161224 火災と日本人 糸魚川大火災を少し考えてみる
方丈記には当時の災難のいくつかを取り上げており、時折読み返しています。むろん火災もリポーター風に次のように総括しつつ具体的な様子もリアルに表現し、治承3年(1179年)4月に発生し暴風に煽られて京の都の3分の1を灰燼にした大火災を取り上げています。
「風烈しく吹きて、靜かならざりし夜、戌(いぬ)の時ばかり、都の巽(たつみ)より、火出で來りて、乾(いぬい)に至る。はてには朱雀門・大極殿・大學寮・民部省まで移りて、一夜(ひとよ)が中(うち)に、塵灰(ぢんかい)となりにき。」
興味深いのは、最後に、彼流の人生訓というか、皮肉というのか、述べていますね。木造で密集した京で家を建てるのに贅を尽くしたり悩むことを意味のないこととでもいうのでしょうか。
「人の營み、みな(皆)愚かなるなかに、さしも危き京中の家をつくるとて、寶を費し、心を悩ますことは、勝れてあぢきなくぞ侍る。」
といっても日本人は、その後もずっと密集した中でせっせと家を建て続けていますね。江戸時代は、「火事とケンカは江戸の花」と言われるほど、方丈記の指摘を無視するように、大名屋敷や町屋も競うように豪華なものを作り続けています。何度も大火にあいながらも。しかし庶民はどちらかというと鴨長明と似通った感覚で?、長屋暮らしで、家財道具もほとんどない状態の暮らしをしていたようです。
この点、なんども紹介する維新時に来日した異邦人の目では、あまりにみすぼらしい庶民の家、なにも家の中にはないことを憂いつつ、火災で灰になっても庶民が翌日にはあっけらかんとして廃材などを利用して、新たな生活を元気に始めている様子が驚きとともに、彼らの西洋人にとって家や家財道具を重要視する姿勢が精神の豊かさを損なっているのではないかといった、若干の思いを吐露する人もいました。
それはともかく木造住宅の密集性は、少なくとも維新までは当たり前のことだったのだと思います。それは地震というものに対する備えの一面もあっったでしょうし、徳川時代における建築規制も影響していた面もあったでしょう。都市計画が整備されないまま、都市の中に無秩序に流入する人々の住む場所が適切に提供されず、もっぱら大地主・大家の提供する長屋でしか暮らせない状態であったことも影響するのかもしれません。
そのような状態は、その後に成立した都市計画法でも、一応の対策は示されたものの、戦前、戦後、大きな改善はみられないまま、今日に到っていると思います。むろん行政は、都市再開発法やさまざまな事業を通じて危険な木造密集地帯の改善に取り組んできたことは確かです。しかし、再開発事業が住民から歓迎される形で完成された例はさほど多くないと思います。個々の所有権や所有者・居住者意識を変えることは容易でなく、現実には今なお各地にこのような危険地帯が残っています。
もう一つの改善というか、密集地帯がなくなった要因は、多くは民間デベロッパーによる地上げなどで高層化が進んだ、昭和40年代頃から何段階かを経て、高度利用の要請が高い、首都圏などでは進展したのではないかと思います。
さてだらだらと前置きがいつものように長くなりすぎ、このあたりで本論に入りたいと思います。
まず、毎日の記事で気になったのは、糸魚川の大火災があった地域が木造密集地という点です。古い町ですので、当然というか、古い町並みとして残されてきたのでしょう。ところが、その次の記事では、「国土交通省によると、各地の木造密集地について、燃え広がりやすさなどを基準に『地震時等に著しく危険な密集市街地』が指定されている。今年3月末時点で16都府県で約4400ヘクタールに上るが、東京都など大都市が中心で新潟県には指定地区はない。」というのに驚きました。
それで実際、国交省の指定地域を確認すると、なんと和歌山県では橋本市とかつらぎ町の2市町しか指定されていないというのです。たしかに地震時等を一つのメルクマールにしていますが、この2市町では地震のおそれが高いとはいえないので、糸魚川の当該地域を含め新潟県に指定箇所が一つもないというのはどうしたことかと思ったのです。
橋本市は現在、当該指定地域を対象に都市再生整備計画を立てて実施していますが、その前提として、指定を受けたのかもしれません。
しかし、現在ある危機的状態という意味では、当該指定はできるだけ早期にすべきではないでしょうか。なぜか。
それは住民の意識の啓蒙に繋がるでしょうし、真剣に防災訓練や防災計画、まちづくりによる改善への検討がなされる共通の土壌になると思うのです。
