たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

ある環境アセスメント <NHKBS 3~宙(そら)からわかる“奇景”の謎~>を垣間見ながら

2018-10-18 | 環境アセスメント

181018 ある環境アセスメント <NHKBS 3~宙(そら)からわかる“奇景”の謎~>を垣間見ながら

 

あの厳しい暑さが嘘のように昨今の朝夕は結構冷えます。そんなときスポーツ番組は見ていて熱狂とまでいかなくてもわくわくさせてくれることがあり、自然と体が温まることがあります。最近の森安ジャパンのサッカーはその一つでしょう。ロシアW杯のときも結構盛り上がるものがありましたが、それ以上です。より興奮させるものがあります。

 

コスタリカ戦、パナマ戦と、はじめはちょっと見るだけのつもりが、そのパスワークやドリブル、シュートに至る、躍動感はかつて日本代表チームで見たことがないくらいのものでした。足技というか、ボールを受ける前後の動きはとても予想できない、次は何があるのかと思わせるものです。そしてウルグアイ戦、実は見逃してしまったのです。後はニュースでゴールシーンだけを何回か見た程度で、残念です。魅力あるチームはゴールシーンに限らず観客を釘付けにさせる動きがありますね。それが見られなかったのが残念です。それも一流のチーム相手にどのような戦いをしたのか、勢いのある新代表と一緒に闘ったロシア代表選手たちも驚くほどだったというのですから、ほんとに惜しいことをしました。

 

話変わって、昨日は途中から見た<NHKBS Earth Scanner3~宙(そら)からわかる“奇景”の謎~>、途中から見たので<奇形>が何か分からないまま、ダイヤモンドの話が出て、しかもノースウェスト準州の州都イエローナイフが登場したので、つい見てしまいました。

 

というのは95年の夏頃でしたか、友人の大学教授に誘われて、その地に立ったことがあります。彼が主催しているカナダ各地の研究者が参加するある委員会(行政機関ではなく任意の研究団体)に参加させてもらったのです。そのときの会議は、当時、ノースウェスト準州でダイヤモンド鉱山開発計画が企画されていて、環境アセスメント手続の中で、その委員会のメンバーが事業者が提供するたしかヘリコプター(だった記憶ですが)で、現地に行くことになっていました。私もそれに便乗することになっていました。

 

ところが調査日に嵐になって、現地訪問が中止となり、現地に行くことができませんでした。委員会のメンバーも各地から来ていたため、時間的余裕がなく、この機会での現地調査はなくなったと記憶しています。ともかく私は北極圏でダイヤモンド発掘ということ自体、不思議な印象を覚えたのと、現地の様子を見なかったので、どんなところかなとぼやっとした感じで終わってしまいました。

 

ただ、たしか委員会が関係する現地の運動体の事務所にも訪れたのですが、そこには環境アセスメントの厚いファイル入れが何冊も置いてあって、それがワンセットで横に並べると厚さだけで2mくらいはあったような覚えです(もうすっかり忘れてしまっています)。カナダの環境アセスメントでは、事業者が提供する書類はすべて一定の場所、たとえば手続参加届出した団体(一定の要件があったと記憶します)の事務所に備え置かれています。ですからいつでもそれを読むこともコピーをとることもできます。私もそのときざっと見た記憶ですが、当時、いくつかの環境アセスメント事業をフォローしていたので、この件は事前の勉強もしていませんでしたので、中身はまったく覚えていません。

 

このときの環境アセスメントで対象となったダイヤモンド鉱山開発事業が、今回NHKで取り上げられたものか、判断する材料を持ち合わせていませんが、時期的には結構符合するというか似通っているので、その可能性もあります。

 

カナダ北極圏での開発事業は、金鉱山、油田開発などいろいろありますが、そのことにより北アメリカの白人に大きな経済的利益をもたらし、発展を促進した一方で、先住民の伝統的権利を侵し、自然生態系に大きなダメージを与えたこともよく知られた事実です。このような開発促進に歯止めをかけた金字塔ともいうべきは、元最高裁判事(BC州だった?)トーマス・バーガーによる報告書、“The Report of The Mackenzie Valley Pipeline Inquiry”だったと思います。

 

