161219 なぜ人は欺すのか 金融庁が業者にダメだし、で大丈夫?
今朝の毎日は、「マネー編 金融庁、業者にダメ出し」のタイトルで、「金融機関の個人投資家を軽んじた販売手法に“ダメ”出しする一方、現役世代が毎月一定額の資金を投資しやすい積み立て型NISA(少額投資非課税制度)など優遇措置もとる。」として、消費者庁なみに規制の強化を図ったような記事が掲載されていました。といっても金融庁が消費者保護に邁進するはずもなく、どの当たりを狙っているのか、少し気になりました。
ついでに金融庁と消費者庁のホームページから、消費者向けのパンフレット的なものを見て比較すると、後者はさまざまな商品・サービスを対象にしているので切り口も多いですが、前者は金融商品を対象にしているので、その限りでその販売方法の具体的な問題性を明確にしているともいえます。
とりあえず、ここでは詐欺的とか言われていますが、本質は欺すということですね。さまざまな問題商法のうち、欺すということについて、今日は少し考えてみようかと思うのです。
あの安土桃山時代に大泥棒として君臨し、煮えたぎる大釜に入れられて処刑された石川五右衛門の辞世の句は有名ですね。
「石川や 浜の真砂は 尽くるとも 世に盗人の 種は尽くまじ」
たしかに昔から盗人はいけないことの代表の一つでした。モーセの十戒でも「盗んではいけないこと」と重視されています。仏教の五戒でも「不偸盗戒」とされています。おそらく太古の時代から禁止される代表の一つだったのではないかと思います。
では欺すことはどうだったのでしょうか。宗教的な戒律がどうだったか、私の狭い知識ではよく分かりません。少なくとも、上記の十戒や五戒には含まれていません。ただ、玄侑宗久氏が精進料理等(できればぜひこの中のコンニャクの精進の話を読んでいただきたい、玄侑ファンの一人としてはいい話なので)について触れた中に、「『スッタニパータ 』には「生き物を殺すこと、打ち、切断し、縛ること、盗むこと、欺すこと、他人の妻に親近すること、…これがなまぐさである。肉食することがなまぐさいのではない」とも書かれている。」とのことです。スッタニパータは南伝仏教のパーリ語経典の小部に収録された経典のこと(ウィキペディア)とされていますので、少なくとも以前の小乗仏教では詐欺は許されないこととされていたのでしょう。
しかし、欺すことはいけないこと、しかも刑罰を科すとか、民事上も違法な行為とされるようになったのはいつ頃からでしょうか。私の感覚ですが、商売、商行為というものが普及するのに時間があり、それが普及する中でも、一定の嘘はまかり通る時代が長くあったのではないかと思うのです。残念ながら。そういった行為について、宗教的にも法令的にも規制するのが遅れたのではないかと思っています。そのためか、商売で利益を得るには一定の欺すというのは、欺される方が悪いとか、商売がへたとか、未熟とか、と言われる時代が長く続いたのかと愚考しています。
しかしながら、商売は信用の世界とも、信頼こそ基本とも言われます。誠実さが求められるのではないかと思うのです。ただ、その信頼というものは裸の信頼ではなく、よく吟味された上での信頼関係ということではないかと思うのです。つまりは、本来の商人というのは、相手をよく吟味し、その商いのやり方、説明が裏付けあるものかを吟味した上で、信頼関係を築いて成功するのではないかと思うのです。
このような商売、商業は、資本主義以前では有効に機能したのかもしれません。資本主義社会では、市場を前提に競争し、対立する当事者として登場するわけですね。商売人同士ならある程度わかりますが、商売人と消費者とが競争社会の当事者として登場するわけですので、そのとき欺すことは、信頼の前提の基礎を欠いていると思うのです。
企業同士も欺し合う可能性が少なからずありますが、お互いが協議や契約書を通して、その内容を定義づけ、欺されることを回避ないし最小化する配慮がされるでしょう。といっても、アメリカのような長文の契約書を取り交わしても、欺したとまでいえなくても、契約内容が裏切られることも少なくないわけですから、不思議なものです。
しかし、消費者、とくに高齢者や成熟していない成人を相手にする取引は、業者側にとってはいいカモになるおそれが大です。人は相手の言葉を信頼するように、教えられるのが普通でしょうし、人と接する場合に相手の言葉を信頼するように自分を無意識的に律する傾向もあるように思うのです。ま、欺されやすいわけでしょうか。では人はなぜ他人を欺すのでしょうか。
人は利益を求める存在でしょう。そこから、あくなき利益を追求し、相手が知識なり能力が劣っていれば、それを利用して、嘘を言って欺して利益を獲得することも、分からなければ、捕まらなければ、いいと思うのでしょうか。欺される方が悪いと思うのでしょうか。世の中は欺し欺される社会だと割り切っているのでしょうか。
残念ながら、私の思いつきの推測では、この程度でとりあえずおしまいにします。ただ、現代では五右衛門が吠えた泥棒以上に、詐欺犯の方が悪質で、その数も浜の真砂のごとく次々と拡散し、わき起こってきます。それに対する行政の取り組みや弁護士会、消費者センターなどの取り組みでは、対応できない状況でしょう。
金融庁の詐欺的商法への警鐘や規制は、一定の悪質業者にはそれなりに対応できると思いますが、はたして悪質業者だけが問題かは疑問です。大手の証券会社・金融会社などの販売法は、決して適正とは思われません。
たとえば、大手企業の担当者でも、平気で外債が安全で、利率が高い、さらには元金保証に近い約束までして購入させる手法は相当広範に行われていると思います。為替変動のリスクに対する適切な説明もないため、その変動により実質価値が2割ないし数割目減りすると、今度は別のもっとリスキーな外債を利率が当然ながら高いことから、前者を売らして、後者を買わすことにより手数料収入を上げることも平然と行っています。
現在の金融商品は極めて複雑で容易に理解できない構造になっているのに、高齢者を含め知識の乏しい人に対しても、ありきたりの説明で購入させるやり口は、悪質業者の場合もっっと強引でしょうが、名の通った登録業者であっても、問題のあるやり方がいまなお残っていると思います。
その点、消費者庁のホームページは、取引弱者に対して、周囲の介護サーブスをする人や、民生委員などへも注意を喚起することを呼びかけている点は評価できます。といっても、この種の取引は、基本的に本人に誰にも秘密にして行うように計画されていますので、実際のところは周囲の人が気づくのは本人とよほどの信頼関係を築いていないと、難しいでしょう。
だらだらと書いてしまいましたが、なぜ人は欺すのかは、スッタニパータにも禁断の一つに挙げられているわけですから、もしかしたら人間の本性の一つと疑ったりしてしまいそうです。
だからこそ、欺されないようにすることが大事ということになるわけですが、そうすると、人を信用してはいけないのかということにもなりかねないわけで、その当たりバランスよくできる方が朗らかで穏やかな気持ちのよい余生を楽しめるのかもしれません。あるいは無欲こそ一番かもしれません。難しいことこのうえないですが、それでも多くの人は良寛さんのような生き方に憧れをいまなお抱いているわけですから、それが最善かもしれません。