優緋のブログ

HN変えましたので、ブログ名も変えました。

戦う楽観主義 『法華経の智慧』5巻より

2022-12-06 10:38:21 | 「法華経の知恵」に学ぶ
我が身が
「永遠の仏」と
一体である。
仏とは、
この
我が生命のことである…
この大確信があれば、
断じて行き詰まりはありません。
 
苦しみを乗り越え、
悲しみを乗り越え、
惰性を乗り越えて、
無限に前進できます。
悠々たる「不退地」です。

それが仏法の楽観主義ですね。
仏法の楽観主義は
「なんとかなるだろう」
というような
"現実逃避の楽観主義"
ではない。

むしろ悪は悪として、
苦しみは苦しみとして
直視する。
そして、
それと断固、戦う。
どんな悪や苦難とも
「戦える自分自身」
信ずるのです
そういう
"戦う楽観主義" です。

『法華経の智慧』  随喜功徳品

2022-11-03 10:44:35 | 「法華経の知恵」に学ぶ
🌟 五十展転の功徳は絶大
 
須田 : 「五十展転」のところは、
このように説かれています。
まず弥勒菩薩が
「この法華経を聞いて随喜する者には、
どんな功徳、
福徳がありますか?」
と質問します。
これに対して、
仏が答えます。
如来の滅後に
─その真意は末法ということです─
法華経を聞いて随喜する者がいるとする。
それがだれであれ、
年寄でも、
若くても、
町へ行き、
田舎に行き、
静かな所、
にぎやかな所、
いろんな所へ行って、
父母、親族、友人、知人に対して、
聞いた教えを、
自分の力に応じて説く(随力演説)とする。
 
そうすると、
聞いた人々は、
また随喜して、
次の人に教えを語る。
それを聞いた人がまた随喜して、
教えを語る。

このように「転教」し、
「展転」していって
第五十番目の人に至ったとする。
 
遠藤 : 五十番目ともなると、
随喜といっても、
もうかなり薄まっているでしょうね。
 
須田 : それでも、
その人の功徳は莫大である
というのが
「五十展転」の趣旨です。
 
池田 : どのくらい莫大かというと、
日蓮大聖人が
「五十展転の随喜は
八十年の布施に勝れたり」
と言われているところだね。
 
遠藤 : はい。
「八十年の布施」というのは、
「四百万億阿僧祇の世界」に住む、
生きとし生ける者に対して、
それぞれの欲しがるものを、
何でも与える人がいたとします。
金、銀、瑠璃、瑪瑙、珊瑚など、
もろもろの宝を与え、
立派な乗り物を与え、
七宝で飾った宮殿を与える。
八十年間、それを続けます。
 
このように、「物」を与えるだけではなく、
この人は、衆生がだんだん年老いてきて、
髪が白くなり、しわが増え、
死期が近づいてきたのを見て、
仏法を教えるわけです。
 
斉藤 : 物を与えるのは「財施」。
法を教えるのは「法施」です。
物だけでは、どんなに豊かになっても、
「老」そして「死」という
人生の根本問題を、
どうしようもない。
そこに、
法を教える必要があるということですね。
 
池田 : もちろん、
この大長者が衆生に教えた大法は、
法華経以前の教えです。
 
遠藤 : はい。
そこで教えを聞いた衆生は、
皆、阿羅漢の悟りなどを得ます。
声聞の悟りです。
が、それでも「すばらしい境涯」
と思われていたものです。
 
須田 : これだけの「財施」と「法施」をやり抜いた人の功徳というのは、
「どうだ、弥勒よ、どう思う。
大変な功徳と思うか?」。
仏がそう聞きます。
弥勒は「この人の功徳は、
はなはだ多くて、無量無辺です」
と答えます。
 
すると仏は、
「この人のその大功徳よりも、
先ほど言った
『五十番目の人が法華経の一偈を聞いて、
随喜した功徳』のほうが、
もっと大きいのだ」
と説くのです。
その「百倍、千倍、百千万億倍」の、
それ以上の
無量の大功徳があるというわけです。
 
池田 : いわんや、
第一番から四十九番目までの人の功徳をや
ということです。
妙法の偉大さです。
第五十番の人は、
文字通り解釈すれば、
自分が随喜するだけで人には語っていない。
他の人に語る
「化他」の行動はないわけです。
それにもかかわらず、
それだけの功徳がある。
いわんや、
もっと歓喜し、
「化他流通」に励む人の功徳は
「無量無辺阿僧祇にして、
比ぶること得べからず(比べられない)」
(法華経五二一ページ)と説いてある。
 
