たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

物からの自由と平等?? 最判変更と西行・良寛の生き方

2016-12-20 | 心のやすらぎ・豊かさ

161220 物からの自由と平等?? 最判変更と西行・良寛の生き方

 

今朝の毎日は、最高裁大法廷が、預貯金は当然に相続分に応じて分割されるとしてきたこれまでの判例を変更した判断を取り上げています。具体的には「預貯金は法定相続の割合で機械的に分配されず、話し合いなどで取り分を決められる『遺産分割』の対象となる」との判断です。生前贈与を受けた人とそうでない人の相続人間の平等を図ったとされています。

 

とはいえ、生前贈与などは、特別受益とされ、その価額を加えたものが相続財産とされることや、被相続人が特別受益に含めないといった意思を明示して贈与等している場合は、対象外となることは、民法903条で定められていますので、本条の取扱が変わるわけではありません。単に預貯金の取扱について、遺産分割において同条の趣旨を踏まえて、相続人間の公平さを徹底しようとしたともいえるかと思います。

 

たしかに現行民法が旧民法の家督相続制を廃し、憲法の精神を具現化するかする趣旨で、個人の尊厳、平等を相続において規定した現行相続制度は、遺産分割でなにかとトラブルとなり、家裁での調停・審判となることも少なくないことはよく見聞されることかと思います。

 

このような相続制度は、相続税による所得再配分を除けば、故人の遺産は遺族に承継されるもの、相続人間は配偶者の地位を確保すると同時に、嫡出・非嫡出の差別を設けず、子の間では機械的平等を図ってきたかと思います。

 

ところで、同じ毎日の宮下誠氏の「風景を歩く」欄で、高野街道を取り上げていました。高野街道は、古くは橋本市小田から九度山町の慈尊院まで船渡しで渡り、そこから町石道を上っていたのです。そして秀吉の高野山攻めを救った応其上人が橋本を拠点にまちづくりをした後(彼はいくものため池修復などの橋本市の礎を作ったとされます)、大阪から紀見峠を超えて高野街道を降りてくると、まっすぐ南に船渡しをすると、紀ノ川南岸の賢堂に到り、川沿いに西に下り、学文路から九度山・河根を上る京大坂道がメインルートになったとされています。二つの渡し場はおおよそ一里くらい離れています。

 

この賢堂、対岸の東家には常夜灯が川岸に立っていて、往事を忍ぶことができます。賢堂から学文路に向かう道筋には宿場や商家が賑わう紀伊清水の古い家並みが今なお当時の面影を残しています。その紀伊清水の街道の一画に、西行庵と銘打った小さな建物があります。その中に入ると、たしかに西行の木彫り像が空海像とともにしっかり座しています。地元の伝承では、西行が高野山と都を往復する中で、ここで時折滞在していたとも言われています。しかし、西行が生きていた頃、船渡しはおそらく小田から慈尊院へというかなり下った場所だったと思われるので、船で渡った後、ここまで引っ返す理由があったか疑問がでてきます。

 

西行伝承はいろいろ各地にあり、どこまで信頼性があるのかと疑念を抱くより、西行さんがここでどんなことをしていたのだろうとか、もしかして和歌の中には、ここで創案したものもあったのかなと思う方がいいように思えます。

 

とまた横道にそれてしまいましたが、西行がなぜ高野山に30年近く滞在したか、気になっていることと関係します。西行は、慈尊院のさらに西方5里くらい下った現在の紀の川市打田・竹房周辺を領地とする田仲荘の跡継ぎでした。生まれについては諸説あるので、省きますが、実家の力で北面の武士となり、出世街道を上る文武両道の人でした。その西行が、妻子を捨て、北面の武士を退いたばかりか、当然ながら、実家の荘園管理者の地位を弟に託しています。当時は長男が家督を相続することが一定の身分の世界で一般だったと思われます。家族も名誉・地位も、そして遺産もすべて捨て去ったところに、西行の清廉さを感じることもできるかもしれません。出家するのだから当たり前といえばそうかもしれませんが、親友・清盛はその地位・財産を手元に置いて出家しています。簡単にはいえないように思うのです。

