紫陽花記

エッセー
小説
ショートストーリー

別館★写真と俳句「めいちゃところ」

春うらら

2020-05-01 08:37:08 | 風に乗って(おばば)


 春うらら

 お婆は、温もりのある日差しに誘われて丘に登った。雲はなく、風もない。
 決まってこの季節は、新しいものに挑戦してみたくなる。人生を長く歩んできて、怖いものもなくなったようだが、初めての事はやっぱりドキドキする。

 青々と茂る柔らかそうな葉。新芽の茎は赤紫で、指でちぎっても簡単に摘めた。
 赤紫の茎の色はすっかり湯に溶け出している。その湯の中で、真っ青に茹で上った野草は、少し苦味のある香りがした。
 お婆は、醤油を垂らすと、おもいきって口に入れた。苦味と青臭い香りが、ふわりとひろがった。噛む時『うまい』と思った。
 真っ白いご飯に載せて。塩をひと摘み入れた赤紫の汁をすすると、くどい苦味が、体の隅々まで清めてくれそうな気がした。

 村はずれの坂道を、母親が歩いてくる。黒っぽい着物に草履を履いて。しゃっきりとした足取りで元気そうだ。話かけても何も言わず、明るい顔は笑っている。
 とうの昔に逝った母は、裾をひるがえし一回転すると、こちらを向いて、川向こうを指さした。
 お婆は、年頃の娘に戻っていた。
 母は、ここは実に面白い所だと誘った。血の海は、盥船さ。針の山なんか、何の事はないと、ワラジで登っていく。お婆も登っていく。血の滴る足裏からの苦味が心地良い。血の後を、無数のミミズが追い縋ってくる。
 谷向こうから青い小鳥が飛び立った。
 咲き競う色とりどりの花の香が、風に乗って踊っている。陽気な歌声がだんだんに近づいてきて、耳の側で一気に轟いた。

 お婆は、自分のうめき声で目覚めた。
 口の中に青臭い苦味が残っていた。