ぐぅんと体に重力がのしかかり、背もたれに押し付けられる。
飛行機は加速し、雪をかぶった家並みが次第に遠ざかってゆく…。
さようなら、韓国。僕の祖国。
さようなら、カン・ジュンサン。
さようなら…、ユジン。僕の大切な妹。家族…。
もう、会うことはないかもしれない。
会わないほうがいい。
僕のことは忘れて…。
幸せになっておくれ…。
高度が上昇して水平飛行に移ると、キャビンアテンダントたちが手際よく機内サービスを始めた。
ミヒは毛布を二枚頼むと、まだ身じろぎもせず窓の外を見つめているジュンサンに声をかけた。
「ジュンサン、少し眠ったほうがいいわ。ほとんど眠っていないのでしょう?
私も休むから。」
「ありがとう、かあさん。」
毛布を受け取りながらミヒに向けるジュンサンの微笑みはいつになく優しかった。
「僕、トイレにいってきます。」
ミヒはジュンサンの背中を見つめながら胸に広がる言いようのない不安を打ち消そうとしていた。
〈これでよかったのよね、ジュンサン。〉
シートを倒すと、ミヒは目を閉じ、数時間前のことを思い起こした。
「伯父さん、母さん、心配をさせて申し訳ありませんでした。」
ジュンサンは神妙に頭を下げた。
「母さん、僕はイ・ミニョンになります。ドンファンさんの息子になります。
どうか、イ・ドンファンさんのおっしゃる通りにしてください。」
ミヒは目を大きく見開いて
「ほんとうにそれでいいの?あんなに反対していたのに。
母さんは結婚してもいいけれど、自分は絶対カン・ジュンサンのままでいるって…。
だから、アメリカに本拠を移しても結婚するつもりはなかったのよ。
アメリカへ行くのだって、もともとあなたのためなんですもの。」
「気持ちが変わりました。
でも…、その理由は聞かないでください。
僕はイ・ミニョンとして新しい人生を生きてゆくことに決めました。
だから、さっき車に積んだ荷物は全部春川の家へ戻してください。
何も要りません。カン・ジュンサンの記憶は全部春川においてゆきます。
いつの日か、僕がカン・ジュンサンであったことが辛くなくなる日が来たら、その時自分で始末をしに行きます。それまであの家にしまって置いてください。」
「でも、何で急に…。」
しかし、ジュンサンの揺れる瞳を見たとき、ミヒはそれ以上何も言えなくなってしまった。
いつもの、射す(さす)ようなそれでいて淋しい眼差しではない。
哀しい優しさをたたえていた。
〈もう母さんを責めるようなことはしません。〉そう言っているように思えた。
「お前の気持ちは分かった。あの家の名義はミヒに替えておこう。そうすればいずれお前のものになる。好きにするがいい。
後のことは私に任せなさい。
学校には、転校ではなくお前は急死したと伝えておこう。
葬儀はソウルで家族のみでするから弔問も遠慮したいといえば、あれこれ詮索されることもなかろう。
こうなるとソウルから転校して、短期間春川にいたのがかえって良かったかもしれない。
ミヒは、ドンファンさんに早く連絡をしておきなさい。
向こうでのことはすべて良い様にしてくれるだろう。」
「わかりました、お兄様。よろしくお願いいたします。
ジュンサン、もうあなたはお休みなさい。
朝まであまり時間がないわ。」
朝になり、春川第一高等学校に連絡すると、
「そうでしたか、それはお気の毒に。お悔やみ申し上げます。
昨夜の交通事故の被害者は、カン・ジュンサン君でしたか。
お電話されているのは後見人の方で間違いございませんね。
それでは、転校の手続きは必要ありませんので、このお電話で事務処理のほうは済ませておきます。それでは失礼いたします。」
「お兄様、大丈夫でしたか?」
「ああ。急病というのも変だからどうしようかと思っていたのだが、電話を受けた事務員がこちらが何も詳しいことを言わないうちに交通事故と思い込んでくれたから、そのままにしておいた。昨夜は大晦日だったから、春川でも事故が多かったのだろう。
面倒なことにならずに済んでよかった。
ドンファンさんとは連絡が取れたのかね。
そろそろ出発したほうがいい。」
「はい、お兄様。
では、後のことはよろしくお願いいたします。
しばらくは帰ることはないと思いますので。」
学校では、ジュンサンが交通事故で死んだという噂があっという間に広がっていた。
大晦日の夜、数件の交通事故があったと朝のニュースで報道されていたが、新年のお祝いムードにかき消され、それらの事故は詳しく扱われることはなかった。