NHKの番組で、ダイヤモンド鉱山開発で、地元の先住民たちの雇用が確保され、村民のほとんどが鉱山で働くことができ、収入が確保され、住居をもって安定した生活ができるようになったといったことが先住民の家族の言葉として紹介されていました。

 

まさにバーガー元判事が初めてパイプライン計画の現地を訪問して、個々の先住民から直接話を聞くというかつてない手法で(むろん科学的な評価も行いつつ)、その影響評価を行ったことで、カナダにおける環境アセスメントにおいては単に環境への影響だけでなく、社会経済的な影響評価をも行うことが必須となったのではないかと思われます。

 

バーガー報告の時はどうだったか私も昔読んだきりなので、覚えていませんが、その後のアセスでは女性の権利や社会進出についても評価対象とすることが増えてきています。

 

NHK報道とは異なる視点でのブログとなりましたが、NHKでは北極圏でダイヤモンドの発掘ということで、Blood diamondsとの異名もあるアフリカ算出のダイヤモンドと異なり、「クリーンダイヤモンド」として適正な競争市場を提供できるようになったとの評価があったのでしょうか。ま、たしかにアフリカの異常さに比べれば、まっとうなダイヤモンドでしょうね。ダイヤモンドに縁のない私には・・・でも生態系への影響はどうでしょうか。

 

北極圏は冬場には完全に凍結した状態になり、その上を大型ダンプなどが運搬用に走るのでしょうね。夏はスワンプが多く車の走行が困難とも言われていますが・・・単に鉱山区域だけでなく、搬入道路がもたらす影響はかなり深刻な場合もあり得ると思うのですが、事後調査はどの程度行われているのか、気になるところです。

 

他方で、鉱山が後10年くらいで廃坑になる予定とか。その場合埋め戻されて、元の状態に近い回復措置が講じられるといったことですが、それは環境アセスメントでは当然の措置ですね。

 

この場所は、マグマだまりから噴出した後くぼんだ部分に水がたまり、その下に柱状にダイヤモンドを含む層が残ったようで、それをキンバーライトバンプというようですね。北極圏のような人工の手が入っていないところでは、採掘や製錬などの段階で、水質汚濁を含む環境汚染の懸念がありますし、浄化処理といっても限界があると思いますので、どの程度本来の自然を維持し、また、回復できるのか、気になるところです。

 

もう北極圏にでかける元気はないので、TVやウェブ情報などで少し注視したいとは思います。

 

今日はこれにておしまい。また明日。

 

 


浅知恵と艱難辛苦 <マングース 鹿児島・奄美移入40年、最盛1万から激減50匹>などを読みながら

2018-10-17 | 生物とのおつきあい

181017 浅知恵と艱難辛苦 <マングース 鹿児島・奄美移入40年、最盛1万から激減50匹>などを読みながら

 

沖縄・奄美地域は、豊かな自然と希少な動植物が多いのも魅力です。でもその動物が危機的な状況が長く続いていました。私が日弁連の生態系調査で沖縄・やんばる地域を訪れたのは2000年頃でしたか、森林伐採や野生生物の現状などが主な調査目的だった記憶です。沖縄には何度も調査に訪れているのですが、それぞれもう記憶が曖昧になっています。

 

で、昨夕の記事で奄美地域でのマングースの捕獲が話題になっているのを読んで、そういえば沖縄でも話題になっていたなと思い出したのです。

 

関連記事で920日付けでは<マングース追い詰めた 沖縄・ヤンバルクイナの保護へ駆除進み、捕獲年100頭切る>と、沖縄を扱っていました。まずそこから入ってみようかと思います。

 

マングースは沖縄・奄美地域には生息していませんでした。なぜ生息したかといえば人間が持ち込んだわけです。それは

<マングースは1910年、猛毒を持つハブの退治を目的にインドから輸入されて本島南部に放された。>たしかにハブはマムシなんかに比べると顔・形状からしてどう猛な感じです。私自身、これまで一度も生きているハブと遭遇したことがないので、実際はどうなのか分かりませんが。マムシは結構遭遇の機会があり、用心している限りさほど尾そるに足りませんけど・・・

 

ま、怖いハブの退治のためにマングースをわざわざインドから持ち込んだというのですが、一体どの程度裏付けがあったのでしょうかね。コブラには有効だったのでしょうか?ともかく人間の浅知恵でしょうね。

