Cafe & Magazine 「旅遊亭」 of エセ男爵

志すは21世紀的ドンキホーテ?
はたまた車寅次郎先生を師に地球を迷走?
気儘な旅人の「三文オペラ」創作ノート

非日常的行動;30年ぶりの「ナイター観戦」!?

2007-10-08 15:15:15 | つれずれ紀行
 自慢にもならないが、我輩ほど野球を観ない人間も珍しいであろう。

 プロ野球3時間近くもダラダラと長い長いゲームをやる。 それをテレビで観戦するなどもってのほか、なにか好きな映画かドラマでも見ているほうがよほど退屈しない。

 という趣味嗜好にして日常的生活習慣を持つエセ男爵にして何故かこの秋、広島市民球場に出向く羽目になった。

 週末10月6日(土)のこと、野球大好き人間の友人に誘われて(渋々ながら)30年ぶりにナイター観戦に行った。 当日は、佐々岡投手の引退登板有りとのこと、いつもがら空きの広島市民球場にして珍しく2万9千7百人以上もの入場者あり、ほぼ満席状態。 我々の陣取った1塁側内野自由席には老若男女且つ善男善女打ち揃って叫ぶは喚くはメガホンは打ち鳴らすは、四六時中大騒音の中に約2時間45分も付き合ったから堪らない!

 ならば、郷に入れば郷に従え!

 いつしか我輩も、広島市民球場の醸し出す何とも表現のし様もない「興奮の坩堝」に嵌り込んでしまい、我を忘れて大声を出し、郷里の三流球団「広島カープ」の熱戦に声援を送りつつ、堪りに溜まった日頃のストレスを発散すべく適度なガス抜きを施しつつ、爽やかな秋の一夜を過ごしたのであります。

 ゲームは、これまた珍しく10対1にて広島カープの圧勝。 9回表の1失点は、佐々岡投手の清く正しい「ホームラン打ってくれ好投」の唯一一球を、これ見逃さず横浜の5番バッター村田は快打! 25号ソロホームランをかっ飛ばした。 引退寸前、18年も頑張った佐々岡投手! これ、お愛想だ!で、あるか。

 広島カープ一筋に18年間、本当にごくろうさまでした・・・



 そして我輩の大好きな前田君に、初めてお目にかかる。

 何故か、我輩は前田選手のフアンなのです!!!

 あの、頑固一徹の職人気質というか、男伊達というか、往々にしてシャイ?と、いうか、、、。 2000本安打達成の時、そしてこの土曜日「佐々岡引退挨拶」の時、彼は、「男泣き」した。 我輩、前田が顔中に涙を流していたのを、視たのであるぞ、、、。

 そう、彼には、ある。 男特有の哀愁と、そこはかとないダンディズムを、我輩は前田選手から感じて止まないのである。 

 そんな思い入れのある前田選手を、双眼鏡で追った、、、。

 下記添付の画像は、試合開始前の練習中に撮影した前田君の雄姿(3人の真ん中)、持参していったNikonの望遠鏡と莫迦著ンデジカメをくっ付けて撮影に挑んだ、、、。
 
            (なんとなくどことなくピンボケだぁ~・・)



 前田智徳選手! 来年も広島カープで頑張ってくださいよ!

 あ~
 テレビで野球観戦しない我輩であるけれど、久しぶりに広島市民球場に出向き、ナイター照明に照らし出された球場の芝生の中にカープフアンと共に佇めば、ストレスは解消し、加えて程好い気分転換になった、、、。 

 
 ありがとう! いやがる我輩を無理やりナイターに誘ってくれた旧友HD君!
           
              また来年も誘って連れて行ってくれぇ~・・・

 ありがとう! 広島カープの選手たちよ、、、。

 ありがとう! 広島カープフアンの「同志たち」よ、、、。

 ありがとう! 佐々岡投手、、、。                    

 さようなら~ 佐々岡投手、、、。


           ----------------------------------------

《参考資料》

『前田智徳』
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
前田智徳 国籍 日本
出身地 熊本県玉名市
誕生日 1971年6月14日(36歳)
身長・体重  175 cm 80 kg
守備位置 左翼手
投球・打席 右・左
背番号 1
年俸 2億1000万円(推定)
デビュー年 1990年
経歴 熊本工-広島東洋カープ
テンプレート
前田 智徳(まえだ とものり、1971年6月14日 - )は、広島東洋カープ所属のプロ野球選手(外野手、右投左打)。熊本県玉名郡岱明町(現玉名市)出身。血液型はAB型。背番号は1。

