「元の理」を遺伝子ということから考え始めて、前々回は数字から事項を拾ってみた。そして前回はそれを元に表を作ってみた。今回はそれらをまとめて思う事を書いてみたいと思う。
① 第1回目の宿仕込みと2回目との差であるが、
宿しこんだ子数は同じでも宿仕込みにかかった日数とぢばに留まった日数が異なる。
1回目は、3日3夜かけて2人ずつ宿しこんで、3年3カ月ぢばに留まっている。そして75日かけて日本の各地へ生み降ろしている。
しかし、2回目以降は何日かけて宿しこんだかの記述がない。そしてぢばに留まるのは10カ月になっている。さらに、生み降ろした日数も記述がない。
この記述がない事をどのように考えるかが問題だと思う。
変更された事だけが教えられて、変更されていない事は記述されていないとも考えられるが、今の人間になって、宿しこむのは一瞬である事を考えると、変更されていないとは考えにくい。
この件については、こうした疑問があるという事にとどめておきたい。
② 表に書き忘れたが、1回目の宿仕込みには、「イザナギ・ウオ」と「イザナミ・ミ」で宿仕込みを行い、99年経って、子供が出直す時に、「イザナギ・ウオ」は身を隠した。2回目の宿仕込みは、教えられた守護によって、「イザナミ・ミ」は元の子数を宿しこみ、この子供も99年経って出直して、3回目の宿仕込みも「イザナミ・ミ」は元の子数を宿しこんだ。そして、この99年経って子供が4寸までなったのを見届けて、「イザナミ・ミ」は身を隠した。
今、これを表に現わすにはどうしたらよいかと、思案している。
「宿仕込みの時の存在」という項目を作るとするか、「生殖」という働きが、親神が人間を創ろうとして初めて行われた事とすると、「男の役」「女の役」として表を作る方がよいかとも思う。
(読んで下さる方には、まとまらずに誠に申し訳ない事であるが、書いていると次々と思い浮かぶ。そうした状況をも記している事をご了承いただきたい。)
今「男の役」と書いて思ったのだが、
「男ひながた・種」として「イザナギ・ウオ」は存在した。「イザナミ・ミ」は「女ひながた・苗代」である。この「ひながた」という言葉がとても重要だと思えた。
教祖は「人間が陽気ぐらしをするための、万人のひながた」を歩まれたのである。
「かんろだい」も、一度「ひながたかんろだい」を作り、石造りが始まった。
この「ひながた」は「手本ひながた」とも言われる。
そうすると、一度目の宿仕込みは、「男・女のひながた」が宿仕込みを行い、2回目・3回目の宿仕込みは男はひながたではなく、「男の守護を持ったものが、女ひながたに宿仕込み」を行ったと考えられないだろうか。
生まれた子供の姿形についての記述は、虫鳥畜類とめざる以外にはない事を考えると、この1回目から3回目の子供の姿はそれらには入らないような姿であったのかもしれない。
そして、「ひながた」からすると、3度目以降の虫鳥畜類「めざる」はひながたではなく、生殖の守護されたものが、人間を宿しこみ、生み育てたと考える。
ここまで、宿仕込みの事を考えて見て、確実だと思えたのは、
①地球上にある人間は、男女の夫婦の営みがあって、人間の種が宿しこまれて存在するものである事。
②宿しこんで、生まれだすまでは「女ひながた・イザナミ・ミ」一人の苦労である事である。
そして、
③人間の定義についてである。それは、月日が食べた「ドジョウ」の魂が人間の種であるという事は、男女の営みは、ただ単に人間の形をした生物を作るのではなく、魂を入れる事に意味があると思えたのである。
つまり、「イザナギ・ウオ」が「男ひながた・種の理」という意味が、ただ単に、男性の生殖機能をさすだけではなく、「人間の魂・種」を「女ひながた・苗代の理」である「イザナミ・ミ」に入れる事であると思えた。
実は、この表を作成する前に、一度「男ひながた種」の「種」と「女ひながた苗代」の「苗代」について書いていた。
今の人間で考えてみると、「種」を「精子」として考えると、「苗代」は「卵子」それとも「子宮」か?と疑問が出て来た。
鳥の卵は、卵の中でひよこになる。子宮を備えた状態ということになる。そして精子が入ったものが有精卵として、ひよこになり、精子が入らなければ無精卵として、むだ花になる事に思いが行き、そこでストップしていたのであった。
今回、この表から思案する時、苗代とは「鳥や虫であれば卵であり、人間などの哺乳類でいえば、卵子と子宮である」と思えた。
そして、「男ひながた種」の「イザナギ・ウオ」の働きを持ったものは、精子を振りかける魚ではなく、「女ひながた苗代の体内」へ送り届ける「男の生殖器」を持ったものである事に思い至った。
さらに、「女ひながた苗代」の「イザナミ・ミ」の働きを持ったものは、卵子を外へ出すものではなく、「男ひながた種」を男の生殖器から受け入れて、体内で卵を大きくする「女の生殖器」を持ったものであるとも思えた。
3回の宿仕込みをされた後、「虫鳥畜類と生まれ変わりをして」とあるが、ここに魚がないのは?と思った。
また、魚の中でも、サメは体内で子供を孵化させるとの事。すると、魚の中でも人間がなった魚もあるのだろうか?と思ったりする。
今、遺伝子を組み替えて新しい生物を作る技術が出来ているとの事だが、通常自然の中では、同じ種族間でしか交配はされない。
その種族間での交配により、その種族内で様々な種類のものが出来ている。
そうした中に、今の人間は、手足を自由に使えるとても重宝な体を与えられるまでになった。
④ 虫鳥畜類と、人間がなったという事は、人間の魂がそれらに宿っていたわけで、人間は生まれかわって他の種族になっても、その子孫は新しい魂を宿してこの地球上で生活した。と言えないだろうか。
このことについては、『正文遺韻抄』153頁「人間の数について」に、
ある時、梅谷様より、仲田様、山本様などに、『人間は、9億9万9千9百9十9人の人数と、聞かせられるが、中に、牛馬に堕ちているものも、おるとの事なれば、人間の数は、現在増えておりますか、また減っておりますか』とたずねしところ、『そんなことは知らぬから、これから神様へ伺わん』と申して、教祖の御前に伺い、仲田様より、右の次第お尋ね申し上げしに、しばらくお伺いの態にて『それは増えてあるとおっしゃる』と仰せられて、それより、その次第をお聞かせ下さるには、
『元は、9億9万9千9百9十9人の人数にて、中に、牛馬に堕ちている者もあるなれど、この世初めの時より後に、生き物が出世して、人間とのぼりている者が沢山ある。それは、鳥でも獣のでも、人間を見て、ああうらやましいものや、人間になりたいと思う一念より、生まれ変わり出変わりして、だんだんこうのうを積で、そこで、天にその本心を表してやる。すると、今度は人間にうまれてくるのやで、そういうわけで、人間に引きあげてもろうた者が、沢山あるで』と仰せられ、一同感服して、御前を下がりしという。
と書かれてある。
この事から、そのように思うのである。
ドジョウは月日に食べられて人間の種となったから、生物は人間に食べられて、人間に近づくのか?と思ったりする。
今回は、ここまでとしたい。
皆さんの思案の参考になればと思います。
どうぞ、親神様・教祖の思いが世界中に広がりますように。。