次に、火災の原因は、「ラーメン店が火元と断定したと発表した。男性店主(72)が鍋を空だきしたことが原因とみられる。」ということのようですが、びっくりさせられたのは、その店主の発言では、「開店前、火をつけたコンロに鍋をかけたまま失念して近くの自宅に帰った。戻ってきたら炎が換気扇の高さまで上がっていた。」というのです。
もし店主が木造密集の危険地帯であること、それを近隣の住民間で常日頃話し合っていたら、このような事態を避けられた可能性があったのではないかと思うのです。
農村集落もまた、家々が密集していて、消防車などが入りにくい曲がりくねった狭い道路しかありません。その意味で、自然と住民間に防災意識があるように感じています。自分のところから発火すると、近隣に迷惑をかけるということが意識下に強くあるように思うのです。
その点、糸魚川の古い町並みは、雁木を残すなど町並みの保存には一定の配慮が見られるのに、長く商売してきたとみられる店主にその意識があまり強くなかったのか、残念に思います。あるいは高齢化の影響もあったのでしょうか。
この店主自体の問題よりも、私は消防体制がどうだったか気になっています。むろん報道だけでの判断では十分な裏付けを欠いていますので、ここではとりあえずの思いを述べておきます。
たしかTVニュースでちらっとだけ見たのですが、発火して間もなく、消防隊が駆けつけ、放水している様子が映像で流れました。まだ西側の道路沿いの建物(西側部分)には延焼していませんでした。東側や北側がどうだったかは分かりませんが、この初期段階では、さほど大きく延焼する様子はなかったようにも見えます。
そのためか、消防隊も放水器は一台だけだったように思います。それを見て、少しのんびりしているようにも思えました。
で、119番の一報があった後、消防署の指揮はどうだったのか、後日検証されることと思いますが、少なくとも次の点を検討すべきではないかと思うのです。当該発火場所が属する地域が木造密集地で延焼危険性の高い箇所であること、当日は午前5時過ぎから強風注意報が出ていたこと、南風であることも承知していたと思われること、そのような気象条件および延焼危険が高い地域への消防活動をどのように行うかについて、事前にどのような消防体制が必要かを検討していたか、その場合今回それにそって行われたのか、そうでなければなぜか、といったことです。
放水だけでは、道路側からだと、店の奥や裏側には届かない分けですから、高層ビル用放水車、あるいはヘリコプター放水などより有効な手法をとる可能性をも視野に検討する必要があったかもしれませんが、それはどこまでこれまで検討されてきたのかが気になります。
別の見方でいえば、江戸火消しは、放水で火事を消すのではなく、延焼のおそれのある建物等を壊して、延焼を防ぐ方法をとっていました。で、糸魚川の場合、そこまでの方法は事前に計画していたならば、選択手段として採用される可能性もあったと思いますが、現代ではそこまではなかなか無理かと思います。代替案として、たとえば延焼先を冷却する、放水して水浸しにすることも飛び火対策としては有効と思うのです。むろんこれも事前に計画して、所有者の承諾をとっていないと、その場ではなかなかできないでしょう。ただ、壊すよりはまだ水浸しなら、延焼防止の最後の手段としては理解される可能性があったように思うのです。
というのは、私自身、野焼きをやっていて、飛び火は遠くまで飛びますが、それが延焼する危険はありません。単なる火の粉は、飛んでいっても落ちる先がよほど燃えやすい状態出ない限り燃え移りません。野焼きの周りは田畑なので、その点、冬は凍結とまでいかなくても湿っています。昔、鎌倉に居住していたとき、隣家の豪邸跡が燃えて炎上し、高さ10数メートルまで火炎が上がっていました。広い庭には楓など広葉樹が一杯で燃え移ると大変だと思っていたのですが、樹木は水分が豊富なため、意外と燃えないもので、結局、建物だけ燃えたことを思い出しました。
ところで、糸魚川の場合は飛び火というか、燃えた木片といった燃える媒体自体が飛んでいったようですので、強風が大きな燃える媒体を飛ばしたことが延焼の要因でしょう。
あちこち話題が言ってしまいましたが、こういった木造密集地は、古い町並みとして、一方で歴史的景観価値があり、住民の連帯や絆もあり、それ自体、一方的に解消すべきとの論は必ずしも当てはまるとは思えません。他方で、今回のような延焼の危険が極めて高いので、その防災対策こそ、当該地域住民を中心に、市だけでなく県、場合によって自衛隊の助力を得てきちんとした体制づくりをすべきではないかと思うのです。