たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

橋の命 <橋本・恋野橋 路面接合部にすき間 橋脚傾斜さらに進む>を読みながら

2018-11-06 | 紀ノ川の歴史・文化・地理など

181106 橋の命 <橋本・恋野橋 路面接合部にすき間 橋脚傾斜さらに進む>を読みながら

 

紀ノ川沿いの河川景観は上流から下流まで、それぞれ異なる趣があって、私の和歌山生活を楽しませてくれています。もう少し若かったらカヌーで川下りを楽しむのですが、どうもそのような元気が出てきそうにありません。とはいえたまに和歌山までの往復をするとき、この川のたたずまいは、嫌なドライブ間隔を和らげてくれます。見ていると、気持ちが安らぎます。それでわざわざ河川添いの狭い通りを走ったり、ときに車を止めて歩いたりします。

 

その中で、紀ノ川には多くの橋が架かっていて、ちゃんと名前がついています(他の河川ではときどき橋の名前がわかりにくいことがありますが、紀ノ川の場合は違います)。カヌーで川下りをしていた頃、いったいなんという名前の橋か分からないまま通り過ぎたことが何度もありました。立派な橋なのに、しっかりわかりやすく名前を表示してあげて欲しいと思ったことがありました。とりわけ川を上下する場合、完全に無視されているという印象を持ちます。

 

ところで、橋本市には上流から恋野橋、南海高野線鉄橋(橋梁と呼称しているようです)、橋本橋、橋本高野橋、岸上橋があり、この下流に小田井堰、九度山橋があります。

 

橋本橋は、橋本市という町の名前の謂われとも称される、橋がほぼ現在地に近いところに作られたからと言われています。高野山を秀吉軍から守った、応其上人がその橋を架けて反映の源を作ったとされています。ただ、応其上人がつくった橋は数ヶ月で流され、その後は作り直されなかったとか。当時の土木技術では大河紀ノ川に木造の橋を作ることが困難だったのかもしれません。あるいは当時から渡し船業者が相当な数があり、その反対に遭ったのかもしれません。いやあるいは、吉野杉の筏流し業者が反対したのかもしれません。

 

その後橋が明治維新になった後まで架けられなかった理由は謎のママでもいいかもしれません。紀伊風土記などでは幕末期の渡船の様子や、川上船で賑わう、橋本の町の様子が描かれていて、風情があります。

 

仮に橋を架けたとしても木造ですから、大台ヶ原を含む多くの源流から大量の水が押し寄せればひとたまりもなかったでしょう。

 

たしか南海高野線(昔は別の名前だったと思います)橋が架けられたのは、大正期だったと思いますが、おそらく当初より鉄橋だったのではないでしょうか。それが最初に本格的な橋が橋本に作られたのかもしれません。

 

私も子どもの頃は鉄橋でよく遊んだものです。汽車がぽっぽーと煙を吐いてやってくる様子、鉄橋の下でその轟音を聞くのは田舎の子どものちょっとした楽しみです。中に鉄橋を歩いて渡る勇気試しもあったと記憶しています。

 

ところで紀ノ川の鉄橋は少し長すぎますし、当時は流量も相当だった(ダムのない時代)と思いますから、私のような遊びはできなかったかもしれません。

 

和歌山河川国道事務所のホームページに<紀ノ川上流部の恋野橋などほとんどの橋が映っている左右両岸の航空写真>がありますので、関心のある方は覗いてください。

 

その鉄橋の上流は、左右の段丘が迫り、渓谷のようになっていて、なかなか景観的魅力のあるところだと思います。その渓谷のさらに上流に恋野橋が架かっています。私も以前はよく通りました。この橋から見る景観や、川岸に降りて見る景色は割と好きなものでした。

 

恋野という名前は、奈良当麻寺の中将姫伝説は有名ですが、その中将姫が当地域のひばり山に逃れてきたという伝承がありまして、当地で「母恋し 恋しの野辺や…」と歌ったと言うことで、恋野という名称の由来とされているとか。

 

恋野橋自体はがっしりした鉄骨製のようでして、あまり中将姫伝説を辿る道としては似つかわしくない印象でした。そう私がよく通っていた頃は頑丈そうにみえたのですが、他方でだいぶ以前から付け替え用の橋建設が始まっていました。

 

で今朝の毎日記事<橋本・恋野橋路面接合部にすき間 橋脚傾斜さらに進む /和歌山>の写真を見ると、ぐにゃっと骨組み自他が傾き、橋桁も勾配ができていますね。

 

<橋本市の県道山内恋野線の紀の川に架かる恋野橋(隅田町芋生-恋野、全長142メートル)で2日に見つかった橋脚の傾斜がさらに進み、路面の接合部にすき間ができたことが5日までに分かった。>

 

現在の橋の建設は<県によると恋野橋は1955年に付け替えられた。>ということですから、62年の歳を数えるわけです。まだ若い?といえば若い、もっと頑張って欲しいと思うのですが。しかし、<現在、東側に並行して新しい橋の建設を進めている。>ということで、おそらく劣化による耐久力の低下がすでに診断されていたのでしょう。

 

近隣の人は相当大きな異常音を聞いたそうです。<3日未明に橋脚の傾斜が原因とみられる異常音を聞いたという近くの住民は「鉄板が落ちるような『バーン、バーン』という大きな音だった。また何か起きるのではないかと思うと怖い」と話した。【松野和生】>

 

ところで、これは橋の寿命だったのでしょうか。この橋は幅が狭く普通車同士だと行き交うことが結構厳しくて、普通車と軽自動車なら少し余裕がありました。ところが大型ダンプが頻繁に相当な積載量で通行していたのです。むろん現在は新橋建設のための運搬はあるでしょうけど、それ以前からかなりヘビーな通行量でした。ダンプが通行するときは、むろんダンプしか通れませんので、橋のたもとで待機となります。しかも少し前まで、左岸(北岸)道路は狭くて、ダンプが通ると窮屈でした(現在は拡幅してダンプと行き交うことがスムースになっていますが)。

 

このような大型ダンプの大量の通行を容認してきたことが橋の寿命を短くさせたのではないかとふと思ったりします。それは道路なども大量積載(場合によっては過積載)のダンプ重量によって凸凹になったりする路面をよく見かけますが、道路管理のあり方の問題かもしれません。

 

そんなことを美しい紀ノ川の景観を思い浮かべながら、恋野橋の傾きを気の毒にふと思ってしまいました。なにか我慢に我慢を重ねてついに性根尽きたというような印象を持ってしまいます。

 

今日はこのへんでおしまい。また明日。