ジュンサンの死を疑うものは誰もいなかった。
「トイレはそちらでございます。」
「ありがとう。」
トイレのドアを閉めると、ジュンサンは壁にもたれて目を閉じた。
その目から一筋の涙が零れ落ちた。
〈母さん。母さんも父さんと別れたときこんなに苦しかったのですか。
心臓が無理やり二つに引き裂かれるように痛かったのですか。
その苦しみの中で、僕を見捨てずに育ててくれたのですか。
僕を見れば、父さんのことを思い出してつらかっただろうに…。
ごめんなさい、母さん。
これまでのこと、許してください。これからはよい息子になります。
ユジン。君は、今泣いているだろうね。わかるよ。
僕達は離れていても一つだから。
だからこんなに苦しくて涙が出るんだよね。
でも、その傷は君の優しい家族や仲間達や、時間がいつか癒してくれるだろう。
君には何も知らないでいて欲しい。
一番愛したい人を、親を憎まなければならないそんな辛さは僕だけでいい。
君の真っ白な心に、消えることのない黒いシミを残したくはない。〉
「お客様、ご気分がお悪いのでしょうか?」
いつまでも出てこないジュンサンを心配して、キャビンアテンダントが尋ねてきた。
ジュンサンは慌てて涙をぬぐうとトイレから出た。
「大丈夫です。少し気分が悪かったのですが、もうおさまりました。」
「お水をお持ちいたしますか?」
「いえ、結構です。冷たいタオルがあったらお願いします。」
「お席までお持ちいたしますので、少々お待ちください。」
「ジュンサン、大丈夫?」
「寝不足のせいか目が疲れました。少し休みます。
あ、ありがとう。」
シートを倒すとジュンサンは目を閉じた。
冷たいタオルが、火照った目に心地よい。
静かに溢れてくる涙をやさしく吸い取ってくれた。
「ドンファンさん。出迎えありがとう。お待たせしてしまってごめんなさい。」
「ミヒさん、お疲れ様。
ミニョン、アメリカへようこそ。
今日から君は僕の息子だ。イ・ミニョンだよ。いいね。」
「はい、お父様。」
「そんな堅苦しい呼び方はしないでおくれ。もう、ずっと前からお前のことは実の息子だと思っているのだから。」
「ありがとうございます。…お父さん。」
それでいいというように、イ氏は満足そうにうなずいた。
「気流が乱れて到着が遅れるというので、車を一度返したんだ。
来るまで、カフェで一服しようか。」
「ええ、そうですわね。ジュン…、ミニョン、行きましょう。」
「母さん、僕、少し外の空気を吸ってきたいんだ。
いいですか、お父さん。」
「ああ、行っておいで。」
「ニューヨークの風に吹かれてきます。」
「前に会った時とはずいぶん変わったね。
一回り大人になったようだ。
君に対しても、以前のようにとげとげしいところがすっかりなくなったじゃないか。
なにがあったんだい。」
「私にも何も言いませんの。
聞かないでくれって。」
「それならば、そっとしておいたほうがいい。
いつか自分から言い出すだろう。心配だろうがそうしてやろうじゃないか。」
「そう…、ですわね。」
ニューヨークの風は冷たかった。
ジュンサンはジャンパーの襟を立て首をすくめた。
ポケットに手を突っ込むと、触れるものがあった。
〈ユジンのミトン…。
返せなかったな…。
ユジン、僕は前を向いて歩くことにしたよ。
もう、過去は振り返らない。
もう、泣かない。
君も、宿命に負けないで強く生きて欲しい。
笑って分かれたから、涙は拭いて、笑うんだよ。
いいね…。〉
ユジンに触れるように、優しくミトンをなでると、その上に白い雪が落ちてきた。
美しい六角形の結晶にジュンサンの指先が触れると、それは融けて小さな水滴になった。
もう一度結晶を見ようと、手をかざしたその時、一陣の風がさっと吹いてピンクのミトンを吹き飛ばした。
ジュンサンの目にはミトンしか映っていない。
キィーッ!!
ジュンサンはピンクのミトンを握り締めたまま道路に倒れふした。
10年後
「私は、韓国に行かせるのは反対ですわ。」
「もう人事で決定したことだ。
それに、私も行ったほうがよいと思う。
君も10年ぶりのリサイタルを故国で開くんだ。
いい機会じゃないか。」
「なぜですの。
人事など、あなたの一存でどうにでもなるではありませんか。
ソウルになど行かせたら、誰に会うか。
同級生だっているのですよ。
あの子の記憶が戻ってしまうかもしれません。
そうしたらどうなさるおつもりなんですか。」
「私は、いっそその方が良いと思っている。」
「どういうことですの?
