何回か旧:志賀高原ホテルのことを書いていますが、これで終わりに。そのかわりしっかりと記録しておきたいと思います。
何故なら今はもう記念館だけになったそのホテルの全盛期を語る人がネット上にいないからです。
写真は小学生当時のわたしと志賀高原ホテル専用スキー場。ざっと40年近く前の写真です。
志賀高原ホテルはたしか昭和6~8年位に出来ました。上高地帝国ホテル、軽井沢万平ホテル等(元の亀屋は明治よりあり)とともに昭和一桁に出来た赤屋根、木造の低層本格的ヨーロッパ風ホテルです。
今のスキーリゾートホテルNO.1の赤倉観光ホテルが昭和12年です。様式は非常に志賀高原ホテルと上高地帝国に似ており明らかに設計者が同じか、それを参考にしたものだと思われます。
万平ホテルは泊まったことがないのでさておき、志賀高原ホテルと上高地帝国は本当によく似た雰囲気を持っていました。
双方とも現地の木材で組まれた外壁、石の暖炉等私が泊まっていた頃でも既に築後30年は経っていたのですが古いながら磨き込まれた重厚な風格を醸し出していました。
最近人気の奥志賀高原ホテルは歴史が意外に浅く、当時出来たばかりの奥志賀高原スキー場に長野電鉄が作ったホテルとして認知されており、高級リゾートホテルとしては若干下にランクされていました。
今や押しも押されもせぬ日本の代表的スキーリゾートホテルです、確かに良いホテルです。
今、志賀高原ホテルを観ようとするのであれば、サンバレー(旧:法坂スキー場)から丸池スキー場に行く寸前に左手に旧館のみ記念館として残してありますのでお暇な方は是非。
サテわたしは小学校3年~大学時代までほぼ毎年1~3週間程度このホテルに泊まってスキーをしていたのですが初めてのスキーヤーにとって(本当のデビューはその前のシーズンの比叡山人工スキー場でしたが)、リフトが1本かかるホテル専用スキー場は、夏はゴルフの練習場になっており、短いながらすり鉢状でなかなか難しいコースでありました。
そこをベースに丸池、蓮池、法坂には毎日のように通い、ミニ遠征でジャイアント、東館山、ブナ平等で遊び、ちょっと足を伸ばして熊の湯、横手方面、また後に出来た奥志賀高原まで行っていたものです。
時にはタクシーで野沢温泉スキー場まで日帰りしたり、竜王越えをして夜間瀬に降りたりもしておりました。
つづく
何故なら今はもう記念館だけになったそのホテルの全盛期を語る人がネット上にいないからです。
写真は小学生当時のわたしと志賀高原ホテル専用スキー場。ざっと40年近く前の写真です。
志賀高原ホテルはたしか昭和6~8年位に出来ました。上高地帝国ホテル、軽井沢万平ホテル等(元の亀屋は明治よりあり)とともに昭和一桁に出来た赤屋根、木造の低層本格的ヨーロッパ風ホテルです。
今のスキーリゾートホテルNO.1の赤倉観光ホテルが昭和12年です。様式は非常に志賀高原ホテルと上高地帝国に似ており明らかに設計者が同じか、それを参考にしたものだと思われます。
万平ホテルは泊まったことがないのでさておき、志賀高原ホテルと上高地帝国は本当によく似た雰囲気を持っていました。
双方とも現地の木材で組まれた外壁、石の暖炉等私が泊まっていた頃でも既に築後30年は経っていたのですが古いながら磨き込まれた重厚な風格を醸し出していました。
最近人気の奥志賀高原ホテルは歴史が意外に浅く、当時出来たばかりの奥志賀高原スキー場に長野電鉄が作ったホテルとして認知されており、高級リゾートホテルとしては若干下にランクされていました。
今や押しも押されもせぬ日本の代表的スキーリゾートホテルです、確かに良いホテルです。
今、志賀高原ホテルを観ようとするのであれば、サンバレー(旧:法坂スキー場)から丸池スキー場に行く寸前に左手に旧館のみ記念館として残してありますのでお暇な方は是非。
サテわたしは小学校3年~大学時代までほぼ毎年1~3週間程度このホテルに泊まってスキーをしていたのですが初めてのスキーヤーにとって(本当のデビューはその前のシーズンの比叡山人工スキー場でしたが)、リフトが1本かかるホテル専用スキー場は、夏はゴルフの練習場になっており、短いながらすり鉢状でなかなか難しいコースでありました。
そこをベースに丸池、蓮池、法坂には毎日のように通い、ミニ遠征でジャイアント、東館山、ブナ平等で遊び、ちょっと足を伸ばして熊の湯、横手方面、また後に出来た奥志賀高原まで行っていたものです。
時にはタクシーで野沢温泉スキー場まで日帰りしたり、竜王越えをして夜間瀬に降りたりもしておりました。
つづく