先日新聞記事で、子ども達に交通ルールを教える『交通教室』のような時間で、最近気になる光景があるということが載っていました。
それは、「交通ルールを守らないとこんな風になるんだよと」人形がおもちゃの車や自転車で轢かれるという場面を見せた時の子どもたちの反応が、以前であればそれだけで泣き出す子さえいたのに、今の子は笑うというのです。
もし本当の人であれば死ぬか怪我を負うわけですから、当然笑う場面ではありません。それなのに笑う。
poppoさんも指摘されていたように、その教室の先生もメディアでの笑いのとりかた、弱いものを皆でいじめたり、人の弱点を論う(あげつらう)、それを大人たちが見て笑うという構図が原因の一つになっているのではないかと書かれていました。
つまり子供たちは、幼いころからテレビの中で人がいじめられて嫌がっていたり、笑われているのを、親や周りの大人がそれを見て笑っているのを見て育つ。
人が悲しんだり、嫌がったり、辛い思いをしているのを笑うものだと学習してしまうわけです。
ここに、今の「いじめ問題」の一つの根があるのではないでしょうか。
自分の快楽のみにおぼれて、人の苦しみ、悲しみに同苦できない貧しい心。
そんな心の子ども達にしているのは私たち大人の責任といえます。
私の夫は韓国ドラマや映画は「くさい」といって嫌います。
「よく内容も知らないくせに。」と私は反論します。
別に、好きになって一緒に見て欲しいとは思いませんが、批判をするなら中身を知ってからにして欲しい。
私がユジンやジュンサンに惹かれるのは、自分の幸せだけではなく、愛する人や周りの人に幸せになって欲しいと苦悩するからです。
韓国のドラマや映画には必ず家族や友人が濃密に絡んできます。
その中で主人公達は愛し合い、苦悩します。
それを見て、私は悲しいことは悲しいと涙を流し、ずるい奴には腹をたて、幸せになれば共に喜べる自分を確認して安心するのかもしれません。
poppoさんは、「単なるお涙頂戴のストーリーで終わらせるつもりはない。」とおっしゃっています。
私も、私なりの想いを込めてサイドストーリーを書きました。
それが読んでくださる方に伝わったかどうかそれは分かりません。
(私の筆力のなさが気になるところです。)
poppoさんの主張に同意できる部分も多いですが、私の考えとはちょっと違うなと感じるところもあります。
それは私の作品を読んだ方も同じだと思います。
人それぞれ、考え方も違いますから。
でも、この『堅物』を読んで、なぜpoppoさんが『冬ソナで泣きたい!』というタイトルにされたのか、分かったような気がしました。
今の私達に欠けているもの、それは人の痛みを感じ取る想像力(相手を思いやる心)なのでしょう。
poppoさんは、「冬ソナ」で泣くことによって、それを取り戻そうよと呼びかけている…、のかなと思いました。(私の勝手な解釈ですが。)