ぶうちん村、風わたる。

風の吹くまま、気の向くままなんて、なかなかできませんが、楽しみを見つけながら過ごしたいものです。

今が見頃。

2006年02月18日 21時59分44秒 | Weblog
しだれ梅、というと阿久根市大川が有名でよく南日本新聞にも取り上げられる。
大川の梅もいいけど薩摩川内にも大きなしだれ梅がある。
水引小学校から2㎞ほど山手に入っていったところ(広域農道・水引トンネルの西側の出口近く)にあるしだれ梅だ。

時期的には今が見頃だろうが、ここ2~3日の雨で花が散っていまいか心配しながら、今日訪れた。
家人は不在だったが、数台の車が近くに停められ、私が見ている最中には観光バスも乗り付けた。
すばらしいしだれ梅であり、5~6本の梅は満開。家人が大事に世話をしているのであろう。おそらく先代からのものだろうが、庭を囲むように咲いている梅は圧巻だし、ここで梅の香を感じながら酒を一杯、心を許せる友と静かに語る・・・と想像力をたくましくしながら、後にした。
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ふと思い出したこと

2006年02月18日 00時02分03秒 | Weblog
先週8日に作曲家・伊福部昭氏が91歳で亡くなり、14日に告別式が執り行われた。
あの「ゴジラ」シリーズの音楽を担当し、あの有名なちゃらら、ちゃらら、ちゃらららららら・・・の重厚なフレーズを生み出した方である。
私とは日常的に家族ぐるみの親交が・・・全くなかったが、妙にあ~と思った。ゴジラは私の幼年時代の娯楽映画の傑作だったからだ。
伊福部氏が亡くなられ告別式までの約1週間の間に、私の支持する社会民主党は党大会を開催し「自衛隊は違憲」などを含む社会民主党宣言を採択していた。
相変わらずというかむしろ先祖返りした感のある内容の宣言であるという印象がぬぐえなかったし、村山政権下での出来事を思えば「処分を撤回」では済まされないだろうと率直に感じた。
まさに社民党とその支持者にとっては大きな「失われた10年」だったし、これで幕引きとなるはずもないであろうものを私たちに残した。
さて、この2つの全く別個の事象がなぜ心にひっかかってしまったのか。思い当たる節があるので、縷々述べたい。
「ゴジラ」シリーズが銀幕に登場したのは1954年11月。3月アメリカの水爆実験によって日本の漁船が被爆した、第五福竜丸事件である。これを契機に全国的に原水禁運動が高揚した。「原爆許すまじ」が流行し、「二十四の瞳」が封切られた。戦後10年「岸壁の母」がヒットした年でもある。戦争・兵器の悲惨さが強調される一方で、朝鮮半島の緊張から7月に防衛2法が成立し自衛隊ができた。「違憲の自衛隊」は当然激しい論議を巻き起こした。
そんな時に「ゴジラ」は核兵器が産み落とした悪夢として描かれることで国民の共感を得ながらも、一方でその悪の存在・ゴジラに対してまっこうから対決していく正義の存在として描かれたのが自衛隊である。
ノンフィクション作家・日高恒太朗氏が著書で「(ゴジラは)発足したばかりの違憲の自衛隊を容認させるPRという使命を持っていた。怪獣映画は自衛隊のプロパガンダ映画だった」と指摘している、ということを思い出した。
ゴジラ大好き少年の私の心には自然と、核兵器の恐ろしさと自衛隊のカッコよさ(しかし悲しいくらいに弱い)という矛盾する要素がすり込まれた。ゴジラは後に正義の味方になっていくが、防衛軍たる自衛隊なんかよりも私は純粋にゴジラの活躍を期待し続けていた。
しかし実はそれは様々な矛盾をさらに拡大していくだけであり、本質的には何も変わらないということが放置され続けたとも言える。
つまり、正義としての自衛隊が違憲か否かという論議が、映画ゴジラの作曲家が亡くなったというこの時期に再び論議として打ち出されることに妙な感慨を覚えてしまったのである。伊福部氏とは何の関係のないにも関わらず。
とりとめのない話になってしまった。お許しを。伊福部氏のご冥福を祈りたい。
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