 <目次>
1 来歴・人物
2 略歴
3 経歴・タイトル・表彰・記録
4 記録達成歴
5 年度別成績
6 人物評
7 前田語録
7.1 プロ入り前
7.2 プロの道へ
7.3 最初の試練
7.4 再び襲った試練
7.5 復活、そして大記録へ
8 関連項目
9 外部リンク

<来歴・人物>
 熊本県立熊本工業高等学校時代には2年時の春・夏、3年時の夏の計3回甲子園出場を果たした。特に主将として臨んだ3年時の夏の甲子園では4番・中堅手として出場し、敗れた2回戦では最終打者(結果は三振)となった。
 1989年ドラフト4位で広島に入団。1990年2月のオープン戦でロッテオリオンズ戦に7番打者として先発出場、5打数5安打(4二塁打)と鮮烈なデビューを飾るなど、高卒ルーキーながら卓越した打撃センスの片鱗を見せた。また2年目の1991年には、1番・中堅で先発出場したペナントレース開幕戦の初回にいきなり初回先頭打者本塁打という形でプロ入り初アーチを記録するなど、入団後、早い時期から何かと注目される選手の一人となった。以後、規定打席到達した年では1991年と2003年の2シーズンを除いてすべて打率3割以上を達成しており、特に1994年と1998年には首位打者争いを繰り広げた。
 しかし、1995年の右アキレス腱断裂後から現在に至るまで、その後遺症などを抱え苦悩する。1998年に後遺症の残る足の負担を軽減するため、中堅手から右翼手へコンバートされた。また2000年夏には左アキレス腱にも断裂の恐れが生じ、手術とリハビリを余儀なくされた。
 その高い打撃技術からレギュラーに定着して以来、歴代の首脳陣から再三4番打者への転向を勧められている。また実際、1994年に三村敏之が監督に就任した際には前年まで4番を打っていた江藤智が3番、同じく3番だった前田が4番という打順を編成した事がある。しかし共に不調に陥り、前田が「僕は4番というタイプではない。長打力のある江藤さんが4番を打つべきです」と三村に意見し、前年までの打順に戻っている。その後2000年、達川光男(晃豊)が監督に就任した際にも4番に指名された。この際も前田は「自分は4番を打つだけの打者ではない」と固辞し金本知憲(現阪神タイガース)を4番に据えるよう懇願したが結局は達川の説得に折れ、承諾。開幕戦で本塁打と犠飛を放つなど活躍し、同年4月の月間MVPを獲得したものの、その後は故障などで不振に陥ると、5月9日の対ヤクルトスワローズ戦では4打数無安打に倒れ、ベンチでひとり涙した。前田本人は「(4番を打つのは)気持ち的に中途半端で、あまり前向きになれなかった」と語っている。その後も歴代首脳陣からは何度も4番の要請を受けているものの、足に不安材料を抱えることから「4番打者は全試合出られるような人間でないとダメ」と前田自ら固辞している。
 なお3割到達回数11回は、現役最多。2003年には右翼手よりも更に負担の少ない左翼手にコンバートされた。2005年シーズンは自身記録を更新し、念願の全試合出場達成を果たした。
 2006年は、かつてのチームメイトであるマーティ・レオ・ブラウン新監督から野手のキャプテンに指名された。開幕当初は打撃技術と出塁率の高さを買われて2番打者に指名されたが、打順を意識し過ぎたためか打撃不振に陥った。しかし、従来の5番に戻ってからは冴えた打棒が復活し、最終的には3年連続の打率3割、5年連続20本塁打を達成。同年シーズン終了時点で現役通算2000安打まで残り94本となり、年俸も大台の2億円を再び超えた(金額は推定)。
 以前はマスコミの前でも寡黙を通すことが多いことなどから「求道者」「侍」などと評される。かつては決勝打を放ったり好成績をマークした試合でもヒーローインタビューに立つことは余りなかった。だが実は饒舌で、主将に指名された2006年からは積極的にお立ち台の要請を受けるようになった他、同年オフのカープ特番ではかなりの饒舌ぶりを披露していた。また同年のファン感謝デーにおいては共にトークショーに出演した森笠繁に凄まじいまでの駄目出しを披露した。

 <略歴>
身長・体重:175cm・80kg
投打:右投左打
出身地:熊本県玉名郡岱明町(現・玉名市岱明町)
血液型:AB型
球歴・入団経緯:熊本工高 - 広島(1990年 - ) 
FA取得:2000年(現在も有資格者)
プロ入り年度・ドラフト順位:1989年(4位)
英語表記:MAEDA
推定年俸:2億1000万円
守備位置:外野手(左翼・(右翼)・(中堅))

(詳細は、こちら、ウイキペディア百科事典へ・・)