161217 事実と自己というもの ブログを書きながらふと立ち止まる
今朝も結構冷えました。今日は作業の日。納屋で作業着(といっても着古した上下)に着替えるのに鳥肌が立ち、一瞬、覚悟がいる思いになります(大げさですが)。そして今朝は枯れ草を焼きながら、少し柿畑のセイタカアワダチソウが2m以上伸びているのを刈りました。
そのときどきで、どのように火を付けるか、適当に考えながら、やっています。当初は、失敗して急に燃え上がり、飛び火して驚いたりしましたが、この時期では乾燥していても、風もかなり強くても、燃えさかり、畑全部に焼け広がるといった状況にはないので、寒さを覚悟しながらのんびりやっています。むしろ煙が大変です。とくに朝早いと、土壌も凍結状態とまでいかなくても、かなり湿っていて、空気の乾燥程度では土の湿気に勝てません。
昔、北極海沿岸の集落を訪れたとき、先住民に案内してもらって、凍土の下、10mまで降りていき、捕獲した魚の貯蔵庫を見せてもらいましたが、壁はまさに凍土です。氷に輝く美しさです。こういった北極圏の凍土を見ると、わが国の土壌はなんて豊かなのかと改めて思います。それでいてなにかと苦情というか、肥沃でないとか文句を言うのはどうかと思うのです。
話変わって、今日は新聞を見ても、なにか書きたい気分にならず、昨夜のTVやネット情報でも、どうも書く気分が起こらないのです。なぜだろうと思いつつ、なぜこういうブログを書くようになったのかを、改めて考えてみることにしました。
自分というものがなにかよくわからない、そういう自意識があったのではないかと思うのです。そして、30年以上前だったかと思いますが、たしか当時読んでいたのが日経新聞でしたので、その記事に時折、立ち止まってなにか考える自分があるのです。
それはミヒャエル・エンデが書いたものを要約して紹介していたかはっきりしませんが、おおよそ次のような内容です。イギリスだかどこかの考古学の発掘調査隊といったメンバーが、どこかの山岳地帯を先住民シェルパを連れてどんどん進んでいました。調査隊は、調査目的や調査機関の制約があるので、時間を切り詰め計画通りやっていたのですが、突然、ある場所にきて、先住民の人たちが立ち止まり、一歩も前に進もうとしないのです。なぜか理由が分かりません。後で分かったのか、そのとき説明があったのか、そこは覚えていませんが、要するに、彼らは自分たちの魂が追いつくのを待っているというのです。
それは先進国の人と言われ、とりわけ研究者といった人は、合理的な目的をもち社会が求める適切な行動をとることが当然と思うわけですが、そのように一つの目的に向かって邁進することにより、最も大切な心の拠り所的なものを喪失しているのではないかといった問いかけではなかったかと、おおよそそんな理解を私がして、今日も急に思い出したわけです。
いま当然のように日々行っているさまざまな行動は、本当にやらなければならないものなのか、なんのために行っているのか、いや自分というものはなぜ存在しているのか、その存在意義も含め立ち止まって見直してもいいのかなと思ってしまったのかもしれません。
だいたい、さまざまなニュースや情報が飛び交いますが、たとえば新聞休刊日とか、TVのスイッチをオンしないと、それは自分の意識の外になります。とはいえ事実は存在するのでしょう。が、自分にとっては無かもしれません。自分というものが昨日と今日は別、いや瞬間、瞬間が別と考える場合、よりそれが現実味を帯びてきます。
では日々経験すること、あるいは見聞することについて、ブログを書くことにより、むろんいくつかの選択を重ねた上、たる事柄をまな板に載せる、それを自分というものがあるという前提で、自分なりに表現する、それがとりあえず自分の意識とか、考えとして、暫定的には存在するのかもしれないと思うのです。
テーマを限定しないで、日々情報として入ってきたものから、書いてきましたが、それだから、自分というものがどこかに成立してきたかは、まだなんともいえません。仮の自分なのでしょう。
そもそも事実というものがあるのか、あるとしてどのように存在するのか、それは相対的なものではないでしょうか。たとえば、訴訟では、あるAという事実は客観的に存在することは求められません。ちょっと例にとれば、お金を貸したので返してくださいという貸金(返還)請求事件であれば、実際に貸したかどうかは、金銭消費貸借契約書や借用証などの書類で証明できるとか、口頭約束ならそれを証言で証明できるとか、そういうことで貸したことが認定されるだけです。そういう書類があっても偽造されたものであるといった相手の反論(抗弁)が証明できないと、貸した事実が認定されるのに過ぎないだけで、実際は貸した事実がなくても証明責任の世界で決着されるのです。
返せという請求も、いや返済したという証明ができないと、実際は返済していても、返済していないことになり、判決では支払えということになります。
事実というか、真実がどこにあるかは簡単でないことが少なくない場合があります。訴訟の技術が優れているから、自分の方に有利に事実認定されるといったこともあるでしょう。
しかし、本当に事実はあるのかどうか、私が見聞している、体験している限り、それは事実としては存在するといえるような気がしています。しかし、私自身の見方、認識能力も、人がもつさまざまな限界を超えることができません。まして表現するとなると、また認識した事柄と微妙なずれが生じる可能性があります。さらに言えば、当事者、関係者の話になると、余計、そのような誤謬というか、一人の人間においてすら、認識し、理解し、表現する中で、一致する事実というものが複雑な関係になればなるほど、揺らいでくるように思うのです。
いやいや事実が本当にあるのかは、やはり見聞していても分からないかもしれません。そこがこのブログを書く意図の一つのように思っています。私のブログでは、ほとんどの材料は第三者の情報です。それにはバイアスもあれば、誤認もあるでしょう。それを前提にしながら、いろいろ書くのもおそろしいといえばそうなります。とはいえ、事実がほんとうに存在するか分からないのが真実と考えれば、真実に近づく一つの方法として、また、自分の無知を知る一つの機会として、表現する場と考えてもいいのかなと思ったりします。
なにかわかったようなわからないとりとめのない話になりました。
最後に塩沼亮潤著「忘れて捨てて許す生き方」の最初に書かれている一説を取り上げます。
「どんなことがあっても、人を恨まず、嫌わず、広い心で許す。この寛恕の心がまわりまわって穏やかな心となって人生に返ってきます。」
聖徳太子が指摘し、空海も断言している表現を現代風に見事に表現しているように感じてしまいました。自分が分からなくても、他人が分からなくても、この心を持てるようになれば、人生はよりよくなるのかなと感じています。
今日は閑話休題です。ときどきあったらいいなと思う、足湯のごとくぬるま湯に浸れたらいいかなと思うのです。