 

というのは<ハブは夜行性、マングースは昼行性と行動時間が異なるためほとんど役に立たず、むしろ別の在来種を食い荒らした。>このことをやんばる地域を調査したとき、結構聞かされました。

 

その結果、<当初17頭だったマングースは増殖して北上。やんばる地域は元々は肉食の哺乳類がおらず、ヤンバルクイナなど希少生物が独自の進化を遂げていたが、次々とマングースに襲われた。>

 

だいたい外来生物の輸入等を規制する外来生物法が成立したのが、生物多様性保護が宣言されたリオサミットの92年から10年以上経過した2004年ですからね。

 

自治体独自に駆除・捕獲を行っていたでしょうけど、本格的な措置を講じだしたのは法施行後ではないかと思います。

 

さて沖縄ですが、当時、ヤンバルクイナなどが絶滅の危機に瀕していることが大きく報じられていました。当時の環境庁もレンジャーの役割を果たすような人員が十分でなく、有効な対策を講じられないもどかしさを感じていました。

 

< このままではヤンバルクイナなどが絶滅してしまうと恐れ、県は00年度から、国は01年度からマングースの捕獲事業をスタート。エリアを分けて駆除している。>ということですが、私たちが調査したときは、あまり効果が上がっていなかったと記憶しています。

 

やはりお金と民間の力が必要でしょう。外来生物法をはじめその後保護策が充実していったと思います。

 

その結果<わなや北上を防ぐための柵、自動撮影カメラなどを設置し、08年には民間に委託して捕獲に当たる「マングースバスターズ」も結成。国と県で合わせて年間約2億円を出費しており、これまで計5638頭を捕獲し、国頭村(くにがみそん)与那から安田にかけたライン以北では完全に駆除できたとみられている。>

 

マングースが減れば、当然捕食されてきたヤンバルクイナはじめ地元の動物が増えることになるでしょう。

<NPO法人「どうぶつたちの病院 沖縄」の長嶺隆理事長によると、マングース捕獲に伴って、05年ごろには約700羽だったヤンバルクイナは約1500羽に増え、分布域も順調に回復してきている。>

 

でも成果が上がりここまでに至るには、大変な苦労・努力をし、長い間失敗を繰り返しながらも、あきらめず持続的に捕獲事業を継続してきたからでしょう。

<長嶺理事長は「無数のわなを仕掛けるなど血のにじむような努力の結果、効果が出てきている」と評価する。>

 

さて昨夕の毎日記事に戻ると<マングース鹿児島・奄美移入40年、最盛1万から激減50匹 「希少種守れ」駆除作戦、根絶目前>と、駆除作戦が実り50匹まで激減したとされています。こちらはアマミノクロウサギなどの保護が主たる目的となっています。

 

その捕獲方法に特徴があります。

<「探せ!」という捕獲の合図で、探索犬がマングースの臭いを追い始める。奄美大島の森の中。痕跡をほえて知らせ、木の穴や岩の隙間(すきま)などに追い込んで行く。捕獲者が追いつき、逃げ込んだマングースを煙幕で窒息死させ捕まえるという。>

 

マングースは結構賢くて、罠がかからないと以前は聞かされていましたので、探索犬とはなかなかのアイデアと思うのです。ま、うまくいったからでしょうか。

 

アメリカの湿地保全対策事業として、湿地バスターズ(Swampbuster)という制度がありますが、民間団体はネーミングも受ける印象です。今後も頑張って欲しいです。

 

簡潔に終わる話題をと思い、選択しましたが、それでも50分かかってしまいました。今日はこれでおしまい。また明日。


陵墓のあり方 <宮内庁 仁徳天皇陵を発掘へ>などを読みながら

2018-10-16 | 古代を考える

181016 陵墓のあり方 <宮内庁仁徳天皇陵を発掘へ>などを読みながら

 

今日は2つの特別養護老人ホームを訪ねて私が担当している方と面会してきました。お会いしたとき笑顔を見せてもらえると、こちらもうれしくなります。面会に訪れる人は私が担当している方に限らず、あまり多くないようです。施設に入ると動くことが少なくなり、あるいはほとんど動かない人もいますので、どんどん体力が落ち、言葉も発せなくなり、家族の方も面会しても意思疎通が容易でなくなるように思えます。

