[二年後 結婚三年目の夏。]
もうこのころにはジュンサンの視力はほぼ失われていたが、日常生活に支障はなく、仕事もユジンとの二人三脚で順調であった。
そんなある日の朝、ジュンサンはユジンの体調の変化に気付いた。
「ユジン、どこか具合が悪いの?辛そうだよ。」
〈どうして判ったのかしら…〉
「息遣いがなんか苦しそうだからさ、熱はないようだね。」
とユジンの額に触れた。
「ごめんなさい。なんだか体がだるくて、気分も悪いの。
朝ごはん食べられそうもないわ。
風邪を引いたわけでもないと思うのに、早くも夏ばてかな?」
ジュンサンは少し考える風にして、
「ユジン、…あのさ…、生理はいつだった?」
「えっ?ええと、今月は少し予定より遅れていて…まさか!」
ユジンは顔を赤らめて、
〈やだ、私ったらぼうっとしていて、ジュンサンのほうが先に気付くなんて…。〉
「ユジン、まず病院へ行こう。
昨日薬飲んだりしていないよね。
ええと、タクシーを呼んで…。
会社に休暇の連絡もしないと…。」
いつもは落ち着いているジュンサンが慌てていた。
[ジュンサンのかかりつけの病院 産婦人科診察室]
「おめでとうございます。今八週めに入ったところです。
来週超音波診断をいたしますので、またおいでください。
つわりで気分の悪いときは無理をしないで、食べたい物をこまめに摂ってください。お大事に。」
「赤ちゃん!」
ユジンはまだ信じられない気持ちでいた。
ジュンサンが子供を望んでいることは分かっていた。
ユジン自身も早く子供が欲しかった。
だが、「縁があれば子供はできるよ。あせらず自然に任せよう。」
というジュンサンの考えを尊重して特別な治療はしてこなかった。
[自宅のマンション]
「ジュンサン、名前をつけましょう。」
「名前って、今かい?生まれる前に?」
「ええ、おかしい?
赤ちゃんはお腹にいても外の音や声が聞こえるんですって。
動くようになったら、自分の名前にはちゃんと反応するって言うわ。
本当は生まれてからお父様に付けていただくべきなのかもしれないけれど、お願い、わがまま言わせて。名前で呼んであげたいの。
毎日名前を呼んで話しかけてあげたいわ。」
「ユジン、もう決めているんじゃないかい?」
ジュンサンは笑いながら聞いた。
「ええ。ビョル。
私たちの希望の〈星〉だから…。」
「分かった。父には僕から話しておくよ。
…じゃあ、今日から君の名前はビョルだよ。
よろしく、ビョル。」
[一ヵ月後 定期健診の日]
「変わりはありませんか。尿検査のほうは問題ありませんね。」
「はい、特に変わりはありません。
つわりで食欲があまりないのと、体がだるいのが辛いですが…。」
「安定期に入るまでは、赤ちゃんのいる状態に体がまだなじんでいないわけですから、お仕事の都合がつくのであれば、なるべくゆったりした気持ちでいられるように工夫してください。
では、超音波で見させていただきます。あちらへどうぞ。」
映し出される画像を見ていた医師が言った。
「ご家族の方は今日おいでになっていますか。」
「はい、夫が来ておりますが…。」
「それでは、診察室のほうに戻っていただいて、ご主人と一緒にお話させていただきます。」
いやな予感がした。
〈どうしてジュンサンと一緒に…?〉
「大変申し上げにくいのですが、超音波診断をしたところ、お子さんの心臓はすでに停止しています。
こちらの画像をごらんいただけますでしょうか。」
医師がさっき撮ったばかりの画像と一ヶ月前の画像を対比させて見せた。
「ここが心臓です。お分かりになりますか?
ご覧のように先月の画像ではこのように拍動していたのですが、今日のは…動いておりません。」
「ユジン…大丈夫?」
ユジンは蒼白になって今にも倒れそうだった。
「チョン・ユジンさんをベットで休ませて差し上げて。それから点滴を…。」
医師は看護師を呼ぶとてきぱきと処置を指示した。
「先生、私は…画像を見ることが出来ません。
詳しく説明していただけますでしょうか。」
「それは…、失礼いたしました。
今日超音波診断いたしましたところ、お子さんはすでに心停止状態になっておられました。稽留(けいりゅう)流産と思われます。
これは、お腹の中で赤ちゃんが心停止状態になって成長していないのにもかかわらず、出血や痛みがない為に自覚症状がない流産です。
今回のように超音波診断しなければ分からないのです。」
「手術をする必要があるのですね?」
「はい。このまま入院していただいて明日手術ということも出来ますが、どうなさいますか?なるべく早いほうが良いのですが…。」
「妻はかなり精神的にショックを受けております。
落ち着きましたら今日はいったん家に戻って、よく話し合ってから手術をお願いしたいと思います。」
[自宅のマンション 夜]
「ユジン、具合はどう?辛くないのなら少し風に当たってこないか?」
[公園のベンチに座る二人]
「ジュンサン、今日は星が綺麗よ。
パリにいるとき、勉強に疲れると、よく星を見上げながらあなたのことを考えていたわ。」
「ジュンサン、手術をしなければいけないのよね。このままビョルをお腹において置けないのは分かってる…、でも…。
先生は、私のせいじゃないって、赤ちゃんに準備ができていなかっただけだって、誰が悪いわけでもない、仕方のない事だと言ってくださったけれど…。
ビョルは私たちのところに生まれてきたかったんじゃないかしら。私が守って上げられなかったんじゃないかって…。」
「ユジン…。そんなふうに自分を責めないで…。」
ジュンサンはユジンの方を向くと両手をそっと包み込むようにした。
「だって、ビョルは私たちと一ヶ月しか、たった一ヶ月しかいられなかったのよ。
どうして…。
ちゃんと生んであげたかった…。
ごめんねビョル…。」
ユジンの瞳に溢れるものがあった。
「ユジン、意味のない命なんてないんじゃないかなと僕は思う。
ビョルは君のお腹の中に一ヶ月しかいなかったけれど…、ビョルは僕たちの為に、僕たちに教えに来てくれたんじゃないだろうか?」
「何を?」
「別れの練習をしておきなさいって…。」
「……」
「あれからもう三年だよ。分かっているよね。忘れていたわけではないけれど、考えないようにしていたかもしれない。
君との満ち足りた生活で、もちろん充実して毎日大切に生きてきたつもりだけれども、終わりがあることを忘れていたような気がする。
ビョルはそれを教えに来てくれたんだよ。
そしていつか必ず来る別れのときに、残された者がその悲しみに負けてしまわないように、今のうちに二人で練習しておきなさいって、ビョルはそう教えてくれているんだよ。」