昨日のブログで、トイレの修理について書いた。
その床にはクッションフロアーを張った。このクッションフロアーで思い出す話がある。
それは、布教の家での事。
私が布教の家に行っていたのは、平成元年に代わる丁度その時である。
だから、もう卒寮してから30年を越した事になる。
以前にも書いたことがあるが、私が布教の家に行ったきっかけは、自分の信仰を取り戻すためであった。
だから、別に教えを広めようとは全然思っていなかった。
けれども、第2専修科で教えられた通り、毎日戸別訪問はしていた。
嫌気がさすと、公園で小さな原典集を開いて、おふでさきを読んだり、おさしづを読んだりしていた。
そうする中には、こんな私でも家に上げて下さって、話ができる家は数件あった。
しかし、おさづけを取り次ぎ、おぢばへ帰って頂ける方はいなかった。
そうした中に、バス団参をすることとなった。団参をするためには、一緒におぢばに帰って頂ける人を与えてもらわなければ、団参は出来ない。ましてやバス代が赤字になっては大変だと、寮生で話し合ったりした。
そして、団参が決定してから、一緒におぢばへ帰って頂ける人を与えてもらうために、毎晩12下りのおつとめをしていた。
それでも、なかなかそうした人に巡り合えない。
ある時、12下りをしている最中に、ふと「私は何のために布教の家に来たのだろうか?」と自分の事を考えた。そして「自分のためで、人のためじゃないなぁ」と思い、「昔の人は、自分のいんねんを切り替えてもらうために、とおたすけにまわったんだよな。自分のいんねんってなんだろう。もし、明日身上の人と巡り合ったら、『私をたすけるためにおさづけをさせて下さい』と言おう。」と思った。
そして、翌日においがけに出て、この通りの一列を廻って帰ろうとしたその中に、半身が不自由な方に巡り合った。
そして、その方に、「神様にお願いをさせて下さい」と願った。しかし、断られた。普通の私ならばここで引き下がってしまう。
けれども、昨日の事があったので、「私を助けると思って、お願いします。」と土間に座ってお願いした。すると、「そこまでしなくても」と言って、おさづけをさせて頂いた。
そして、「いんねんを切り替えてもらうためのにおいがけ」と思った次の日に、こんなことになるなんて、親神様はすごい。「いんねんの切り替えを願う事は大切だ」と心に刻まれた。
その方は脳梗塞を患っておられて、認知症も発症していた。その日から、何か困ったことが起こると寮に電話がかかるようになった。
寮の先生にその方の事を相談したところ、「認知症は難しい」との言葉だった。それでもと思い、電話がかかると飛んで行って、探し物をした。
そうした中に、ある日、入り口の土間をきれいにしたいという話が出て、ホームセンターでクッションフロアーを買い求めて、ひとりで張ったのだった。「きれいになった」と喜ばれた顔は忘れられない。
結局、この方は団参には行って頂けなかったが、別の日に別席を運びに行って頂けた。
他にもこの方とは様々な事があった。認知症が大分すすんでいたので、一度は息子さん夫婦と同居をした。しかし、うまく生活が出来ずに、元の家に戻って来て一人暮らしをする事にもなり、また電話がかかるとお邪魔するようになった。
当時の私の出来る神様のお話は、教典を読んで聞かせることぐらいだった。
そんなある時、身の上話を聞かせて下さった。それは、この方のお母さんが、天理教を信仰していたという事だった。当時は天理教が嫌で嫌でしかたがなくて、反対ばかりしていた。でも今お母さんの事をすごいと思う。自分はあのようには出来ない。という話だった。
この時には、若い時には分からなくても、年を取って親の姿を思い出して、お詫びが出来ればそれも大切な事なのかなぁ。と思っていた。また今思えば、だから、事あるごとにお供えを預けて下さったのだなぁと思った。
そして、私は卒寮と共に大教会へ帰る事となり、その後は、次の寮生さんに引継ぎをお願いした。
ある時、その寮生さんから電話がかかった。「胸騒ぎがして、顔を見に行ったら、土間で血を流して倒れていたので、救急車を呼んで、息子さんに連絡をしました。」との事だった。
連絡を受けても遠距離で、また私には金もなく、行くことは叶わなかったが、後にその寮生さんに会う事があり、その時の事を尋ねると、それ以来会っておらず、後の事は分からないとの事だった。
けれども、その寮生さんに胸騒ぎがしなければ、一人で出直していたはずである。息があり息子さんを呼ぶことが出来た事を不思議だと思った。
お詫び・反省の信仰と、自分勝手の信仰の違いを、会長になってから見せて頂いた人(一人暮らしで玄関で亡くなり、翌日に近所の人に発見された方)の事と比較して感じている。
この事については、またの機会にしようと思う。
癖性分に流されやすい自分である。これをしっかりと心において、日々お詫びをしながら通りたいと思う。
親神様・教祖、世界がこれまた大変な事になろうとしています。どうぞ大難は小難にとお守りくださいませ。
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