 

という私も、なんとか話しかけますが、言葉での応答はなかなか容易でなく、会話も次第に途切れてしまいます。ユマニチュードにはほど遠い状況です。ま、心がけてなんとか前進するといいのですが。

 

さて、今日の毎日記事<宮内庁仁徳天皇陵を発掘へ 今月下旬から堺市と共同で>を見て、時折感じるのですが、紙面とウェブ記事とでは表現を微妙に変えることがありまして、今回もそうでした。

 

紙面では「大山古墳」と表示していたのが、ウェブでは<仁徳天皇陵>になっています。記者はいずれも矢追健介氏です。この点、伊藤和史記者は以前、別の記事<今どきの歴史世界遺産候補 百舌鳥・古市古墳群(大阪府) 悩ましき被葬者論争>で、その当たりを解説しています。

 

紙面で「大山古墳」とだけ書かれていれば、一体どこの古墳かと思う人もいるでしょう(実は私も当地に来るまではそのくらいの感覚でした)。

<「大山古墳?」と首をひねる人も、仁徳天皇陵のことだと聞けばうなずけると思う。墳丘長486メートル(最近、525メートルに上方修正)。最大の古墳として歴史教科書に出てくる前方後円墳である。>

 

といって、堺市をはじめ多くがこれまで長く呼称し、今回の世界遺産登録候補として名乗りを上げる場合も、目玉の古墳名を仁徳陵と呼んでいますが、<仁徳天皇陵という呼称は不評。>なんですね。<在位の時期と古墳の年代とのズレなどから、ここに仁徳天皇が葬られていると考える研究者はまずいないからだ。>さらにいえば、仁徳天皇なる人の実在性についても疑問視する考えも結構有力ではないかと素人的には思っています。

 

そんなこんなで両論併記ではないですが、<「大山古墳(仁徳天皇陵)」のように、その雄大さにちなむ地域での呼称と、管理する宮内庁の認定名との並列的な表記が多い。>わけですね。これは大山古墳だけの問題ではなく、<保存のよい49基(4~5世紀)が世界遺産登録を目指している。その中に天皇陵クラスといえる墳丘長200メートル以上の大古墳も10基ほどあるが、大山古墳に限らず、宮内庁の認定と、実際の被葬者との関係では議論が尽きない。>

 

被葬者も特定できていないのに(宮内庁はちゃんと認定しているというかもしれませんが)、世界遺産登録をしてもいいのかしらと思うのです。

 

<被葬者決定の根拠としては、記紀にある皇統や陵墓の記録のほか、平安時代に律令の施行細則を定めた延喜式(927年完成)にある陵墓の所在地情報が重視される。古墳時代からは数百年も後の史料なので、うのみにはできないのだが。>つまりは歴史的な文献資料は根拠として薄弱なのですね。信頼性に乏しいということですね。

 

結局、<大胆に次々被葬者を特定する研究者もいるが、土生田さん(土生田純之(はぶたよしゆき)・専修大教授(考古学))は「根拠を持ってこうだと言う、その材料がない」と話す。大山古墳の主は「(中国の史書にある)倭の五王の誰か、くらいは言えますが」とのことだった。

 世界遺産登録の可否とともに、天皇陵の現況や、被葬者論の今後にも注目したい。>というのですが、今日の記事は少し進展があったとみてよいのかでしょうか。

 

陵墓で初めての発掘を発表した宮内庁ですが、記事では<宮内庁と堺市は15日、同市堺区にある日本最大の前方後円墳「大山(だいせん)古墳」(仁徳天皇陵)について、今月下旬から共同で発掘すると発表した。古墳保存のための基礎調査だが、歴代天皇や皇族の陵墓の発掘に宮内庁が外部機関を受け入れるのは初めて。宮内庁は「周辺遺跡の知見を持つ堺市との連携は適切な保存につながる。天皇陵の保全管理に地元の協力は不可欠」とする。>

 

大胆な一歩を踏み出したと思いたいのですが、どうでしょう。

今回の宮内庁の計画内容について、記事では<調査は10月下旬~12月上旬、埴輪(はにわ)列などがあったと考えられる最も内側の堤(幅約30メートル)に幅2メートルの調査区を3カ所設け、堺市の学芸員1人も発掘や報告書作成に加わる。宮内庁陵墓課は、今後も堤の別の部分や墳丘の裾などを発掘し、濠の水で浸食されている古墳の保存計画を作る。>