あなただって、10年前治療には賛成なさったではありませんか。」
「あのときはそうするしかなかった。
いくら催眠療法を施しても、ミニョンは苦しむばかりで思い出そうとしない。
まだ、あの子には過去の記憶が重過ぎるのだと思ったのだ。
だが、もう10年たった。
彼はすでに大人だ。
それに、この10年間彼は順風満帆でありすぎた。
失恋さえしたことがないではないか。
このままでは、ミニョンは人の痛みが分からない傲慢な人間になってしまう。
偽りの過去の上に出来上がった成功など、砂上の楼閣以外の何者でもない。
ガラス細工のように美しいだけで脆いものだ。
もう真実を知ってもよいときだと私は思うのだよ。」
「そんなきれいごとをおっしゃって…。
あなたには、私達親子がどんなに苦しんだか、やっぱりお分かりにはならないんですわ。」ミヒはそういい捨てて部屋を出た。
「母さんとお父さんが喧嘩なんて珍しいですね。」
「ミ、ミニョン…。
喧嘩なんて、ただね、もういい加減あなたを膝元から放して独立させたらってお話していただけよ。
あなたは充分建築家としてひとり立ちできる実績があるんですもの、いまさら韓国の子会社の理事になんて…。」
「僕が行きたいって言ったんですよ。
親の七光りで名前ばかりの理事で、設計はできても経営はできないなんて言わせておくのも癪ですからね。
もちろん、向こうへ行っても事務室にこもっているつもりはありませんよ。
どんどん現場に出て、陣頭指揮を執るつもりです。」
「今まで韓国になんて興味を示さなかったのに、チェリンさんと結婚したいの?」
「いずれはそうなるかもしれませんけれど、彼女が帰るから行くわけじゃありません。
なぜか分からないけれど、急に行きたくなったんです。祖国でもありますし。
今、行かなきゃいけないような気がするんです。
そうしないと何かし忘れたような気がするんです。
行ったこともないのに変ですけれど。
母さんは、僕の心配などしなくて大丈夫ですよ。
ご自分のリサイタルに集中なさってください。」
そう言って晴れやかに笑うミニョンに無理に作り笑いを返すミヒだった。
飛行機は加速し、雪をかぶった家並みが次第に遠ざかってゆく…。
さようなら、韓国。僕の祖国。
さようなら、カン・ジュンサン。
さようなら…、ユジン。僕の大切な妹。家族…。
もう、会うことはないかもしれない。
会わないほうがいい。
僕のことは忘れて…。
幸せになっておくれ…。
高度が上昇して水平飛行に移ると、キャビンアテンダントたちが手際よく機内サービスを始めた。
ミヒは毛布を二枚頼むと、まだ身じろぎもせず窓の外を見つめているジュンサンに声をかけた。
「ジュンサン、少し眠ったほうがいいわ。ほとんど眠っていないのでしょう?
私も休むから。」
「ありがとう、かあさん。」
毛布を受け取りながらミヒに向けるジュンサンの微笑みはいつになく優しかった。
「僕、トイレにいってきます。」
ミヒはジュンサンの背中を見つめながら胸に広がる言いようのない不安を打ち消そうとしていた。
〈これでよかったのよね、ジュンサン。〉
シートを倒すと、ミヒは目を閉じ、数時間前のことを思い起こした。
「伯父さん、母さん、心配をさせて申し訳ありませんでした。」
ジュンサンは神妙に頭を下げた。
「母さん、僕はイ・ミニョンになります。ドンファンさんの息子になります。
どうか、イ・ドンファンさんのおっしゃる通りにしてください。」
ミヒは目を大きく見開いて
「ほんとうにそれでいいの?あんなに反対していたのに。
母さんは結婚してもいいけれど、自分は絶対カン・ジュンサンのままでいるって…。
だから、アメリカに本拠を移しても結婚するつもりはなかったのよ。
アメリカへ行くのだって、もともとあなたのためなんですもの。」
「気持ちが変わりました。
でも…、その理由は聞かないでください。
僕はイ・ミニョンとして新しい人生を生きてゆくことに決めました。
だから、さっき車に積んだ荷物は全部春川の家へ戻してください。
何も要りません。カン・ジュンサンの記憶は全部春川においてゆきます。
いつの日か、僕がカン・ジュンサンであったことが辛くなくなる日が来たら、その時自分で始末をしに行きます。それまであの家にしまって置いてください。」
「でも、何で急に…。」
しかし、ジュンサンの揺れる瞳を見たとき、ミヒはそれ以上何も言えなくなってしまった。
