徳恵姫とは、李氏朝鮮王朝の第26代国王高宗の娘であった李徳恵(い とくへ)の日本における呼び名です。
徳恵姫が生まれた1912年ごろは、韓国は日本の支配下にありましたが、父王高宗の愛を一身に受けて幸福な幼年時代を過ごしました。
しかし、1919年に高宗が急死すると12歳で東京の女子学習院に留学させられてしまいます。
朝鮮王公族の日本化が目的でした。
ですが、10歳の時からやはり日本に留学していた兄李垠とは違い、日本の社会や人間を批判的な目で眺める知性と感性を彼女はすでに備えていた。
愛する家族、懐かしい故国と切り離され、だれにも心を打ち明けられない、孤独な生活を強いられることになりました。
さらに、兄純宗の死や、母梁貴人の死にあっては、身分と「王公家規範」を盾にとって、服喪さえさせず東京へと帰らせたのです。
徳恵姫は朝鮮人にとってはアイドル的存在であり、長く朝鮮に置けば同情が彼女に集まり、その力が反日的行動へと向かうことを日本は恐れたのでしょう。
わずか十七歳の彼女の心を日本は踏みにじったのです。
やがて、徳恵は精神を病み、精神分裂症になってしまいます。
もともと内気な性格の上に、日本への留学、兄、母の死と耐えに耐えてきたものがついに彼女の心を蝕んでしまったのです。
この後、徳恵姫は宗武志氏と結婚します。
この結婚を従来は「政略結婚であったがゆえに彼らの間には愛がなかった。それゆえ徳恵は不幸であった。」と思われてきました。
しかし筆者は、「国策による結婚であったにもかかわらず彼らの間には愛があった。それにもかかわらず彼らは不幸であった。」ということを論証しています。