 

これまでの宮内庁の態度からすると、これは大きな変化の表れとも見えますか。

<宮内庁は全国の陵墓への立ち入りを「静安と尊厳を保持するため」として原則認めず、単独で調査してきた。・・・宮内庁は2008年から、日本考古学協会など考古・歴史学の16団体に限定的な立ち入り観察を認めた。16年3月には地元自治体や研究者に協力を求める方針に転換し、徐々に公開度を高めてきた。>漸進であるとはいえましょう。

 

しかし、<大山古墳を含む百舌鳥・古市古墳群の来年の世界文化遺産登録を目指している>堺市だけでなく日本人、日本国として、このままでいいのでしょうかね。

 

だいたい、今回の発掘は前方後円墳の本体に入るわけではないのですね。内堀と外堀を仕切る堤の一部だけを対象としています。保全計画を立てると言っても、それでは全体像は描けないでしょう。なぜ本体に入れないのでしょう。

 

私は今夏に大山古墳を訪問する前に、ニサンザイ古墳と御廟山古墳を訪れたときそれぞれ古墳内では刈払機など機械を使って大勢が入って、古墳本体内の草木や竹林の手入れをしている最中でした。それは当然でしょうね。大山古墳も滅多に見る機会もありませんが、それも濠の外からしか見えません。それでも、とても樹木が整い、美しい状態に保たれているのは分かります。つまりは、樹木や草の管理をする人は入って、機械を使ってやっているはずだと思います。

 

私は直ちに、発掘することについては慎重であってもよいと思いますが、古墳内を研究者の方々が入って、とりあえず表層だけでも調査する価値があるのではと思うのです。樹木の状態を確認することも大事かもしれません。実際、前のブログでも触れましたが、これまではげ山状態にあったことは何度かあると思われます。そうでなくとも樹林の遷移は間違いなく起こるわけですから、さまざまな観点から調査する意味はあると思います。

 

作業員(ちゃんとした宮内庁職員とのことでしたが)が入ってよく、研究者はダメというのは通らないのではないかと思います。いろんな意見があるでしょうから、発掘については段階を経て、また十分な議論と理解を経て行うことを期待したいと思います。

 

だれが被葬者か分からないこと自体、恥ではないでしょうか。

 

ちょうど一時間となりました。この辺でおしまい。また明日。


高野山と商い <継続は力なり わかやま100年企業の挑戦 珠数屋四郎兵衛>などを読みながら+補足

2018-10-15 | 空海と高野山

181015 高野山と商い <継続は力なり わかやま100年企業の挑戦 珠数屋四郎兵衛>などを読みながら

 

一年以上調停で審理した事案が今日、ようやく成立したものの、2時間近くいろいろな事情でかかりました。10年以上紛糾していた事案ですので、これで平穏裏に収まってくれればいいのですが、相手方が最後にうそぶいていましたが、今後火種が再びあがるかは相手方次第かもしれません。法的解決も万全に終わるとも限りません。裁判所を出た後も依頼者と話があり、いま事務所に帰ってきたところです。

 

そんな分けで今日のお題はと考える余裕もなく、毎日記事で興味深いのがあったので、これを30分くらいで書き上げられればと思っています。

 

今朝の毎日は<継続は力なりわかやま100年企業の挑戦 珠数屋四郎兵衛 堅実さ、守り続けて 仏様への感謝、宗派問わず /和歌山>と、長い歴史のある企業を紹介するシリーズで、和歌山一歴史のある企業、高野山の珠数屋四郎兵衛が登場しました。

 

同記事の企業情報によれば、以下の通り、1712年創業とのことです。

<総本山金剛峯寺のすぐ近くにある珠数屋四郎兵衛(高野町)は、十二代目を数える。15歳で独立を許された初代四郎兵衛が、諸国行商の後に60歳で開業した。以来、300年以上にわたり数珠の販売を続けてきた。>

 

すごい歴史ですね。珠数屋四郎兵衛のお店はなんどか訪れ、仏具を購入したことがあり、ほんとに立派な店構えです。

 