いつもの、射す(さす)ようなそれでいて淋しい眼差しではない。
哀しい優しさをたたえていた。
〈もう母さんを責めるようなことはしません。〉そう言っているように思えた。
「お前の気持ちは分かった。あの家の名義はミヒに替えておこう。そうすればいずれお前のものになる。好きにするがいい。
後のことは私に任せなさい。
学校には、転校ではなくお前は急死したと伝えておこう。
葬儀はソウルで家族のみでするから弔問も遠慮したいといえば、あれこれ詮索されることもなかろう。
こうなるとソウルから転校して、短期間春川にいたのがかえって良かったかもしれない。
ミヒは、ドンファンさんに早く連絡をしておきなさい。
向こうでのことはすべて良い様にしてくれるだろう。」
「わかりました、お兄様。よろしくお願いいたします。
ジュンサン、もうあなたはお休みなさい。
朝まであまり時間がないわ。」
朝になり、春川第一高等学校に連絡すると、
「そうでしたか、それはお気の毒に。お悔やみ申し上げます。
昨夜の交通事故の被害者は、カン・ジュンサン君でしたか。
お電話されているのは後見人の方で間違いございませんね。
それでは、転校の手続きは必要ありませんので、このお電話で事務処理のほうは済ませておきます。それでは失礼いたします。」
「お兄様、大丈夫でしたか?」
「ああ。急病というのも変だからどうしようかと思っていたのだが、電話を受けた事務員がこちらが何も詳しいことを言わないうちに交通事故と思い込んでくれたから、そのままにしておいた。昨夜は大晦日だったから、春川でも事故が多かったのだろう。
面倒なことにならずに済んでよかった。
ドンファンさんとは連絡が取れたのかね。
そろそろ出発したほうがいい。」
「はい、お兄様。
では、後のことはよろしくお願いいたします。
しばらくは帰ることはないと思いますので。」
学校では、ジュンサンが交通事故で死んだという噂があっという間に広がっていた。
大晦日の夜、数件の交通事故があったと朝のニュースで報道されていたが、新年のお祝いムードにかき消され、それらの事故は詳しく扱われることはなかった。
ジュンサンの死を疑うものは誰もいなかった。
「トイレはそちらでございます。」
「ありがとう。」
トイレのドアを閉めると、ジュンサンは壁にもたれて目を閉じた。
その目から一筋の涙が零れ落ちた。
〈母さん。母さんも父さんと別れたときこんなに苦しかったのですか。
心臓が無理やり二つに引き裂かれるように痛かったのですか。
その苦しみの中で、僕を見捨てずに育ててくれたのですか。
僕を見れば、父さんのことを思い出してつらかっただろうに…。
ごめんなさい、母さん。
これまでのこと、許してください。これからはよい息子になります。
ユジン。君は、今泣いているだろうね。わかるよ。
僕達は離れていても一つだから。
だからこんなに苦しくて涙が出るんだよね。
でも、その傷は君の優しい家族や仲間達や、時間がいつか癒してくれるだろう。
君には何も知らないでいて欲しい。
一番愛したい人を、親を憎まなければならないそんな辛さは僕だけでいい。
君の真っ白な心に、消えることのない黒いシミを残したくはない。〉
「お客様、ご気分がお悪いのでしょうか?」
いつまでも出てこないジュンサンを心配して、キャビンアテンダントが尋ねてきた。
ジュンサンは慌てて涙をぬぐうとトイレから出た。
「大丈夫です。少し気分が悪かったのですが、もうおさまりました。」
「お水をお持ちいたしますか?」
「いえ、結構です。冷たいタオルがあったらお願いします。」
「お席までお持ちいたしますので、少々お待ちください。」
「ジュンサン、大丈夫?」
「寝不足のせいか目が疲れました。少し休みます。
あ、ありがとう。」
シートを倒すとジュンサンは目を閉じた。
冷たいタオルが、火照った目に心地よい。
静かに溢れてくる涙をやさしく吸い取ってくれた。
「ドンファンさん。出迎えありがとう。お待たせしてしまってごめんなさい。」
「ミヒさん、お疲れ様。
ミニョン、アメリカへようこそ。
今日から君は僕の息子だ。イ・ミニョンだよ。いいね。」
「はい、お父様。」
「そんな堅苦しい呼び方はしないでおくれ。もう、ずっと前からお前のことは実の息子だと思っているのだから。」
「ありがとうございます。…お父さん。」
それでいいというように、イ氏は満足そうにうなずいた。