 

そして西行は、終生、和歌の道を探求している、とも見えるのです(私は西行の研究者のようにとくに調べたこともないので、ちょっと研究書を読んだ程度の知識なので信頼性は低いと思って結構です)。そういいきれるか、西行の和歌を理解できていない私には違った見方もあるのではと思ってしまうのです。たしかに月や花、山や川など感情のままに歌い上げているようにも思えます。他方で、彼は自分が生きた戦乱や飢餓、庶民の苦しみ、田畑で働く農民の生活を一度も歌っていないように思います。現実を見なかったのでしょうか、いやそうではないと思うのです。

 

高野山に移ったのはなぜでしょう。彼は当時、最も信頼していた僧の一人は、覚鑁だったのではないかと思うのです。その覚鑁が高野山を追われ、根来寺に拠点を構えた後、紛争まっただ中の高野山に入ったのは不思議な気がします。その当たりの事情は研究書からはうかがえません。

 

当時、高野山の領地とされていた桃山の荒川荘と田仲荘は境界争いなどで紛争し、弟が高野山の圧力に悩んでいたといった記述がどこかに書かれていたのを記憶しています。高野山は、1692年の高野弾圧があるまで、長く荒武者のごとき行人僧が跋扈していたのではないかと思います。その圧力に自分が譲った荘園領地が脅かされ、弟が苦悩していることを懸念していたというのは、本来の出家僧としてはありえないことですが、西行の場合、ありえたのではないかと愚考するのです。

 

田仲荘を少し東に行くと、桛田荘がありますが、そこは西行と同じ時代に北面の武士となり、出奔した文覚上人が川から水を引き水田をつくったとの伝承があり(文覚井)ます。文覚はもちろん、弟子筋で同じ紀伊出身で地元を大事に思っていた明恵上人も西行を敬愛というか尊敬していたと思われます。西行にも領地保全というか、弟への協力の意図がなかったとはいいきれないと思っています。

 

西行は、高野山の復興のため、勧進活動を熱心にしていますが、それは高野山と争う弟の領地保全と関係しなかったともいいきれないのです。このような親族的な関係といえば、奥州平泉の同年配であった藤原秀郷との交誼であり、世俗僧・重源の大仏復興の依頼を受けて、秀郷に勧進を求めたのも、自らの財産を一切もたず、清廉であったからこそ、できたのではないかと思うのです。

 

かなり粗雑な論理となりましたが、西行の話は今後も続くので、今日のところはこの程度にします。

 

もう一人、財産も地位も名誉も、一切自ら排していた良寛を取り上げておきたいと思います。良寛については、多くの人がその清廉性を強調し、実際、彼の和歌には、西行とはまったく異なる表現で、その厳しい越後の冬を隙間だらけの庵で、薪の残り灰のみに命を預けるような真剣な歌を多く作っています。

 

その良寛も、越後の裕福な商家に生まれ、長男として跡継ぎを期待されながら、弟に身代を譲り、自らは出家して、寺の住職にもならず、日々の生活の糧もなく過ごす、真摯な生き方をした人と思い、いつも心の拠り所にしています。

 

最近、田中圭一著「良寛の実像」を読んで、違った見方を見事な検証作業で、言及している点は、改めて良寛について考えさせるものがあります。とはいえ、財産というものとの関係は簡単ではないことは事実で、いかに付き合うか、どのような人生を歩もうと、生涯にわたり、真摯に考えることかなと思っています。良寛は、しかし、やはり意識としては考えていなかったのかなと思ったりしています。それはヘンリー・D・ソロー以上に、真剣だったのかもしれません。

 

今日もタイトルから大きく離れてしまった感じが否めないですが、タイトルはとってつけた物と考えておいてください。