ただ、ここではたと不思議に思ったのです。高野山は僧侶である学侶、行人、そして一部の聖がいるだけで、まさに宗教都市ではなかったのかと。私は以前、現在もお店を営んでいる人から、明治に入って高野山金剛峯寺から借地して商売の店を出し、戦前は商売人も女人禁制で妻は隠れていたとかという話を伺ったことがあります。なにせ地主ですし、天下の真言宗金剛峯寺本山ですから頭が上がりませんね。

 

でも、珠数屋四郎兵衛さんは商売をすでに江戸中期には創業されていたのですから、商売ができていたのですね。ただ、<諸国行商の後に60歳で開業した>というのですから、もしかしたら聖をされていたのかもしれません。高野聖は平安時代から全国行脚をして御大師様信仰を広げた(まさに弘法大師の手足となったといえましょうか)わけですが、高野山からは一切生活費ももらっていなかったのでしょう。自らはさまざまなことをして日々の生活を送らないといけなかったと思います。数珠や仏具などの販売はもちろん、納骨を進めたり葬式仏教を広めたりもしていたのかもしれません。

 

たしか平安時代初期には寺社による金貸し業が始まっていて、高野山もまた寺社経営の一つになっていたとされていますし、戦国時代には根来寺、粉河寺と連携して一大金融業を展開していたようですので、相当な資金力もあったのだと思います。

 

刀狩りで武器を取り上げられるまでは、武器製造から販売、さらには傭兵提供まで軍事産業を行っていたと言われています。刀狩り後は、平穏な寺社として高野山はあらゆる宗派を超えて仏教の聖地のように、全国各地から納骨を希望したり、観光的に訪問する人が増えていったのではないかと思います。

 

そのため、江戸時代の中葉には、信仰だけでなく観光的な意味も含めて訪れる人が後を絶たなくなっていたのかと思います。伊勢参りの先駆け的に、高野詣でがいくつもの高野街道を作るほど盛んになったのではないでしょうか。

 

そういう多くの人のため、珠数屋四郎兵衛さんのようなお店が江戸時代には相当生まれていたのかもしれません。とくに創業の約20年前には高野元禄裁許により行人が大勢追放され、行人が支配していた寺も1000か寺以上がつぶされたわけですから、空き家、空き地も多かったかもしれません。

 

<店の中に入ると、正面の壁に「諸宗御珠数調進所」と彫られた立派な木板が掛かっている。「どこの宗派の数珠でもこしらえますよ、という趣旨です。真言宗は考え方がゆったりとしていますから」。平田永一社長(61)が、こちらを見て言った。2~3代前までは山上に十数軒の店があり、共同で吉野の木を育てて自分たちで数珠を作っていたそうだ。今は、職人の残る京都から仕入れている。>

 

店の中にある木板「諸宗御珠数調進所がいいですね。宗派を問わず数珠をこしらえるというのですね。そもそも高野聖が宗派を問わない、真言宗にこだわらないというか、教義よりも御大師様を祈って広めていたとされています。これはおそらく最近のことではなく、江戸時代からではないかと思うのですが、勝手な解釈なら失礼しました。

 

実際、数珠の本来の目的から次第にファッション的な意味も込めて普及しているようです。

<数珠は本来、お経を読む回数を数えるための仏具で、正式な数珠は108個の玉で作られているという。一つずつの玉に煩悩をつかさどる仏様が宿っていて、数珠が煩悩を引き受けてくれると言われている。>

 

アクセサリーのように手首につけている人をよく見かけますが、なんと先々代の発案なんですね。さすがと思います。<ブレスレットのようにして手首に巻いている人を見かける。「考案したのは実は祖父なんですよ。玉にゴムを通した腕輪式で、伸縮数珠と言います。昭和30年代の後半だったかなあ? 大ヒットしました」。>とのこと。

 

最後に長続きする秘訣は、<『商売と屏風(びょうぶ)は広げ過ぎたらあかん』>、<堅実であり続けること>とのこと。ごもっともです。

 

ちょうど30分でした。おしまい。また明日。

補足

ちょっと気になって<紀伊国名所図会>(文化8年・1811年)発刊の高野山を見ましたが、<蓮花谷六軒店 珠数屋>が大きな店舗で商売をやっている様子が描かれていました。これが珠数屋四郎兵衛さんのお店と一致するかは調べないと分かりません。でもすごい繁盛ぶり感じさせてくれます。