「気流が乱れて到着が遅れるというので、車を一度返したんだ。
来るまで、カフェで一服しようか。」
「ええ、そうですわね。ジュン…、ミニョン、行きましょう。」
「母さん、僕、少し外の空気を吸ってきたいんだ。
いいですか、お父さん。」
「ああ、行っておいで。」
「ニューヨークの風に吹かれてきます。」
「前に会った時とはずいぶん変わったね。
一回り大人になったようだ。
君に対しても、以前のようにとげとげしいところがすっかりなくなったじゃないか。
なにがあったんだい。」
「私にも何も言いませんの。
聞かないでくれって。」
「それならば、そっとしておいたほうがいい。
いつか自分から言い出すだろう。心配だろうがそうしてやろうじゃないか。」
「そう…、ですわね。」
ニューヨークの風は冷たかった。
ジュンサンはジャンパーの襟を立て首をすくめた。
ポケットに手を突っ込むと、触れるものがあった。
〈ユジンのミトン…。
返せなかったな…。
ユジン、僕は前を向いて歩くことにしたよ。
もう、過去は振り返らない。
もう、泣かない。
君も、宿命に負けないで強く生きて欲しい。
笑って分かれたから、涙は拭いて、笑うんだよ。
いいね…。〉
ユジンに触れるように、優しくミトンをなでると、その上に白い雪が落ちてきた。
美しい六角形の結晶にジュンサンの指先が触れると、それは融けて小さな水滴になった。
もう一度結晶を見ようと、手をかざしたその時、一陣の風がさっと吹いてピンクのミトンを吹き飛ばした。
ジュンサンの目にはミトンしか映っていない。
キィーッ!!
ジュンサンはピンクのミトンを握り締めたまま道路に倒れふした。
10年後
「私は、韓国に行かせるのは反対ですわ。」
「もう人事で決定したことだ。
それに、私も行ったほうがよいと思う。
君も10年ぶりのリサイタルを故国で開くんだ。
いい機会じゃないか。」
「なぜですの。
人事など、あなたの一存でどうにでもなるではありませんか。
ソウルになど行かせたら、誰に会うか。
同級生だっているのですよ。
あの子の記憶が戻ってしまうかもしれません。
そうしたらどうなさるおつもりなんですか。」
「私は、いっそその方が良いと思っている。」
「どういうことですの?
あなただって、10年前治療には賛成なさったではありませんか。」
「あのときはそうするしかなかった。
いくら催眠療法を施しても、ミニョンは苦しむばかりで思い出そうとしない。
まだ、あの子には過去の記憶が重過ぎるのだと思ったのだ。
だが、もう10年たった。
彼はすでに大人だ。
それに、この10年間彼は順風満帆でありすぎた。
失恋さえしたことがないではないか。
このままでは、ミニョンは人の痛みが分からない傲慢な人間になってしまう。
偽りの過去の上に出来上がった成功など、砂上の楼閣以外の何者でもない。
ガラス細工のように美しいだけで脆いものだ。
もう真実を知ってもよいときだと私は思うのだよ。」
「そんなきれいごとをおっしゃって…。
あなたには、私達親子がどんなに苦しんだか、やっぱりお分かりにはならないんですわ。」ミヒはそういい捨てて部屋を出た。
「母さんとお父さんが喧嘩なんて珍しいですね。」
「ミ、ミニョン…。
喧嘩なんて、ただね、もういい加減あなたを膝元から放して独立させたらってお話していただけよ。
あなたは充分建築家としてひとり立ちできる実績があるんですもの、いまさら韓国の子会社の理事になんて…。」
「僕が行きたいって言ったんですよ。
親の七光りで名前ばかりの理事で、設計はできても経営はできないなんて言わせておくのも癪ですからね。
もちろん、向こうへ行っても事務室にこもっているつもりはありませんよ。
どんどん現場に出て、陣頭指揮を執るつもりです。」
「今まで韓国になんて興味を示さなかったのに、チェリンさんと結婚したいの?」
「いずれはそうなるかもしれませんけれど、彼女が帰るから行くわけじゃありません。
なぜか分からないけれど、急に行きたくなったんです。祖国でもありますし。
今、行かなきゃいけないような気がするんです。
そうしないと何かし忘れたような気がするんです。
行ったこともないのに変ですけれど。
母さんは、僕の心配などしなくて大丈夫ですよ。
ご自分のリサイタルに集中なさってください。」
そう言って晴れやかに笑うミニョンに無理に作り笑いを返すミヒだった。