案はいらないとも思えるが、難学という言葉の次に来ているので、研究するためにはと人間思案はいらないと解釈してみた。]神一条で通れと言っても通りますと取り決める事が出来ない今の道である。神の自由自在の働きはだんだんと説かれ、また聞くようになってきている。その姿はおぢばの中にもおぢばの外にもある。どういう理からそうした働きがあると思うか。どんな思やん幾重々々。[どんな思やん幾重々々。とは?]一つの真実の心を定めよ。真実の心を定める事が大切なのは、一人だけでも、何人かが寄って物事をするにしても同じ事である。うまくことが運ぶためにはこうしたらよいだろうかと人間思案で相談する事は何にもいらないで。[談じ合いの道とも聞き、またおさしづを受けてねりあいを重ねている事実を考えると相談する事を完全に否定する言葉とは思えず、今回のおさしづの流れ、自由自在の働きを頂くためには人間思案ではなく真実の心を定めて通る事を求められているように感じる上から人間思案で安易な道を通ろうと考える相談は要らないと言われているように思う。]
一人の場合は一人の心定めが大切であるが、百人千人万人が寄ったとしても同じ事で、その寄った一人一人の心定めが大切である。
青年会創設に関するおさしづに関連するおさしづ(4-1)
(1巻87頁)
明治20年10月22日
『清水与之介おたすけに行き御利益もあり、帰り道にて、左の足に何となく出物でけ、喉ひっ付くように成りしに付願』
さあ/\万事の処、大勢寄り合うて、幾重の話しても、一人々々の精神より運ぶ事は出けぬ。この理をよう聞き分け。刻限話では一人々々聞きようが違う。それで刻限話もせぬ。一人々々の身の障りより願い出れば、それ/\聞かす。この理をよう聞き分け。暗がりに成る者もある。身の処何にも案じる事は要らん。
【解釈;(私解釈)】 明治20年10月22日
『清水与之介おたすけに行き御利益もあり、帰り道にて、左の足に何となく出物でけ、喉ひっ付くように成りしに付願』
さあ全ての事において、大勢が寄ってどんな話をし合っても、一人一人の精神、心の持ち方でしか物事を運ぶ事は出来ないものである。この理をよく聞き分けてくれ。全員に対して話をする刻限話では、一人一人によって聞き方、受け取り方が違ってくる。だから刻限話では話が出来ない。(でも旬が来ているので話をしなくてはならない。)けれども、一人一人の身上から願い出たならば、それぞれにその話を聞かす。この理(個人的に話をする理由)をよく聞き分けてくれ。暗がりになる者もある。[暗がりになる者とは?]身上についてはなにも心配は要らない。