 

 


偉人の活用法 <伊能忠敬に学ぶ 地元の偉人、伝える喜び>などを読みながら

2018-10-14 | 大畑才蔵

181014 偉人の活用法 <伊能忠敬に学ぶ 地元の偉人、伝える喜び>などを読みながら

 

今朝は事務所の枯れそうな花たちをわが家のささやかな庭に移してあげました。すぐ枯れることもあれば、去年枯れたのが再び開花するのもあり、それが結構楽しみです。生ゴミコンポストで蓄えた有機肥料が唯一の栄養分ですが、なんとか花たちも頑張ってくれています。いつかほんとの野山で咲き誇らせることができればと思いつつ、死ぬまでにできるかしらとも思うのです。

 

一汗かいた後は読書を楽しみますが、今読んでいる本のいくつかはいつか書いてみたいと思いますが、日曜日は毎日新聞の<今週の本棚>で書評が楽しみです。とりわけ加藤陽子氏のそれはいつも期待に反しません。といってもなかなか書評の本を読めないでいますが。

 

今日は<『誰のために法は生まれた』=木庭顕・著>で、<未来を切り拓く最強のヒント>と呼び込みがとくに強調されています。木庭氏は東大法学部教授を退官されたということで、お堅い書物ばかりと思いきや、題名のように<桐蔭学園の中高生にわかりやすく伝授した書である。>そう聞くと、昔、渡辺洋三氏が『法というものの考え方』を岩波新書で発表され、多くの法学生に読み継がれ、私も一読者となって読んだことを思い出します。

 

でもどうやらこの木庭氏の本はかなり違う印象です。

<人の生きる社会構造をしかと分析させるため、映画「近松物語」「自転車泥棒」を見せ、ソフォクレスのギリシャ悲劇をも読ませる。本物の古典というものは、時々の社会が抱えていた問題群を、遠心分離機にかけたごとくに凝縮し、増幅して見せてくれるものだからだ。>と、加藤書評がズバリと上等な比喩を交えて次のように本質を突くのです。

 

<木庭は言う。人の苦痛に共感する想像力があって初めて、何が問題かが掴(つか)める。よってまず直感せよと。実はここに、本書の企図の核心が潜む。著者は、ローマの人々が何を問題としていたのかに立ち返って考えるという大胆な企てを、中高生と共に始めてしまった。>法そのものを舞台に上げる前に、直感を問うのですね。それもギリシャ・ローマ人の感覚で。

 

それは<「どうしたら社会の中で力の要素がなくなるだろうか」と考える、その地点に生徒を連れて行く。ここに、最も弱い個人に肩入れするものとして「法」が生まれ、権力と利益を巡って蠢(うごめ)き、個人を犠牲にする徒党の解体を体系的に行う仕組みとしての「政治」が誕生する。>と。

 

なぜ本書が未来のためお最強のヒントかについて、加藤氏は<現代は危機的状況にある。国際金融システムは混迷し、内戦に伴うジェノサイドは、終熄(しゅうそく)する気配もない。そのような時代にあって困難な未来を切り拓(ひら)くための最強のヒントをこの本は与えてくれる。>と言及するのです。

 

そしてクライマックスは憲法9条解釈です。

<日本の未来を左右する憲法9条について、ローマ法の核にある占有の論理を引っ提げての著者の分析は、呆(あき)れてしまう程見事なのでご一読を。戦争の惨禍から生まれた日本国憲法が、実力行使を正当化する全経路を絶つべく、いかに厳密な論理で書かれているか、初めて得心できた。>そう言われると、これは読まざるを得ません。

 

と前置きがずいぶん長くなりました。木庭氏もすでに高齢者の仲間入りをされているようですが、今日のテーマはセカンドステージを有意義に生きぬき、郷土はもちろん日本の将来の礎を作った人たちについて、現代においてどう私たちが活かせるかを少し考えてみたいと思います。

 

私自身、セカンドステージの時代に入っていますが、まだ現役を続けています。セカンドステージがきちんと見えないこともあるのかもしれません。そのためこの10年ほどはセカンドステージを見事に生き抜いたと思える人たちを見つめながら過ごしてきました。

 