「法華経の一偈」を聞いてとあるが、
文底から言えば、
「南無妙法蓮華経」
ということです。
御本尊ということです。
御本尊の話を聞いて、
「すごいな」
「すばらしいな」
「ありがたいな」─
そう思っただけで大功徳がある。
 
いわんや喜びにあふれて御本尊を拝し、
妙法を、
力に応じて「随力弘通」する人は、
絶対に、
祈りとして叶わざるなく、
福運として来らざるなく、
願いとして所願満足にならぬものはない。
そういう文証です。
 
「五十展転」──。
 
大聖人は、
一生の間に一回でも題目を唱えたり、
また題目の声を聞いて喜び、
さらにその喜びの声を聞いて喜び、
このようにして五十番目となる人は、
智慧第一の舎利弗の如き人よりも、
文殊菩薩や弥勒菩薩のような
大菩薩の如き人よりも、
百千万億倍の功徳があるのだと仰せです
〈「月水御書」、御書一一九九ページ、
趣意〉。

平成13年3月8日 「法華経の知恵」に学ぶ。『如来寿量品』

2020-11-22 16:10:34 | 「法華経の知恵」に学ぶ
北海道婦人部長 館 百合子

自身法性の大地を生死生死と転(め)ぐりゆくなり(御書P724)

18年前、年も押し詰まったある日、夜空を見上げると雪が舞うように降り続いていました。
足元は、まるで鏡のようにピカピカ。
滑らないように必死にこらえるのが精いっぱい。
四歳の娘の手を握りしめながら、不安と悲しみに包まれ、私は、故郷・北海道に戻ってきました。
その年の八月に夫が亡くなったからです。

年老いた両親が、部屋を温かくして、四歳、七歳、十一歳の三人の子どもたちと私を迎えてくれました。

思い起こせば、私が大学に入るために上京して以来、二十数年がたっていました。
まるで、あの日の続きのように、”お帰り!”と言って…。

以来、私は食事の支度をしていても、車の運転をしていても、何をしていても、夫のことばかりを考えている自分に気づきました。
それは堂々巡りのように、私の心を暗く、冷たくするだけでした。

それから一年後、池田先生が、代表メンバーで追善の勤行会をしてくださるとの知らせを受け、上京。
学会本部で先生の朗々たる勤行の声の中にすっぽりと包まれていました。
その時、涙があふれて、どうしようもありませんでした。

帰宅して元気に活動を開始した私は、ハッと気が付いたのです。
”あれほど堂々巡りだった何かが煙のように消えていた"
”なぜ?”と問われても自分でも明確に答えられるわけではありません。

しかし、『法華経の知恵』を読み進むうち、寿量品の個所にさしかかった時です。思わず、「これだ!」と膝を打つ思いにかられたのです。

先生は、こう語られています。
「人生は長い。
晴天の日だけではない。
雨の日も、
烈風の日もある。

しかし何が起ころうと、
信心があれば、
最後は全部、功徳に変わる。

戸田先生は言われていた。
「信心さえあれば、ことごとく功徳なのだよ。
信心なくして疑えば、
すべて罰だよ」と。

『永遠の生命』を信じて、この一生を生きて生きて生き抜いていくのです…
それが法華経です。
寿量品です。」
(第4巻P18)

まるで、囲炉裏の側にいて、私に語りかけているかのように思えました。
先生と勤行した後、今を生きる私の中にすべてのカギがあることを、知らず知らずのうちに心の中に刻んだのでした。

以来、前を向いて広布の真ん中を歩み続けてきた私の人生は、すべてが功徳に変わりました。
早々を生き抜いた両親もなくなりましたが、私が喜び勇んで広布の為に、同志のために戦い尽くす歓喜の生命の中に、今は亡き大事な人たちは一緒に生きていると確信します。

当時、四歳だった末娘も、今春、大学を卒業します。
年を重ねるにつけ、幸せの花を咲かせることができたこの人生…。
今度は、後継の子らの中に、広布の松明を燃やし続けるようにすることが親の使命だと思っています。

歴代会長と縁の深い三代城の北海道は、本年もまたすべてに大勝利してまいります。