私が取り組んできた大畑才蔵もそうです。今日の毎日<セカンドステージ伊能忠敬に学ぶ 地元の偉人、伝える喜び>で取り上げられた伊能忠敬はとりわけ著名な偉人ですね。今日の記事を参考にしながら考えてみようかと思います。

 

<伊能忠敬(1745~1818年)の測量隊の一行は約17年かけて全国を歩き、その距離は地球一周を超える約4万3707キロにのぼった。>その忠敬は<50歳を過ぎて天文学を学んだり、全国を回って測量し>、当時としては最先端の測量技術により精密な日本全図「伊能図」を完成させたのですから、前人未踏の業績ですね。

 

私も何冊か忠敬の伝記物を読んだことがありますが、高齢の身で日本全国津々浦々を歩くのですから尋常ではないですね。若い頃から責任感だけでなく胆力があったように描かれていましたが、その通りかもしれません。

 

で、記事で紹介されているのは65歳で仕事を辞め、ちゅうけい先生を慕い、寂れた佐原のまちおこしのため、ボランティアガイドをはじめ、91歳の今も現役で、元気にガイドをつづけている<地元のNPO法人「小野川と佐原の町並みを考える会」副理事長の吉田昌司さん>です。吉田さんは<伊能忠敬が天体観測に使った象限儀のレプリカ>などを使って解説しています。

 

佐原のまちといえば、40年くらい前、一度、水郷のまちとして知っていたので、そのアヤメ祭りを見にいった記憶がありますが、当時は伊能忠敬に関心がなかったのか、そこの出身であることも知りませんでした。年を重ねて分かる魅力でしょうか。

 

忠敬のその業績は、<「佐原町並み交流館」を拠点に、忠敬の旧宅と伊能忠敬記念館>などの施設を中心に、その展示品などで理解が進み、その魅力の一端を体感できるかもしれません。

 

他方で、忠敬の場合、現代的なツールが活躍しているようです。<スマホ片手にたどる足跡 アプリ開発>です。

<忠敬の足跡めぐりのお供にお勧めなのがスマートフォンの無料アプリ「伊能でGo」だ。2017年11月にリリースされ、伊能測量隊が宿泊した全国約3100カ所が登録されている。ユーザーのいる地点から半径50キロ圏内にある宿泊地を画面に表示する。対象となる宿泊地から半径500メートル以内に入ると、画面をタップすれば伊能家の家紋と「到着」の文字が描かれた旗を立てられる。忠敬が滞在した時期や解説も表示される。>

 

たしかにこのアプリがあれば、旅行に歴史体験を重ねられ、しかも伊能測量隊と同じ現場あるいは宿泊地を追体験できるので、お手頃かもしれません。それは佐原のまちづくりとは関係がないかもしれませんが、追体験するような人は当然、拠点である佐原にやってこないはずはないでしょうね。

 

たしかにこういったアプリの活用は、現代では重要なツールとして考えておくべきことかもしれません。しかし、ポケモンGOのような感覚で体験する人が増えることだけではちょっと物足りない感じがします。

 

私にはアプリのプログラミング方法は分かりませんが、より多様な使い方がないのか考えてもらいたいように思ってしまうのは勝手な考えでしょうね。

忠敬のアプリがどうなっているのか分かりませんが、才蔵についてふと思ったのは次のようなことができないかといったことです。

 

たとえば、才蔵が行った小田井灌漑用水事業について、井堰、伏越、渡井などの土木技術について、当時のいくつかの技術を提示して三択にするとか、小田井開設によってビフォーアフターで田畑がどのように変わったかを推定するとか、領地支配・水利支配の歴史的推移を三択で選ぶとか、農作業の日程を空欄にして農作物ごとに穴埋めするとか、年貢料の定め方の種類と是非を問うとか、いろいろ思いつくのですが、アプリの方はちっとも思いつきません。

 

このような駄文は別にして、健康長寿は、歩きが一番かもしれません。才蔵も忠敬も歩き続けました。北斎も普段は家では絵を描く以外怠け者の生活をしていたといわれていますが、他方で、日本各地をいかに歩いているかはその絵の地理的分布からも分かりますね。最後に歩き続けることが目的達成のための、あるいは心豊かに生きるための、一番の秘訣かもしれません。

 

今日はこの辺でおしまい。また明日。